家庭教師 5年後
もっさん
前編
-1-
夕暮れ時、賑わい始めた駅前のペデストリアンデッキ。
行き交う人波が、オレンジ色の残光に照らされ、せわしなく流れていく。
焼き鳥の煙と排気ガスの混ざった匂いが漂い、どこかざらついた都会の気配が満ちていた。
森は仕事帰りのスーツ姿で、その人波に身を任せていた。
肩に食い込むリュックの重みは一日の疲れをさらに強調し、ふと足を止めたくなる衝動に駆られる。
その時──
「……あれ?もしかして……森さん?」
耳に届いた声に、森は心臓を掴まれたように立ち止まった。
懐かしい響き。遠くに置き去りにしたはずの過去が唐突に呼び戻される。
顔を上げると、そこに立っていたのは──
「……カズフミくん?」
思わず声が上ずる。
カズフミは白シャツにチノパンという飾らない服装。だが以前より輪郭はふっくらとし、柔らかい印象をまとっている。それでも瞳の奥にあるやさしさは、あの頃のままだった。
「うわぁ、やっぱり森さんだ……全然変わってないですね!」
「そ、そうかな……。カズフミくんは……少し、大人になった感じかな」
「ちょっと太りました。研究室で座ってばっかりなもんで」
そう言って照れ笑いするその仕草に、森の鼓動が跳ねる。
5年前。
あのとき選べなかった答えが、目の前で微笑んでいる。
気づけば二人は、かつて一緒に来たハンバーガーショップの前に立っていた。
「懐かしいな……変わってないんだな、この店」
「ほんと。ここに来ると、あの時のこと思い出しますね」
──あの時。
店内の椅子に座ったまま森が問いかけたこと。
カズフミが「どっちもっす!」と笑ったこと。
その後の、揺れる時間。
抱き合って、唇を重ねて、けれど選べなかった若さの中の本音と嘘。
二人は向かい合い、昔と同じセットを前にしながら、互いの近況を語り合った。
「大学院、忙しい?」
「まぁ……研究で毎日バタバタです。でもなんか今日、森さんに会えたら全部どうでもよくなりました」
冗談のように言ったはずの言葉が、まっすぐに胸に刺さる。
「ずっと、もう一回くらい偶然会えたらいいなって思ってたんです」
一瞬、空気が止まる。
コーラの氷がカランと揺れ、沈黙を埋める。
「今は、彼女とか……彼氏とか、いないの?」
「いないですよ。森さんは?」
「俺も……いないよ」
その瞬間、視線が絡んだ。
過去の続きを探すように。
互いの沈黙が、かえって言葉より多くを伝えてしまう。
やがて席を立ち、外に出ると夜の匂いが街を覆い始めていた。
「……あの、連絡先、交換してもらっていいですか?」
携帯電話を差し出すカズフミの手が、ほんの少し震えていた。
「……うん」
画面に打ち込む指先が、鼓動に合わせて強張る。
数字が並ぶたびに、5年間の距離が少しずつ縮んでいくようだった。
「じゃあ、また」
「うん、連絡するね」
改札へ向かう森を、カズフミは見送った。
その背中が振り返るのを期待して、何度か手を振る。
そして、森は振り返った。
薄暗い街の灯りの中で、ほんの一瞬だけ笑みを浮かべて。
その光景は、カズフミの胸に焼き付いた。
これはもう、ただの偶然なんかじゃない。
──またどこかで。
いや、今度は、ちゃんと始めるために。
-2-
土曜の夜。
駅前の居酒屋の前で待ち合わせをした二人は、少しぎこちなく手を振り合った。
森もカズフミも少しだけ小綺麗に整えた服装。
それに気づいた瞬間、互いに何となく照れ笑いになってしまう。
「じゃ、入りましょうか」
「うん」
たったそれだけの会話が、どうしようもなくくすぐったい。
店内は熱気とざわめきに包まれていた。
サラリーマンの笑い声、ジョッキのぶつかる音。
二人はその一角に座り、メニューを開く。
「森さん、お酒いけます?」
「いや、全然……」
「実は僕もなんです」
一瞬の沈黙のあと、同時に吹き出す。
「じゃあ……つまみだけ頼みますか」
「そうだね」
枝豆、唐揚げ、ポテト、焼き鳥。
コーラの入ったグラスを手にして乾杯する二人。
くだらない話をして笑い合いながらも──鼓動が早まっていた。
ふと料理を取る手が止まり、会話が途切れる。
森が箸を置いた。
視線を落としたまま、息を吸い込む。
「……カズフミくん」
その呼び方は、5年前と同じ。
呼んだ瞬間、胸の奥に張り付いていた痛みがじわりと滲み出す。
カズフミが顔を上げた。
箸を静かに置き、真剣なまなざしで応える。
「どうしました?……森さん」
ざわめく店内で、二人の間だけ別の時間が流れ始める。
森は指の震えを自覚しながら、言葉を探した。
「この前……駅前で会ってからさ、ずっと、心がざわざわしているんだ。忘れたふりしてたのに……また、止まらなくなった」
そこまで言って、唇を固く結ぶ。
背筋に冷たい汗が伝うのを感じながら──
「……俺、やっぱり好きなんだ。カズフミくんのこと」
思いを吐き出した瞬間、胸が痛むほど高鳴った。
言ってしまった。もう戻れない。
カズフミは目を見開いたまま固まる。
わずかに唇が震える。
次の言葉を探すように視線を泳がせ──やがて、顔を伏せる。
「……ずるいですよ、森さん」
低く、絞り出すような声だった。
「え……?」
「そうやって先に言われたら……もう、僕……」
顔を上げたとき、目の縁が赤く濡れていた。
「再会してから、ずっと思ってました。ああ、まだ好きなんだって。でも……もう過去のことだからって、心にしまって。……忘れたふりをしてたんです」
震える声。
それでも、言葉は途切れなかった。
「でも……今、森さんの言葉を聞いて……心の奥に隠してたものが、全部あふれてきて……」
カズフミの手に涙がこぼれ落ちる。
森はゆっくりと息を吐いた。
「……ごめんね。でも……会えて嬉しかった。そして今こうして、やっと……向き合えてる」
その言葉が、カズフミの心の奥に刺さる。
頑なに守ってきた壁が崩れ落ちる音がした。
「カズフミくん……今度こそ……付き合ってみない?」
「……はい」
迷いのない返事。
涙をぬぐった笑顔は、5年前と同じ丸顔の少年のようで──でも、大人の強さを帯びていた。
二人の間に流れる空気が、やわらかく満ちていく。
冷めた唐揚げを見つめながら、森がぽつりと笑った。
「……唐揚げ、すっかり冷めちゃったね」
「……冷めても、まだうまいですよ」
「ふふっ、じゃあもう一皿頼む?」
「やめときましょ。……今日はもう、胸がいっぱいですから」
居酒屋の喧騒の中で、二人だけの時間が確かに流れていた。
5年前に止まっていた時計の針が、今ふたたび動き始めた夜だった。
-3-
夜の風は湿り気を帯びて、アスファルトの匂いをより濃く漂わせていた。
昼間の喧騒が嘘のように遠ざかり、住宅街の通りには、二人の靴音だけが小さく反響する。
森とカズフミは、言葉少なに肩を並べて歩いていた。
街灯に照らされるたび、互いの横顔が淡く浮かび上がり、すぐにまた闇に溶ける。
その繰り返しが、胸の奥に小さな緊張を刻んでいく。
「……あのさ」
森が不意に口を開いた。
声は囁きに近く、湿った夜気に溶け込む。
けれど、そのかすかな震えには、ずっと胸の奥に仕舞い込んできた熱が確かに宿っていた。
「手……つないでもいいかな?」
言葉の重さに、カズフミは思わず足を止めた。
鼓動がひとつ跳ねる。
「……はい」
小さく頷くその声は、夜に沈むほどか細かった。
それでも森には、しっかりと届いていた。
恐る恐る伸ばした指が触れ合った瞬間、互いの温度が不意に交わる。
手のひらに伝わる鼓動は、懐かしさと初めての感覚が奇妙に入り混じり、心をざわつかせた。
「……冷たいね」
「これでも緊張してるんです」
カズフミの苦笑が、夜の静けさに柔らかく溶けた。
森はその手を包み込むように握り、少しだけ力を込めた。
「俺もだよ。……すごく、緊張してる」
ただそれだけで、胸の奥に張り詰めていたものが解けていく。
言葉はもう必要なかった。
歩幅を合わせて歩き出すと、すれ違う夜風が背を押すように通り抜け、つながれた手だけが二人をこの夜に閉じ込めていた。
森のアパートの前にたどり着くと、カズフミが足を止めた。
街灯の光に照らされて浮かぶ横顔は、どこか決意と戸惑いが入り混じっている。
「……このまま、上がっていってもいいですか?」
森は短く息を吸い、目を伏せた。
迷いを断ち切るように、静かに顔を上げる。
「うん。今日は……帰したくないって思ってた」
その言葉に、カズフミは頬を赤らめ、ほんの少し唇を噛んだ。
そして繋いでいた手を、もう一度きゅっと握り直す。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
かすかな笑みを浮かべた声は、震えていながらも温かかった。
見上げれば、空は厚い雲に覆われて星一つ見えない。
それでも二人の間に宿った小さな光は、誰にも消せない強さで、静かに揺れていた。
-4-
森のワンルームは、大学時代から使い続けている六畳の狭い部屋だった。
フローリングの上に折りたたみテーブルとシングルベッドが置かれ、壁際にはファイルが雑然と積まれている。
整頓されてはいるが、生活の跡がそのまま刻まれていた。
「……どうぞ。座って」
森が冷蔵庫から取り出したコーラのペットボトルを、カズフミの前に置く。
二人の間に落ちた沈黙を、炭酸のシュッという音が小さく埋めた。
「……ありがとうございます」
キャップを開けたカズフミが、ごくりと一口。
炭酸の弾ける刺激が喉を下りる音が、静かな部屋に妙に大きく響く。
森も同じように喉を鳴らし、そしてふと、目が合った。
互いに視線をそらせず、短い間が落ちる。
「……森さん」
カズフミが口を開いた。声は小さく、それでいて決壊しそうなものを必死に抑えているようだった。
「今日……告白してくれたじゃないですか」
「うん」
森は背筋を伸ばし、真剣に受け止める。
「……僕、ほんとに嬉しかったんです。だって、あの時からずっと……森さんのこと、忘れられなかったんで」
その言葉に、森の胸が熱く揺さぶられる。
「ほんとに?」
「ええ。大学に入って、彼女と別れてからも……誰を見ても、心のどっかで森さんと比べちゃって。結局、誰も超えられなかったんです」
カズフミは照れ隠しのように笑いながらも、目はまっすぐで、ごまかしがきかなかった。
森はその視線に射抜かれるように、心の奥を掴まれる。
「……俺の方こそ。初めてカズフミくんを見た時から、気になってた。でも家庭教師としての立場もあったし、どうしていいか分からなくて……」
「知ってますよ。森さん、いっつも距離取ろうとしてましたもん」
「……バレてたか」
二人とも声を出して笑った。
だがその笑いはすぐに静かに消えて、柔らかい沈黙に変わる。
森はコーラのボトルをテーブルに置き、ゆっくりと息を整えてから言った。
「……もう、我慢する理由はないと思う。俺……カズフミくんのこと、本当に好きだ」
「僕も……森さんが大好きです」
その瞬間、カズフミの声がかすかに震えた。
森はその震えを包むように、そっと手を伸ばす。
指先が触れ合った途端、帰り道で感じた熱よりもはるかに強い鼓動が、二人の間を走り抜けた。
「……ねぇ、森さん」
「ん?」
「キス、していいですか」
森は答えず、ただ深く頷いた。
次の瞬間、カズフミが身を乗り出す。炭酸の甘い香りが近づき、互いの体温が触れ合うほどの距離で、唇が重なった。
それは短いはずなのに、永遠のように長く感じられた。
渇いた心を確かめるように、想いを重ね合わせるように、ただ真っ直ぐに。
唇が離れたあと、二人は呼吸を整えながら見つめ合った。
森の目に映るカズフミは、どこか泣き出しそうで、それでも笑っていた。
「……夢じゃないですよね」
「どうやら夢じゃないみたい。俺たち、本当に……始まってる」
部屋の小さな灯りの下、二人の間だけが柔らかく光っていた。
テーブルの上で、まだ少し冷たいコーラが、ぱちぱちと静かな音を立て続けていた。
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