『犬っころ、月に転がされる』
鈑金屋
第一章:犬っころは雨に濡れて
夕立は、いつも急にやってくる。
昼過ぎまでギラギラ照っていた太陽が雲に呑まれたかと思えば、ドバァッと容赦なく降り出す。アスファルトを打つ雨粒はどこか怒っているようで、そこを走るわたし――早乙女こまちの頭にも肩にも、これでもかと叩きつけてきた。
「っ、クソが……!」
顔にかかる水を拭いながら、わたしは商店街のアーケードに駆け込む。だけど、雨風は吹き込み、髪は濡れ、スカートも貼り付いたままだ。
財布も持ってない。スマホは家に置いてきた。いや、叩きつけてきた。親と言い争って、売り言葉に買い言葉で「出てってやる!」と叫んだのが、ほんの三十分前のこと。
「はぁ……何やってんだろ、あたし……」
アーケードの屋根の下、小さくうずくまりながら、独り言が口をついて出る。
濡れた服が体に貼りついて冷たい。くしゃっと縮こまりながら、目の前のシャッターの下りた店の看板を見上げた。――『喫茶
年季の入った木彫りの看板。小さなステンドグラス。閉まってるっぽい。でも、もしも、少しでも雨宿りできたらと、わたしは手をかけた。
――ガチャリ。
自然と開いた。
うそ……やってんの?
「……誰かしら、こんなところで震えて」
低く、やわらかく、それでいて艶っぽい声がした。
顔を上げると、店の奥から出てきたのは――女の人だった。黒髪をゆるく巻いた長身の女性。真っ白なシャツにロングスカート。目元の色気がすごい。なんか、女優?って感じ。
「ごめ、なさい、閉まってるのかと……」
反射的に謝ってしまったのが悔しい。
「閉まってはいるけれど、雨宿りの子犬を追い出すほど冷たい場所でもないわ」
にこ、とその人――
その笑みに、胸がぎゅっとした。
⸻
喫茶店の中は、古いけど、温かい空気に満ちていた。木の香りと、コーヒーの香りと、それからほんのり、バニラのような甘い匂い。
「座ってなさい。タオル、持ってくるわ」
ふわふわと歩いていった遥の背中を見つめながら、わたしはどうしてここにいるんだっけ、とぼんやり考えていた。
言い合いのこと。親の怒鳴り声。なんとなく、全部遠くなっていく。
戻ってきた遥は、大きなバスタオルと、マグカップを持っていた。
「はい。あたためたココア。こういう日は甘いのが一番」
「……ありが、とう……」
タオルの感触があたたかくて、それだけで涙が出そうだった。
「……君、名前は?」
「……こまち。
「こまちちゃん、ね。似合ってる。ちょっと気が強そうな響き」
「……うっさいな」
「ふふ。図星?」
おちょくられてるのに、なんだか嬉しくなってしまう。くそっ、弱ってる時に優しくされると、ほんとダメだ……。
⸻
「あのね、こまちちゃん。ここは“子供お断り”のお店なの。でも今日は……」
遥はわたしの濡れた髪を指で挟み、少しだけ撫でた。
「特別。だって可愛い犬が迷い込んできたんだもの」
「う“っ……!!」
心臓が爆発した。
なにその言い方、なにその顔。ほんとバカにしてんのかよ!?
「誰が犬だよッ! あたしは犬じゃねーっつの!」
「じゃあ……猫かしら? 噛みついてくるところは似てるわね?」
「っ、うるせー!! 関係ねーだろッ!」
わたしはカウンターをばしばし叩いて抗議した。が、遥はひとつも動じず、優雅にコーヒーを淹れ始めた。
……すっげー。なんでだよ。なんでこの人、こんなに余裕あんの……!
⸻
「家出?」
「……」
「違うとは言ってないのね」
遥の声は、追及じゃなくて、そっと押してくる感じだった。
「……あいつらが勝手に怒鳴るのが悪いんだし。あたしがそんなに悪いかよ」
「ふうん。そうね。あなたが悪いとは思わない。でも、寂しそうには見える」
「なっ……!? どこが!?」
「目の端が、きゅっと寂しそうに見えたの」
「うるせえな!」
耳が、熱い。涙は出てこないのに、喉の奥がつまる。
「撫でてあげようか?」
「撫でんな!!」
「ふふっ」
――からかわれてる。たぶん、わたしが思ってるよりずっと。
⸻
雨は、まだ止まない。
「……明日、傘、返しに来るだけだからな」
「うん。待ってる」
「勘違いすんなよ。あたしは別に、あんたのことなんか――」
「好き?」
「ちっげーよ!!」
店の外に出たとたん、顔が真っ赤になるのを自覚してしまった。
雨上がりの空気が冷たくて、でも、心の奥だけはあったかかった。
(第1章・了)
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