名もなき農夫は静かに余生を送りたい

@suzu0825

第3話


風ひとつ吹かぬ穏やかな午後だった。

畑には、つい先ほどまで刈り取られていたカラス豆の残り香が漂っている。地にこぼれ落ちた豆粒をついばみに、群れをなした鳩が舞い降り、白や灰色の羽が陽光にちらついた。


「……あんたが手伝ってくれたおかげで、今年の冬は餓死者を出さずに済むかもしれん」


老人は深く刻まれた皺の奥に笑みを浮かべた。

その背は長年の労苦により大きく曲がり、日に焼けた肌は、雨にも旱魃にも耐え抜いてきた証だった。


「そうか、なら良かった」


寡黙な男の返答に、老人はふと出会った日のことを思い出す。

今では農具を扱う姿が板についたこの男だが、初めて畑に現れた時の眼差しは違った。鋭く、触れれば斬り裂かれるかのような冷酷さを宿していた。


「もう少し留まってはくれんか。……ミシェルも悲しむだろうに」


老人は孫娘の顔を思い浮かべて呟く。

あの子は、亡き父の影をこの男に見出したのだろう。よく後をついて回っては、口下手な彼にからかいの言葉を投げていた。

戦乱が続くこの土地では、男たちは村を離れ、残された女や子供は飢えや略奪に命を奪われていった。それは戦線が膠着した今なお、途切れることのない現実だった。


「爺さん、世話になった」


男はそう短く告げると、肩にかけた袋を背負い直した。


「そう言えば、あんたの名を───」


男は片手を振り、足早に去っていった。


****


夕暮れ迫る山道で、男は足を止める。

沈む陽に照らされた木立は長い影を落とし、どこか不吉な静けさを漂わせている。


「……ここらでいいだろう。何のつもりだ」


低く吐き捨てるような声に、闇の中から笑いが返る。


「あら、やっぱり気づかれちゃった?」


女の声は愉悦を孕んでいた。

次の瞬間、黒髪の女が目の前に姿を現す。人の理を超えた速さで、影そのものが形を取ったかのように。白い肌に深紅の瞳。纏う気配は、人の身では到底持ち得ぬもの。


「俺に何の用だ?」


「ネヴィルちゃんが手も足も出なかった謎の農夫。あなたに興味があるの」


女の唇が艶やかに歪む。

その瞬間、大地が軋んだ。女の周囲に黒炎が噴き出し、空気を焼き焦がす。木々の葉が一瞬で炭と化し、灰が雪のように舞い落ちた。


「誰だか知らんが、迷惑だ」


男は表情を変えぬまま、背から一本の鍬をを引き抜く。

土を耕すための粗末な農具。しかし握られた刹那、呼応するように淡く光を帯びた。


「どうしても知りたいのよ───黒龍魔炎」


黒い炎が蛇のように襲いかかる。

男は踏み込み、鍬を一閃させた。炎が断ち割られ、衝撃で大地が爆ぜる。砕けた岩片が飛び散り、木立を抉り飛ばした。


「ふふ、やはり只者ではないようね」


女は嬉しげに囁くと、指先を軽く払った。

大気が震え、刃のような闇が幾重にも走る。

男は身を捻り、足場を蹴って飛び退いた。刹那、先ほどまで立っていた地面が切り裂かれ、深い溝を穿つ。


「……お前に手加減は難しいぞ」


低く呟く声に、女は紅い瞳を細めた。


「大した自信だこと。我が名は魔王ネフェルティ、冥土の土産に覚えておくことね」


夕闇の中、黒髪が風もないのに揺れ、魔王の微笑が浮かぶ。

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