誘拐ピエロ
平山芙蓉
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劇場の空気は、嵐と同じ香がした。湿気ていて、混沌としているのに、どこか澄んだ印象の嵐の香が。僕を飲み込もうとするその空気を、かえって深く吸い込んでやる。心を落ち着かせたかったからだ。それが、もっとも手っ取り早く、苛立ちや焦燥をどうにかできる手段だと知っていた。だから、呼吸を意識して、いつも心が空気に飲み込まれないよう、僕は気を遣ってやる。
だけど知っていることが実際に、自分の身体に作用するとは限らない。つまり、その方法が上手く機能してくれたことは、ほとんどないということ。現に今も、肺の膨張に対して、心臓は早鐘を打ち始めたのに、指先や爪先は冬の金属みたく冷たい。
そうやって無駄だと分かっていても縋りたくなるくらい、不愉快な状況に、僕は陥っている。
開幕を報せるけたたましいブザーと共に、客席の照明が落ちて辺りは薄暗くなる。高いところにある天井を仰ぐと、材質の白い闇が、曇天の夜が如く広がっており、光だったモノの名残が、茫々と存在していた。ブザーが鳴り止み、しばしの静寂が挟まった後、ステージの緞帳が徐々に上がっていく。それに合わせて、オーケストラのワルツが始まった。
それは、この劇場を圧迫する嵐の香を弾けさせるに至り、雨の拍手となって周囲に響き出した。
僕はその雨に迎合せず、幕が上がりきる様子を眺める。頭の中では、作戦の概要を伝えるリーダーの声が、雑然とした順に交差していた。要するに、ただのノイズと同じ、全くの無意味な信号の羅列だった。もちろん作戦の概要は忘れていない。こうなってしまうのは、いつも通りの状態だ。
オーケストラの演奏がフェードアウトしていくにつれて、拍手の音も止んでいく。余熱の籠った静寂が訪れると、ステージの真ん中に、スポットライトが当たった。光の柱の中には、誰もいない。しかし、熟れ気味の雰囲気には、あまり似合わない小気味の良い靴音が響いていた。
いよいよ、作戦が始まる。
不愉快な緊張は、僕を八つ裂きにでもする勢いで、一気に高まりを見せた。焦点は言い付けを守らない子どもみたく、うろうろとしており、内臓はシェイカーで混ぜられでもしたかのような酷い吐き気もする。脳内にいた口うるさいリーダーの声は、余計に大きくなって、もはや人間のそれというよりは、獣の威嚇に近かった。
いつも通り。
いつも通りの、最悪。
僕は行動開始の合図を踏むまで、この気持ちの悪さを忘れられた試しがない。緊張なんて言葉で片付けられない、病のような状態を。いっそ、何もかも放って、逃げ出してしまおうか、と考えてしまう。もちろん、そんな愚行を現実に起こしたことはない。それをしたら最後、敵前逃亡をした不義理な男として、地の果てまで追いかけ回され、死をプレゼントされる。だから、というわけでもないけれど、僕はとにかく、この不愉快な自分の症状を、必死に耐えているんだ。
それも、この瞬間までだと知っているから。
靴音は劇場の中を、雨垂れのように木霊する。客席にいる誰もが、スポットライトに視線を注いでいる様が感じられた。奴——、薄汚れた神経を体現したみたいな名物ピエロが、その光を浴びる瞬間を、今か今かと待ち侘びているのだ。
ほら、もうすぐ。
もうすぐ、奴のふざけた靴の先が光を踏む。
一つ、
二つ、
三つ——。
舞台のほとんどを覆う影から、姿が浮かんだ時、僕は素早く、足元のリュックからアサルトライフルを取り出し——、
引金を引いた。
巨大で狂暴な風船が破裂するような音が、いくつも響く。観客たちの青い悲鳴が方々から上がった。会場に潜入しているのは、僕だけではない。短い発射炎と薬莢の跳ねる音があちこちで規則正しく起きて、瞬く間に硝煙の甘い匂で空気を塗り替えていった。
圧倒的な暴力の豪雨。
そう表する以外に見つからない銃撃を、舞台は浴びていた。やがて、緊急事態を報せる小刻みなベルが鳴ると同時に、落とされていた照明が点灯する。パニックに陥った観客たちは、出入り口へと我先に、我先に、と押し合いへし合い逃げ出していき、会場に残ったのは、銃を持つ僕たちだけとなった。
前列に近い位置にいる僕は、銃を構えたまま、すぐさま舞台へと駆け寄り脇に設けられた階段を上る。床板には、蟹とか蟻とかの巣を彷彿とさせる穴が、無数に穿たれていた。舞台の真ん中には、照明の光を反射し、赤黒い輝きを放つ肉塊があった。よく見ると、所々から白い石のような骨が、突き出している。肉塊からは饐えた臭のする液体が溢れており、粘っこさを保ったまま、床の穴へと流れていく。その様子は宛ら、子どもに弄ばれた後、飽きて棄てられたスライムのようで、かつては僕と似た形で、生命と呼ばれるモノがあったとは、とても想像がつかない。
ただ、その事実を物語るかのように、ピエロの仮面が肉塊の一部に被さっていた。血糊に塗れ、ひび割れた箇所があるとはいえ、完全に壊れてはいない。もしかして、最期の最期まで、自らの素顔を知られまいとして、守りきったのだろうか。そうだとすれば、憎むべき相手だとしても、称賛に値するプライドの持ち主だ。
「でも、こうなったのは、お前の責任だ」
僕は肉塊に向かって、この世のシンプルな法則を教えてやる。
「死んじまったら、守りたいモノも守れないんだから、原因なんて作るもんじゃない……」
そう呟いたところで、耳に付けていたインカムにノイズが奔った。
『アルファ4、聞こえるか? 応答しろ』
「……こちらアルファ4」僕は足元の肉塊を見つめたまま、別動隊のリーダーからの通信に応じる。
『奪還対象を保護した』
「外傷は?」
『……生きてはいる』彼の声色は一段、深く沈んだ。
「分かった……」
『ポイント3を通過したら、また連絡を入れる。お前はそれまで、警戒態勢のまま待機しろ』
「了解」
通信が切れると同時に、僕は息を吐く。奪還対象を保護できた。まだ油断はできないけれど、任務は八割方、終わったも同然だ。
今回の任務は、拉致された僕たちの同胞、少女K——というのがコードネームで、本当の名前を口にするのは禁忌とされている——の奪還が目的の作戦だった。彼女はこの世界を変えるための理論を開発した科学者で、僕たちの組織をまとめ上げた功績者で、何より、僕の大切な人だ。そんな彼女の存在を気に入らない立場の奴らが、裏社会で話題の誘拐ピエロを遣わせて、少女Kを攫った。攫われたとはいえ、彼女が殺される心配はしていない。少女Kは、この世界に生きる全ての人間にとって、必要不可欠な存在だ。そんな彼女が万が一にも死亡すれば、敵味方問わずに、厄介な最悪が齎されることは、目に見えている。だからこそ、たとえ少女Kが世界の敵であったとしても、その身の自由を奪う以外の迫害を与えられないと分かっている。
そういう事情があるから、敵は誘拐ピエロを遣わしたのだろう。奴は誘拐という行為以外に興味がないのか、仕事が終われば表の顔であるステージに立つ。そんな単純なパターンばかりだから、作戦立案はやりやすかったし、ついでに派手な見せしめもできたというわけだ。
ともかく、これで僕たちの役割はお終い。あとは時間になったら、合流地点へ向かうことで、作戦は完了する。
手持ち無沙汰になった僕は、舞台から劇場を見回す。出入口付近に、僕の仲間が点々と佇んでいた。死人はほとんどいない。緊急事態に奮起した警備員と、運悪く流れ弾に当たった奴が、少々いるくらいだ。ピエロの雇い主がここへ攻めて来るような気配もない。裏は別の仲間がついているから、問題はないだろう。警戒態勢、なんて命令が出ていたけれど、この調子だとどうしても多少気が抜けてしまう。さっきまで、不愉快な緊張に苛まれていたなんて、自分のことながら全く信じられない。
僕はなんとなしに、ピエロだったモノの傍に屈んだ。血肉の饐えた臭は、さっきよりもマシに感じられた。嗅覚が麻痺し始めたせいだろう。肉の周りには、どこから紛れ込んだのか、既に数匹の蝿が群がっており、嬉しそうに飛び回っている。
こいつは、自分の結末がこんなもので、本当に良かったのだろうか?
人が体験してはならないような、無残で呆気ない死に方で。
誘拐ピエロと称されたこの男の手口は、実に狡猾かつ、シンプルだと聞いている。表の仕事で得た知名度を用いてターゲットに近寄り、油断したところを薬物で動けなくし、自由を奪う。特に女や子ども、裏の顔を知らない人間はこのやり方で拉致するらしい。それとは対照に、彼の裏稼業を知っている人間や、自分よりも格上とされる相手には、暗器や巧妙な罠を使用する。ただ、どのやり方にしても、こいつのこだわりなのか、誘拐した相手を自分の手では絶対に殺さない。たとえ激しい抵抗にあったり、生死を問わないとの命令があったとしても。殺さずに攫って来て、依頼主に届ける。その技術を高く買われているからこそ、大枚を叩いてでも、依頼したい人間が舞い込むのだろう。
そんな悪行に手を染めず、表の仕事だけをしていれば、良かったんだ。
汚れた手で鏡に触れれば、その輝きを曇らせてしまうように、裏の世界に首を突っ込んだ時点で、日の当たる道を歩く選択は消えてしまう。両方を手にしたい欲張りは、たちまちのうちに命を落とす。
きっとこいつも、そのくらいは分かっていたはずだ。誘拐という行為が、何かしらのフェティッシュだったのか、単に金を得るための手段だったのか、真意を知る術はもうないけれど、やめられないのなら、何かを棄てるべきだった。
そうだ、棄てなければならなかったんだ。
万物は悉く、完全無欠には到達できない。
そんなモノは、机上の空論。
だから、全てを手に入れるなんてやり方ではなく、一つを手に取るべきなのだ。
それが、生きるということ。
何かを棄てて、諦めて、それを自らの原動とする。
それができない奴から、この世は潰れていく。
「どうしてお前は、そこまでしてこだわったんだ?」
死ぬと分かっていても、誘拐ピエロとしての自分を、棄てきらなかったのか。
声をかけても、返事はない。
血糊の付着したピエロの仮面の、虚ろな覗き穴が、僕を笑っているだけだ。
まるで、そんなことも分からないのか、と馬鹿にするかのように。
腰を屈めて、僕はピエロの仮面へ手を伸ばす。あれだけの銃撃に晒されながらも、ほとんど傷のない仮面。その下にある顔も、恐らくは綺麗に残っているだろう。
知りたい。
死を恐れなかった誘拐ピエロが、どんな顔で最期を迎えたのか。命が尽きてしまえば、守れないと理解しながらも、守ろうとしたその素顔を。
仮面を掴み、息を呑む。
そして、遂に取り払おうとした瞬間——、
劇場に再び、暗闇が降りた。
「な——」
声にならない声を上げたと同時に、僕は咄嗟に立った。照明の光に慣れきっていた視界はすぐに状況を捉えられず、広がっていくぼんやりとした闇に抗えない。すぐさま仲間に連絡を取ろうと、インカムに手を遣るが、指は自分の耳を空しく押さえただけだ。立ち上がるまでの一秒にも満たない間に、落としてしまったらしい。
敵襲だろうか。
それにしては静かすぎる。
出入口にいた仲間が反応を示す様子はないし、人の動いている気配もない。
やられた?
いや、辺りはこれほどまでに静かなのだ。自分自身、冷静さを欠いていることは認めざるを得ないが、物音を聞き逃すはずはない。
違和感。
何かがおかしい。
身体中の感覚が、必死にそれを訴えかけている。まるで、値の間違いに気付いていない計算を、延々と繰り返す中で得られるような感触。だけど、肝心の原因を明確に突き止めるには至らない。
ともかく、この場を離れて身を守らなければならない。敵の数も武器も分からないのだ。せめて、ステージ袖まで退避して相手の動きを探ろう。
そう考え、足を踏み出したとほとんど同時に、身体は硬い何かとぶつかった。
何だ?
人ではない。もっと無機物じみた硬さ。
身体が動かなくなる。
声を出そうとするけれど、口はパクパクと開閉するだけ。
視界は暗闇に慣れるどころか、更にどっと暗くなった。
判断は頭の中で無数に現れて、選択されないまま、水泡のように消えていく。
違和感。
大きくなっていくそれが、肌の表面を汗となって滑る。
だけど、依然として正体を突き止めることはできない。
次第に呼吸が荒くなっていく。開けた場所にいるはずなのに、圧迫されているかのような錯覚。
やがて、平衡感覚も失われ始めた頃、静けさに沈んでいた鼓膜の底から、雨の音が聞こえて来た。
あるはずのない、雨の音。
あるはずのない、嵐の香。
銃を構える。
銃?
銃だって?
僕はこの手に、銃なんて握っていない。
あるはずの銃を、握っていない。
いや、本当にそんな物騒なモノ、僕は持っていただろうか?
分からない。
確信が矛盾している。
だけど、それを解くことは、どうやら許されていないらしい。
雨の音がより強く響く。
嵐の気配が迫る。
空の軋む感覚が、空気を伝う。
そして、光が闇を割いた。
脈絡もなく射し込んだ光は、闇に慣れきっていた僕の網膜を酷く刺激した。激しい痛みに、僕は目を細める。光景は白く飛んで、何も見えない。耳は濁流のような音を絶え間なく拾い続けていた。周囲はやたらと煙たくて、妙に余ったるい匂がする。
やがて、痛みも引いていくと、ようやく自分の状況が分かるようになってきた。
僕は先ほどまでと変わらず、舞台の上に立っている。同じ状況はそれだけ。今は透明で円筒状のポッドのようなモノに囲われており、スポットライトを浴びていた。眼前の客席には、いなくなったはずの観客たちの影がずらりと並んでいる。シルエットどもの手元では、反復運動が行われており、それがこの雨の再現を起こしているのだと気付く。
頭上を仰ぐと、空気穴の代わりか、筒の天井部はすっぽりと切り抜かれていた。抜け出せるか、とも考えたけれど、かなりの高さがある。脱出は現実的ではない。
視線を頭上から床に遣る。
スモークでも焚かれていたのか、足の高さほどの位置を、煙が這っていた。微かに感じた甘い匂は、こいつが原因らしい。煙の薄膜の下に見える床板に、銃撃で出来たはずの穴はなく、綺麗な状態に戻っていた。
おおよそ、自分の置かれた状況を理解する。でも、どうしてこんなことになったのか、何が起こって僕はここにいるのか、なんて、思考は休まらないくせに、それらしい答には一切、辿り着けない。
とにかく、ここから脱出しなければ。そう考え、ポッドを叩いたり揺すったりするが、重量のせいでびくともしない。出入りができるようなドアもなく、四肢を支えによじ登ろうにも、僅かに距離が足りない。シンプルなクセに、意地の悪い造だ。
そんな僕を嘲笑うかのように、スポットライトの光が、徐にもう一本伸びた。
照らされた舞台の裾。
そこから聞こえてくる、熟れた雰囲気に似つかわしくない、小気味の良い足音。
拍手が輪をかけて強くなった。
何故?
僕は抵抗を諦めて、その姿をじっと見つめる。
「お前は、死んだんだ」
声は、自然と喉を衝いた。
だけど、奴には届かない。
この熱狂の中でそれは、蚊の羽音と同じことだから。
ポッドの向こう側。
スポットライトの先。
緑と黒の太いストライプの入った服と、それに柄を合わせたシルクハット。
白をベースに、涙や星の形なんかがペイントされた、薄ら笑いを模ったような仮面。
間違いない。
そいつは、僕たちが殺したはずの、誘拐ピエロそのものだった。
奴は銃撃を受けたことなど、感じさせないくらいピンピンとしている。客席に向かって仰々しく礼をする姿にも、ぎこちなさはない。どこからどう見ても、生きた人間だ。もし客席の人間に、あいつは肉塊になったのに何故生きているのか、と問うても、笑い飛ばされるだけだろう。
さっきの奴か、目の前のこいつが替え玉か?
襲撃を逆手に取り、僕たちを嵌めた。……いや、それなら他の仲間がいないことに説明がつかない。既に殺されたとしても、僕だけを捕らえたままにしている意味が分からない。そもそも、仮に替え玉を用意したのなら、僕たちの作戦を知っていなければならない。もちろん、どこかから情報が漏れた可能性は考えられる。だけど、ここまで大層な仕掛けを施そうとしたら、何かしらの動きをこちらが察知できるはずだ。
それか常日頃から、こうして襲撃された際の備えをしていた?
そう仮定してみても結局、僕の仲間がいない説明にはならない。
「色々と、考えてるみたいだねぇ」
気が付くと、ピエロがポッドの近くまで来ていた。拍手の音も鳴り止んでおり、奴の声はこちらへよく通った。
「どんな手品を使った?」
僕はピエロの仮面をじっと睨みながら聞いた。よく目を凝らせば、覗き穴の闇の底に、てらてらとした眼光が見えた。それは鬱蒼とした森で、獲物を待ち構える木兎のような、夜に生きる側の気配を孕ませている。
「手品なんて、使っちゃいないさ」
「だったら、お前が死んでいないことに説明がつかない」
「元より死んでいない」ピエロは笑い混じりにそう答えた。
「嘘だ。お前は確かに、僕たちの銃撃を受けて死んだ」
「その『僕たち』というのは、一体どこにいるんだい?」
「それはお前が……」
お前がどうにかしたんだろ——。
そう言いかけて、僕は言葉を失った。
「どうしたんだい?」
僕に問いかけるピエロの声には、陰湿な喜びが滲んでいた。
「ほら、君の言う『僕たち』のことを教えてくれよ」
頭の中が黒い泥のようなモノに、蝕まれていくような感覚。
「顔と、名前と、背丈と、髪型と」
侵されていく感覚に抗うようにして、僕は必死に記憶を開こうとした。
「声と、好物と、コードと、笑顔と」
思い出せる。同じ志を持った彼らのことなら、何一つ間違わずに。
「何でも良いから、君の知っている『僕たち』を教えてくれよ」
だけど、その必死さが、認めたくない全てを、物語っていた。
「そう、そうなんだよ」
ピエロが笑うと、示し合わせたかのように、観客たちも笑う。
「君は最初から、何もしていない」
顎先を汗が伝う。スポットライトの光が、緩やかに僕を焼こうとしているせいだ。
「ボクを殺してもいないし、ボクを殺すための作戦なんて、そもそも存在していない」
「出鱈目を……」
「なら、証明してみせなよ」
僕はピエロの言葉に言い返せなくて、ただ拳をきつく握り、歯噛みするしかなかった。
全ては夢、あるいは妄想の類。こいつの言い分を呑むなら、そういうことになる。ならばどうして僕はそんなモノを患ったのか。どうして、それをこいつが知っているのか。疑問は嫌でも残ったままだ。
「教えてあげようか」
僕の内心を見透かすかのように、ピエロは言った。
「簡単なことだよ。君は、あの子を殺した罪を、ボクに押し付けようとしただけだ。誘拐ピエロなんて名前のボクにね」
「あの子……?」
「お惚けはよせよ」彼は厭味たらしい声で続ける。「君が僕に誘拐されたってシナリオにした、少女のことさ」
「馬鹿を言うな!」僕は語気を強めて、ポッドを叩いた。「どうして僕が、彼女を殺さなきゃならないんだ!」
「君は、彼女を不要とした。たったそれだけのことだよ」
そんなはずがない。僕は、少女のことを大切に想っていた。彼女の重要性を理解しているし、僕はそのためにこれまで戦ってきた。いや、仮にも本当に、これまでの作戦も、それよりもずっと前のことすら、全てが僕の妄想だったとしても、このピエロが口にしたようなことなど、絶対にない。
少女は、必要なんだ。
彼女がいなければ、世界は最悪に満たされてしまう。僕だけではなく、全ての人間にとって彼女は必要な存在だ。それを僕が殺すなんて……。
「そんなことは……、絶対に……」
分かっている。奴の言葉は、否定しなければならない。けれど、その声は剥げたペンキのように掠れていて、今にも消えてしまいそうなくらいに弱々しい。そしてそれこそが、自分が事実から目を背けようとしていることの、証左でもあった。
それでも尚、僕は確信をしない。
少女を殺してしまったのが、僕自身だなんて事実を受け入れられないし、受け入れたくない。
「まだ分からないのかい?」
ピエロはこれまでにないほど、落ち着き払った声色で、僕に語りかける。
「ボクは——、いや、ここにいる全ては、君に棄てられた存在だ」
彼はそっと、ピエロの仮面に手をかける。
「君もまた、君自身に棄てられた」
仮面はゆっくりと外されていき、彼の顔に光が当たっていく。
「ボクは、君だ」
それが、答だった。
ありふれた、チープな答。
スポットライトが落ちて、劇場の全ての照明が灯る。
拍手が四方八方から沸き起こり、シルエットは剥がされていく。
そこに並ぶ連中の顔は全て、僕と同じ顔をしていた。
開けたドレスを身に纏う女も、暑苦しそうな燕尾服を着た男も、
煤けたコートを羽織った老人も、時代錯誤なフリルシャツの子どもも、
誰一人として例外なく、僕の顔をしている。
「やめろ」
僕へと真っ直ぐ視線を向けた『僕たち』は、拍手をしながら狭い通路を通り、こちらに近寄って来る。そして、連中は舞台に上がると、僕のいるポッドへと押し寄せた。硝子越しに、いくつもの僕の顔が犇めき合っていた。そこに貼り付いているのは、僕が忘れてしまった純粋な感情を表したモノばかりで、酷く気分を悪くさせた。
「そんな顔で、僕を見るな」
僕は僕としてずっと生きてきた。
お前たちのような人間を、否定して生きてきた。
お前たちのような人間を、殺し続けて生きてきた。
恥を抱えたまま生きたくも、死にたくなかった。
誰かに縋ることも、
何かを掲げることも、
世界は全て、冷たく笑った。
だから僕は、例外なく殺すしかなかった。
たとえそれが、どれほど大切な人であっても。
「お前たちに、僕の気持ちが分かるわけないだろう!」
僕は耳を塞ぎ、逃げ場のない透明な檻の中で発狂した。
けれど、周りを埋め尽くす『僕たち』は、ポッドに向かってくることをやめない。
どんな衝撃を与えても微動だにしなかったそれに、罅が入った。
茹だるような熱気が、身体を包んでいる。
床板は軋む音を立て、今にも抜けそうな気配がした。
『僕たち』は山のように積み重なり、こちらへ差す光のほとんどを遮っている。
ああ、死んでしまうのか、という実感があった。
なんてことはない。
たったそれだけだ。
僕は、これまで殺し続けた『僕』に恨まれながら死んでいく。
そうか。
自分を殺したのだから、自分が殺されることもまた、当然のことか。
いつからか僕は、現実に生きる自分だけを例外に遣って、
殺されるはずがない、と高をくくっていたのだ。
世界のために殺し続けたのだから、今は許されるのだ、と。
恥の削ぎ落とされた矮小な自尊心の塑像なぞ、一言の衝撃だけで、容易く瓦解してしまうというのに。
「気付くのが遅すぎたんだ」
もう誰のものとも分からない声が、耳朶を掠め、
それとほとんど同時にポッドの硝子は割れて、
床に穴が開いた。
身体がスロゥな動作で宙に浮き、
その視界には数多の僕が雪崩れ込んでくる。
もしも、君たちを愛せていたのなら、
もっと上手な方法で接することができたのなら、
僕は少女を殺さなくても、良かったのだろうか?
そんな問は、ただの幻。
全ては、一片の悪夢。
理解だけがある。
僕は目覚めるのだ、と。
擦り切れていくばかりの、現実へ。
僕は、目覚めるのだ。
誘拐ピエロ 平山芙蓉 @huyou_hirayama
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