増補版(文字数が二倍ほどになっています)
夕暮れ時、友人はカフェの窓の外をぼんやりと眺めていた。その横顔は、いつもよりずっと陰りを含み、何か深い悩みがあるのは明白だった。僕は、カップをゆっくりと掌で温めながら、彼女が口を開くのを、ただじっと待った。
「…ねぇ、透明になりたいって、思ったこと、ある?」
その言葉に、僕の思考は一瞬停止し、ココアを飲む手が止まった。
「…透明に? どうしたんだよ急に。何かあったのか、また辛いことでもあった?」
友人は僕の顔を見ず、窓の外の景色に視線を固定したまま、小さく、しかし深くため息をついた。その息遣いには、疲労と諦めが混じっていた。
「もう毎日が、本当に辛いの。息苦しいの。誰かといると気を遣いすぎて、自分が自分でなくなる気がする。常に相手の顔色をうかがって、本音なんて言えるわけがない。かといって、一人でいると、自分がこの世界に存在しているのかさえ分からなくなる…」
彼女の声は、喉の奥から絞り出すような震えを含んでいた。
「誰にも必要とされていないような気がするし、何をやってもうまくいかない。結局、私はどこにも居場所がないんじゃないかって。いっそ、透明になって、誰にも気にされずに生きていきたい。誰の視線も感じずに、ただ、そこにいるだけの存在に…そうすれば、もう傷つくことも、期待されることも、ない」
僕は彼女の言葉に、驚きつつも、その奥底に潜む深い疲弊と孤独を感じ取った。無理に明るい声を出すのは、今の彼女には酷だと直感した。僕もまた深く息を吐き出し、温かいココアのカップを両手で包み込んだ。
「透明に、かぁ。…しんどい時って、自分だけが世界から浮いてるように感じるもんな。そういう気持ちになること、あるよな」
僕は言葉を選びながら、ゆっくりと問いかけた。
「でもさ、もし本当に君が透明になったら、一体どうなるんだろうね? どんな世界が見えると思う? 君自身は、どんな風に感じるんだろう」
友人は、僕の問いかけに、ふと顔を僕に向けた。その瞳はまだぼんやりとしていたけれど、僕の言葉を待つ気配があった。僕は、頭の中でふと浮かんだ知識を、あくまで雑談のように口にした。
「面白いことに、海の底には透明な生物がたくさんいるんだよ。例えばクリオネとか、深海魚の稚魚の一部とか。彼らは、暗くて厳しい深海の世界で、捕食者から身を守るために透明になったんだって。自らの存在を希薄にして、危険から逃れる術を身につけた。まるで、『誰にも気にされたくない』の究極の形だよね。君も、そんな風に、誰からも見つからずに、静かに過ごしたいのかな?」
友人の表情に、微かな変化が訪れた。ほんの少しだけ、興味を引かれたような、考えるような色が見えた。
「うん…そうだよ。私もそうなりたい。誰の視線も感じずに、誰にも見つからずに、ただ、そこにいるだけ…そうすれば、もう傷つくこともない。きっと、心が安らぐんじゃないかと思う」
「なるほどな。傷つきたくないんだな。だから、見つからないように、誰からも隠れたい、と」
僕は優しく問いかけた。
「でもさ、もし本当に君が透明になったら、僕も君を見つけられなくなるよ。隣にいても、君がいるって分からなくなる。話もできなくなるし、こうやって、いつものカフェで、一緒にココアを飲むこともできなくなる。僕が君に話しかけても、返事が返ってこない。それは、寂しくない? 君は、僕からさえも、透明になりたい?」
友人は何も答えず、ただココアの表面に映る自分の顔を、虚ろな目で見つめていた。その表情は、依然として晴れない。むしろ、僕の言葉が、彼女の中に新たな波紋を広げたようだった。彼女の眉間に、僅かなしわが寄った。
「…分からない。寂しい、のかな。でも、それよりも、また期待されるのが、見つかるのが、怖い。誰かの目の中に、自分という存在が映ることが、もう、重荷に感じるんだ。見つけてもらうことの、期待や、失望が」
彼女はそう言って、再び大きく息をついた。その言葉の奥には、深い疲弊と、矛盾する感情が滲んでいた。僕は、彼女の抱える痛みを理解しようと努めた。
「そっか。期待されることの重圧と、失望させることへの恐れか。見られることの怖さ、わかる気がするよ。でもね、君が透明になりたいのは、本当に『誰にも気にされたくない』からなのかな? それとも…」
僕は少し間を置いて、彼女の目をまっすぐに見つめた。
「『誰にも傷つけられたくない』、という気持ちの裏には、心の奥底では『誰かにはちゃんと見ていてほしい』、そういう複雑で、矛盾した気持ちが混ざってるんじゃないかって、僕は思うんだけど、どうだろう? 君の今の辛さは、その矛盾の板挟みになってるんじゃないかな」
友人の瞳に、明確な迷いの色が浮かんだ。視線が揺れ動き、僕から外れて、またココアのカップに戻った。
「…どうだろう。自分でも、よく分からない。見られたくない、のに…誰も私を気にかけなくなったら、本当に私はいなくなってしまうんじゃないかって、そんな恐怖も、確かに少しだけ、ある…」
その言葉は、弱々しいながらも、彼女の本音の片鱗を覗かせた。僕は、その小さな揺らぎを逃さなかった。
「その小さな恐怖が、大事な合図なんだと思う。本当は消え去りたいわけじゃない、ってね。それにね、人間って本来、社会的な動物なんだよ。心理学者のマズローが提唱した欲求段階説でも、生理的欲求や安全の欲求を満たした次には、必ず『所属と愛の欲求』が来るんだ。つまり、『集団に属したい』とか、『誰かに愛されたい、愛したい』っていう気持ちが、人間の根源的な欲求としてある。完全に透明になって誰とも関わらないというのは、もしかしたら、人間が持つその根源的な欲求に反することなのかもしれない。君が感じているそのかすかな恐怖は、きっと、その欲求がまだ君の中にある証拠なんじゃないかな」
友人の視線が、今度はしっかりと僕に戻った。その瞳には、少しだけ、考えるような、あるいは何かを確かめようとするような、深い光が宿っていた。
「私は…人としての当たり前の欲求すら、もう失くしてしまったのかと思ってた。でも、そうじゃない、のかな?」
「失くしたんじゃなくて、傷つくのが怖くて、その欲求に無意識のうちに蓋をしてるだけなんじゃないかな。君は今、すごく辛いんだろう。その辛さも、きっと人生の複雑な『味』の一つなんだと思う。苦くて、重くて、時々飲み込みたくないような味。でも、この苦しみを乗り越える経験は、君がこれからどう生きていくか、そしてどんな『色』をこの世界に見せていくか、そのための良い『参考書』になるはずだよ。逃げるだけじゃ、その参考書はいつまでも開かれないままだ。一歩踏み出せば、きっと新しいページが見えてくる」
僕は、とっておきの提案をするように、少しだけ身を乗り出した。声のトーンも、先ほどより少しだけ力を込めた。
「だからさ、透明になって消える代わりに、少しだけ『特別』になってみない? 君自身の『色』を、もう一度見つけてみないか。君にしか出せない、その唯一無二の『色』で、この世界を彩る側に回ろうよ。透明になるのは、隠れることだ。でも、『色』を持つことは、表現することだ。君が自分らしい色で輝けば、きっとその輝きに惹かれて、君を見てくれる人も現れる。それは、透明になって誰にも気にされないのとは、全く違う景色のはずだ。君だけの、新しい世界がそこにはあると思う」
友人は、僕の言葉をゆっくりと噛みしめるように、静かに、そして小さく頷いた。その口元に、ほんの微かだが、これまでとは違う、柔らかい微笑みが浮かんだのが見えた。まるで、凍っていた心が少しだけ解けたようだった。
「…私に、そんな色、あるのかな」
その言葉には、戸惑いと同時に、微かな希望が宿っていた。
「絶対にあるさ。今は見えなくても、必ずある。そして、それを見つけるのは、君にしかできないことだ。その色がどんな色になるのか、僕も見てみたいな。きっと、とびきり素敵な色だよ」
友人の顔に、ようやく少しだけ、晴れやかな光が差したように見えた。その瞳に宿っていた暗い影が、夕暮れの光の中で、薄れ始めていた。
「透明になりたいって気持ち、すごくよくわかる。誰だって、人間関係で傷つくのは怖いからね。でも、君は透明なだけじゃなくて、世界を彩る、君にしか出せない特別な色になれるはずだよ。僕は、君がどんな色になるのか、本当に見てみたいな」
友人は、もう一度僕をじっと見て、そして初めて、心からの穏やかな笑顔を見せた。その笑顔は、透明になんかなりたくない、と、はっきりと物語っているかのようだった。僕の胸に、温かいものが込み上げてくる。そして、いてもたってもいられなくなり、ふと口から言葉がこぼれた。
「それにさ」
友人が首を傾げ、僕の次の言葉を待った。その顔には、先ほどの苦しげな表情とは打って変わり、優しい期待の色が浮かんでいた。
「僕にとって、君はもうとっくに、すごく特別な『色』だよ。君がいるから、僕の世界はこんなにも鮮やかで、色々な『味』があるんだ。例えば、君が笑うと、僕の世界には太陽の色が差し込むし、君が真剣に悩んでいると、深い海の底のような、だけど静かで美しい青が広がる。もし君が透明になったら、僕の世界も、きっと色を失ってしまう。モノクロの、味気ない世界に変わってしまうだろう。それは、僕にとっても、とても悲しいことだ」
友人は、目を見開いて僕を見た。その瞳に、驚きと、そして微かな、しかし確かに輝く光が宿った。彼女の唇が震え、何かを言いかけようとして、言葉にならなかった。僕は、恥ずかしかったけれど、今だけは、真っ直ぐに友人の目を見て、その思いの全てを伝えようと続けた。
「だから、お願いだから、透明になんてならないでほしい。君のその色で、これからも僕の世界を彩っていてほしいんだ。君がどんな色を見つけて、どんな風に輝いていくのか、僕はずっとそばで見ていたいし、応援したい」
友人は何も言わず、ただ僕の顔を見つめていた。その瞳は、瞬きを忘れ、僕の言葉を一つ一つ、ゆっくりと、深く、受け止めているかのようだった。やがて、彼女の表情に、安堵と、温かで静かな、確かな光が灯った。
友人は、少しだけ震える声で、しかしはっきりと呟いた。
「…ありがとう」
その言葉は、夕暮れの残光に包まれて、僕にとって何よりも、世界で一番、鮮やかな「色」に聞こえた。窓の外は、空がもうすっかり茜色に染まり、街の灯が希望のように瞬き始めていた。
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