もう一人の無口な私

完結

朝の光がカーテンの隙間から柔らかく差し込む。目覚めると、床に映る自分の影に息を呑んだ。昨日まで、ただ私の動きを追っていただけの影が、今日は微妙にずれて、まるで独立した意志を持つかのようにじっと立っている。手を上げても、影は同じ動きをせず、私の胸の奥を静かに試すように見つめていた。


鏡の中の自分はいつも通りだ。寝癖だらけの髪、半ば眠りぼけた目。しかし、窓際の影は微かに歪み、手のひらに重さを押し付けるような存在感を放つ。心臓が跳ね、胸がざわつく。夢なら覚めてほしい――そう願うが、影は確かに現実の中にあった。


学校への道すがら、影は微妙に先を行くかのように揺れ、時折立ち止まる。街の喧騒に紛れても、その視線から逃れることはできない。人々は何も気にせず歩き、風に舞う落ち葉がカサカサと音を立てる。だが私の意識は影に捕らえられ、胸の奥がざわつき続けた。


教室では、影が机や椅子の上で微かに揺れ、私を見つめる。手を動かそうとしても筆が震え、文字は乱れる。友人たちの声や黒板のチョークの音も遠く、心は影に囚われたままだ。無言のまま、影は問いかける。「本当の自分を見つめる勇気はあるか」と。


放課後、私は決心して影の後を追った。普段通らない路地、夕暮れの街角。影は先導するかのように揺れ、立ち止まるたび胸がざわつく。導きか警告か、判断はつかない。ただ一歩ずつ、影の示す方向に従う。やがて辿り着いたのは、公園の片隅の小さなベンチ。影は突然立ち止まり、私をまっすぐ見つめた。その視線は圧倒的で、言葉以上の重みを持つ。「ここに来てほしかった」とでも言うように。


ベンチには、古びたノートが置かれていた。手に取ると、子どもの頃の秘密や思い出がぎっしり詰まっている。学校での孤独、友人に言えなかった悔しさ、家族にも隠した夢――忘れていた感情が文字として目の前に現れる。影は、忘れた自分を思い出させるために動いたのだと、ようやく理解する。


ページをめくるたび、胸の奥が熱くなる。泣きたいのに泣けなかった日のこと、勇気を出せなかった瞬間、ほんの小さな喜びや恐怖。影は私の心に寄り添い、無言のままそっと見守る。遠くで木々がざわめき、夕暮れの光が長く影を伸ばす。その静けさが、胸の中に深く染み渡る。


日が沈む頃、影は元の位置に戻り、再び私の動きに従うようになった。だが以前の影とは違う。静かでありながら確かな重みを持ち、私の心に寄り添う。帰路につくと、胸の奥に穏やかな安心が広がった。恐怖ではなく、静かな慰め、そして忘れかけていた自分への優しさが感じられた。微かに微笑むと、影も柔らかく揺れ、夜の街に溶け込む。


夜、ベッドに横たわり、天井に映る自分の影を見つめる。もう怖くはない。影は静かにそこにあり、私を見守る教師のようだ。人は誰も、自分の影から逃げられない。しかし時に、影はただの映像ではなく、忘れた自分自身を教えてくれる存在になる――そう、私は初めて知った。深く息を吐くと、影は微かに揺れ、まるで「これからも共に歩こう」と囁くようだった。


静かな夜の空気に、影と私の呼吸が重なる。忘れた感情、隠した恐怖、そして失くしかけた希望。すべてが影とともに、私の中で静かに息づいている。

もう、私は一人ではない――影がいる限り。



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