炎に抗うもの、風に飲まれるもの #12


さっきまで雨上がりで澄んでいた空は、再び重たく曇り始めていた。湿った空気が森を包み込み、張り詰めたような静けさがあたりに満ちていた。


ネコサウルスとトカゲくんは、鬼のような顔をした巨大なカマキリと向き合っていた。まるで心の奥底までをも見透かすような鋭い光を宿した、宝石のような黒い目。


その眼差しには冷たい殺意が漂っていた。


トカゲくんは、静かに息を整え、隣のネコサウルスに小さな声で囁いた。



「ネコサウルス……僕が炎を作るまで、少し時間を稼いでくれる?……今から、この森に火をつけるの」



その言葉に、ネコサウルスの金色の瞳が驚きに揺れる。だが、わずかな沈黙のあと、静かに息を吐き、小さくうなずいた。



「……わかった」



その声は優しく、そしてどこか苦笑を含んでいた。



「無茶しないで。……遠くへは行かない、絶対に」



二匹はそれ以上の言葉を交わさず、すぐに動き出した。


ネコサウルスはしなやかな尻尾を大きく揺らし、カマキリの視線を誘った。その仕草は「私が相手だ」と挑発しているかのようだ。すると巨大なカマキリは、不気味な羽音を響かせながら羽を広げ、一気にネコサウルスへ襲いかかった。


その隙をついて、トカゲくんはすばやく森の奥へと駆け出した。湿った地面に足を取られぬよう慎重に動き、葉で編んだ小さな袋を懐から取り出した。


そして、その中の液体を一口飲み込むと、大きく息を吸い、乾いた草に向けて熱を吐き出した。



「ボッッ」



口から放たれた炎が草にまとわりついた。だが、炎は生まれなかった。



「……え?」



目を見開き、もう一度息を吸い直して吹き出してみる。けれど、結果は変わらなかった。


何も変わらない状況に、トカゲくんは戸惑い始めた。ネコサウルスが今、自分のために必死にカマキリと戦っているというのに、何もできない自分が情けなかった。


必死に戦うネコサウルスの姿を思い浮かべながら、トカゲくんは、何度も何度も炎を起こそうと試みた。だが、炎は弱々しい青い光を放つばかりで、乾いた草すら燃やすことができなかった。


トカゲくんはしばらくの間、その原因について考えることにした。


そのとき、ふと鼻をくすぐるような焦げた草のにおいが漂ってきた。それとともに、暗く染まっていたトカゲくんの表情は、ますます明るさを取り戻していった。



「……そうか……湿気……!」



雨上がりの森。空気も地面も水分を多く含んでいたのだ。炎が燃え広がらない理由に気づいたトカゲくんは、すぐに立ち上がった。



「諦めない……絶対に、諦めない……!」



決意を固めたトカゲくんは、袋に残った最後の液体を口に含み、より乾いた草を選んで集めた。そして、風を遮るために葉で囲いを作り、小さな炎を育てる準備を整えた。



「頼む……」



限界を超えるほどの深呼吸。口の中に残るすべての熱を込めて、トカゲくんは全力で吹き出した。



「ボッッッッッ」


パチッ。



微かな音と共に、草の一部が赤く染まり、小さな炎が生まれた。



「やった……!」



その後、トカゲくんは大きな葉を使って風を送り、炎を育てていった。湿った草木にも、徐々に炎が広がり始めていた。



「ネコサウルス……! 火がついたよ! もう少しだけ、時間を稼いでほしい!」



そう叫びながら、近くを流れる小川を指さす。



「炎がこの森を囲んだら、あの川に逃げようね!」



その声に応えるように、ネコサウルスは疲れ切った体を奮い立たせ、小さくうなずいた。だが、その目は燃えるような決意に満ちていた。



「ここで……決める……!」



地面を蹴って高く跳び上がる。そして、しなる尾で隠していた石をカマキリに向けて弾き飛ばした。



ゴッ──!



石はカマキリの頭部に命中し、その巨体が一瞬だけ動きを止めた。


その隙を逃さず、ネコサウルスは全身の力を込め、カマキリの後頭部を後ろ足で蹴りつけた。



---



指先ほどの小さな火は、あっという間に広がっていった。


今や、トカゲくんとネコサウルスがいるこの森全体が、炎の海に包まれていた。黒く煤けた太い枝が、バキバキと崩れ落ちるたび、重く鈍い音が森に響き渡った。煙は空気を濁し、深く吸い込めば肺が焼け付くような痛みが襲った。


ネコサウルスは、かすむ視界の向こうにトカゲくんの姿を捉えた。彼は両手を振り、何かを叫んでいるが、声は風と炎にかき消されてこちらには届かなかった。


けれど、その仕草だけでわかった。



—もう時間がない、早く来て—



ネコサウルスは深く息を吸い、目の前にいる悪魔のようなカマキリから視線を逸らした。もうこの森にはいられない。


しかし、カマキリはまだ元気そうに彼女の前に立ちはだかっていた。炎に包まれても怯える様子はなく、むしろじりじりと近づくその姿は、まるで地獄から蘇った亡者のようだった。


一方、ネコサウルスの体力は、もはや限界に近かった。


荒く上下する胸。よろける足。今この瞬間も、気力だけで立っている状態だったのだ。


このままでは、二匹とも炎に呑まれてしまう。



(どうする……どうする……)



ネコサウルスは焦燥に駆られながら、鋭い目つきで木々の上を見渡した。


そして、頭の中でいくつもの策を巡らせる。



(カマキリを無視してトカゲくんの元へ? でも、それでは奴がついてきてしまう。それとも、このまま立ち向かう? いや、そうするには、もう体が動かない……)



決断の猶予は、もはやなかった。


答えが出ないまま、鼓動だけが激しくなる。


それでも、彼女の目には光が灯った。震える瞳に、決意が宿る。



「……賭けるしかない」



その一言を心に刻むと、ネコサウルスはいきなり燃え盛る森の奥へと駆けだした。


それと同時に、巨大なカマキリもまたネコサウルスのあとを追いかけ始める。


背後で、カマキリの鎌が鋭く振り上げられた気配がした。すぐ後ろにいる。息づかいが背中にかかるほど、近い。


今だ。


ネコサウルスは、燃え落ちかけていた大木の下へと飛び込んだ。


次の瞬間、バキッという音とともに、太い枝が崩れ落ちた。ネコサウルスは最後の力で体を反転させ、間一髪でそれをかわした。



「ぐっ……!」



背中をかすった木の破片が熱を持った痛みを残したが、立ち止まっている暇はなかった。歯を食いしばりながら、息を整える間もなく、再び走り出した。


その瞬間、風が変わった。



ゴオオオオオッ!!



耳をつんざくような音と共に、強烈な暴風が森を駆け抜けた。


炎は暴風に煽られて天高く舞い上がり、赤黒い煙が空を覆い尽くした。視界が完全に閉ざされる。


そして、冷たい雨が降り出した。


風はますます激しさを増し、木々が次々と倒れていく。だが、その中で枝にしがみついていたネコサウルスの脳裏には、ひとつの不安がよぎった。



(……トカゲくんは、どこ?)



その疑念が脳裏をかすめたと同時に、過去の記憶が一気に甦った。あの森の奥深くに足を踏み入れた時、不自然に折れた木々や異様な生態系をなす森の光景。


「何かが森を荒らした痕跡だ」と思っていたが、あの時は、その正体が分からず気に留めていなかった。


今になって理解する。


これだ。今の、この嵐こそが森を壊した元凶だったのだ。


雷鳴が轟き、嵐が木々を唸らせ、枝葉を吹き飛ばしていく。


煙と霧に包まれた中、ネコサウルスは必死に周囲を見渡した。だが、トカゲくんの姿はどこにもなかった。さっきまで自分を追ってきたはずの巨大なカマキリも、いつの間にか消えていた。


胸が締め付けられる。



(……まさか、トカゲくんまで嵐に……?)



心臓が激しく脈打ち、冷たい汗が首筋を伝った。



(守れ...なかった……)



押し寄せる罪悪感と後悔が、彼女の心を押し潰した。


もっと早く決断していれば。もっと強ければ。結果は変わっていたのだろうか。



(そもそも来るべきじゃなかった...こんな場所に...)



ネコサウルスの瞳が潤み、熱い雫がこぼれ落ちそうになった。


その時だった。


握っていた枝が「メキッ」と嫌な音を立てた。


次の瞬間、風に煽られて真っ二つに裂けた。



「っ……!」



叫ぶ暇もなく、ネコサウルスの体は宙に放り出された。


凄まじい風が皮膚を裂くように叩きつけ、何かが頬を強く打った。


もう、自分の体は自分のものではなかった。


翼もない。爪も届かない。


何もかも、制御できないまま、風に翻弄されていった。


薄れゆく意識の中、ネコサウルスは心の中で叫んだ。



(ごめん、トカゲくん……)



重く瞼が閉じられた。


轟く風の音が遠ざかり、やがて静寂が訪れる。


それは、長い眠りの始まりだった。


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