桜色の未来へ、君と歩む

揚げ玉海苔夫

誓いの城壁

中学最後の冬。市立高校の入試を終えた帰り道、公園のベンチに座る俺・湊の横で千紗が小さく鼻をすすった。

「……合格、おめでとう」

冷え切った空気にその声は震えていた。

「湊こそ合格でよかったじゃない」

「まぁ……数学がヤバかったけどな。千紗は?」

「物理だけ自信ないかな」

いつもの他愛ない会話。でも交差点の赤信号で立ち止まった時、千紗の手が微かに震えているのが見えた。


今言わなきゃ――

制服の内ポケットにあるシワだらけのラブレターが燃えるように熱い。『ずっと好きだった』と書き殴った紙切れを握りしめているうちに、信号は青へと変わった。

「ねぇ!」

気づけば千紗の腕を掴んでいた。驚いた瞳が瞬きする。

「……どしたの急に?」

喉がカラカラに乾いている。「その……俺は……」言葉が詰まる。もし失敗したら幼なじみでさえいられなくなる恐怖が胸を締めつける。


手を離すしかなかった。「いや……なんでもない」

苦笑いを浮かべた途端、千紗が俯いた。

「湊」

その声は小さくも鋭く響いた。

「私も……言いたいことがあるの」

胸が跳ねる。まさか?

「でも……高校卒業するまで待ってくれない?」

意外な提案に言葉を失う。

「中学が終われば私たちはバラバラだよ。新しい出会いもある……お互いの気持ちが変わってるかもしれないでしょ?」


そうか――これが私たちの「約束」か。

「分かった。もし……まだ同じ気持ちだったら――」

「その時はちゃんと話をしよう」

彼女の笑顔に、くしゃくしゃのラブレターをそっとポケットで握り潰した。


---

高校生活初日。玄関ドアの外で千紗が待っていた。

「おはよ」

「おう」

互いの制服姿がどこか新鮮だ。バス停までの道すがら、彼女はふと口を開いた。

「ねぇ湊。朝ご飯何食べた?」

「目玉焼き。千紗は?」

「卵焼きだよ。同じだね」

微笑む千紗の横顔が眩しかった。クラスは別々になったとしても隣家同士の生活は続く――そう思っていた。



高校につき各々自分のクラスメイトとともに体育館に向かった。ありがたいことに千紗とは同じクラスになることができた。

入学式の喧噪が体育館に充満していた。新入生たちが席を探すなか、湊は見慣れた黒髪を探していた。千紗の姿はすぐに見つかったが——。


「なぁ君」


不意に声をかけられ振り向くと、背の高い男子が立っていた。


「席探してる? ここ空いてるぜ」


そう言って隣の椅子を叩く。制服の襟元からバスケットボールのストラップが覗いている。


「ありがと……佐伯だっけ? 名札見えるから」


「おっ!記憶力いいな。バスケ部希望なんでよろしく」


屈託ない笑顔に少し戸惑う。千紗のほうをちらりと見やると、すでに数人の女子生徒に囲まれていた。あの子も誰か知らない人と話している——。


---


教室に入ると名簿順で席が決まっていた。千紗は廊下側、湊は窓際。遠い距離に胸がざわついた。


「よぉ! 隣同士だな!」


佐伯が机を蹴りながら声をかけてくる。湊は無理やり笑顔を作った。


「おはよ」


教室内に担任が入ってきてHRが始まった。ちらりと千紗のほうを見ると——彼女も湊のほうを気にしているようだ。目が合った瞬間、千紗が小さくウインクした。


(『後でね』)


声はなくても伝わる。でもなぜか胸が締め付けられる。


---


昼休み。中庭のベンチで弁当箱を広げると、千紗が駆け寄ってきた。


「お待たせ! 教室出るタイミング悪くて……」


「全然」


湊は卵焼きをつまみながら千紗の顔を見た。朝よりも少しぎこちない気がする。


「ねぇ……なんか変だよ?」


千紗が少し笑いながら首をかしげる。思わず箸が止まる。


「別に。普通だろ」


言葉とは裏腹に心臓が早鐘を打つ。千紗はしばらく黙っていたが、


「そっか」


と呟いて弁当に目を落とした。沈黙が重い。


---


放課後。玄関で千紗を待っていたが一向に現れない。LINEを開くと着信があった。


『ごめん! クラス委員の会議入った。先に帰ってて』


ため息が漏れた。ひとりで昇降口を出ると、佐伯が立っていた。


「おう! 一緒に帰ろうぜ」


「お前も?」


「部活見学終わって。バスケ部すげぇ活気あるぜ!」


佐伯が楽しそうに話すのを聞きながら歩く。バス停までの道すがら何度も千紗の家の方向を見てしまう。


「なぁ湊。お前千紗ちゃんと付き合ってんの?」


突然の質問に足が止まった。


「は? 何言って……」


「いやさっき教室でずーっと見てたじゃん。それに中庭でも」


佐伯がニヤリと笑う。


「幼なじみだよ。ただの」


嘘をつく自分が嫌になる。でも本当のことを言うのも恥ずかしい。


「ふーん……まぁいいけど」


佐伯はそれ以上追及しなかった。バス停に着くと、


「じゃあな! 来週から本格的に部活始めるから体力つけとけよ!」


大きく手を振って去っていった。ひとり残された湊は空を見上げた。かつては当たり前だった帰り道が、こんなにも寂しい。


(千紗……)


心の中で呟いた言葉が夕焼けに溶けていくようだった。



---

自室に戻った湊はベッドに倒れ込んだ。高校初日は想像以上に疲れていた。


LINEの通知音。千紗からだ。


〈ただいま!〉


短いメッセージに既読マークを付けながら返信を打つ。


〈おかえり。委員会終わった?〉


すぐに返事が来た。


〈うん! 二時間もかかっちゃった(>_

佐伯くんのこととか話してた?


湊の指が止まる。千紗は鋭い。


〈うん。バスケ部入りそう〉


嘘ではない。午後から佐伯とバスケ部の体験に行ったのは事実だ。ただ——。


〈すご〜い! 湊も運動神経いいもんね♪〉


画面越しに彼女の笑顔が浮かぶ。本当は「千紗と話せなかったのが寂しかった」と打ち込みたいのに。


〈千紗は? 何の部活行くか決めた?〉


返信までの間が少し長い。


〈美術部が良さそう! モデルの女の子が可愛いし(笑)〉


その言葉に胸がざわついた。千紗の性格なら当然だ。それでもなぜかモヤモヤする。


〈いいじゃん。才能生かせるね〉


嘘つき。本当は千紗の作品が大好きだ。でも面と向かって言う勇気がない。


〈ありがと! 湊は?〉


質問攻めが続く。これはいつも通りの千紗だ。


〈まだ迷ってる。バスケもいいし……〉


〈でも佐伯くんと一緒だと毎日大変そう(笑)〉


確かに。彼の勢いに押されっぱなしの初日だった。


〈まぁな。でも面白いやつだよ〉


そこで思い出した。教室で目が合ったときのこと。


〈今日はごめんな〉


唐突な謝罪に千紗が戸惑うだろうと思ったが。


〈全然! 私こそ委員会で……〉


すぐに打ち消すような返事。


〈席遠いとやっぱ変な感じだな〉


言葉にしてしまった。画面が一瞬暗くなる。


〈だよね……〉


沈黙のあとに届いた言葉は短い。


〈でもLINEしてるし!〉


その言葉に救われた。千紗も同じ気持ちなのか。


〈そうだな。寝る前に話せて良かった〉


〈私も!〉


最後に猫のスタンプが送られてきた。千紗の好きなキャラクターだ。


〈おやすみ〉


湊はスマホを置いた。窓の外では満月が浮かんでいる。隣の家に灯る部屋の明かりを眺めながら思う。


「遠くても……ちゃんと繋がってる」


明日はもっと話をしよう。席が離れていてもアイコンタクトじゃなくて——直接。


---


次の日。教室に入ると湊は息を呑んだ。前と同じく窓際の席だが、千紗は……廊下側だ。昨日よりもさらに遠い。


「おはよ! 昨日はどうだった?」

佐伯が既に席に着いていた。湊が黙っていると察したのかニヤリと笑う。

「あれ? 千紗ちゃんのこと考えた?」

「違……っ」

慌てて否定するが嘘はバレバレだ。


授業が始まっても集中できない。特に数学の先生が黒板に向かっているとチャンスだ。こっそり千紗の方を見る。


(何してるかな……)

彼女もノートを取っている。長い睫毛が伏せられている横顔が美しい。


不意に千紗が顔を上げた。視線がぶつかる。湊の心臓が跳ね上がる。

彼女がゆっくりと瞬きした。合図のようだ。


(『後でね』)

言葉がなくても伝わる。でもなぜか胸が締め付けられる。


「おい! 聞いてるか? 伊東」

数学教師の声で現実に引き戻される。

「はい……すみません」

「二次方程式の解法を説明してみなさい」

クラス中の視線を感じる。恥ずかしさで顔が熱い。

千紗もこちらを見ていた。今度は彼女の頬も少し赤くなっている。


それから、同じようなもどかしくもどこかいとおしい日々が進んでいった。

---



高校2年の6月。千紗は図書室で一人、分厚い参考書を広げていた。美大受験のための色彩理論やデッサンの問題集が積まれている。しかしページをめくる指は重く、時折深い溜息が漏れる。


「よっ! 珍しく真面目モード?」

突然の声に振り向くと、湊が立っていた。手には同じく分厚い建築系の参考書。

「あ……湊」

「佐伯から聞いたぜ。美大の願書取り寄せたって?」

千紗の肩がぴくりと震えた。

「うん……でも迷ってて」

「どうした? 家庭の事情とか?」

千紗は首を横に振った。

「うちの家計厳しいの知ってるでしょ? 美大ってお金かかるし……それに」

彼女が言葉を切る。図書室の冷房の音だけが響く。

「それに……?」

「もし落ちたらどうしようって。親に迷惑かけたくない」

千紗の目には不安が浮かんでいた。彼女の夢への情熱と現実の狭間で揺れる心が痛いほどわかる。


「悩む時間あるなら行動した方がいいんじゃない?」

湊の言葉に千紗が顔を上げる。

「俺だって建築科狙ってる。金かかるけど諦めたくないからさ」

「でも湊は成績良いじゃん! 私なんて……」


「それは結果論だろ」

湊が静かに言った。

「千紗の絵は本物だよ。小学校の時からずっと見てる俺が言うんだから間違いない」

その言葉に千紗の目が潤んだ。小さい頃から描いてきた絵を認めてくれる人がいる安心感。

「ありがとう……でも怖いの」

「じゃあ一緒に夏祭り行かない? 神社で願掛けでもしようぜ」

突然の提案に千紗が目を丸くする。


---


翌週末の夏祭り。浴衣姿の千紗は少し緊張していた。いつもの幼なじみとの祭りとは違う雰囲気。二人きりなのも初めてだ。

「似合ってるじゃん」

湊の一言に頬が熱くなる。

「湊も……」

普段見せない浴衣姿に見とれてしまう。しかし彼はそれを誤魔化すように歩き出した。

「まずはりんご飴だろ!」

「もう……子どもみたい」

笑いながら追いかける。手をつなぎそうになって慌てて離す。まだ「恋人同士」ではない二人の微妙な距離感。


屋台を巡っているうちに千紗の緊張は解けていった。金魚すくいではお互いの腕前を競い、焼きとうもろこしを分け合って食べる。何気ない時間が愛おしい。


「ねぇ……湊は将来どうなりたいの?」

神社の階段に腰掛けて千紗が尋ねた。

「やっぱり建築家かな。人の暮らしを支える建物を作りたい」

「すごいね……私なんか……」

「まだ言ってる」

湊が千紗の頭を軽く小突く。

「俺が美大行くって言ったら親反対したけど……自分の人生だろ?」

「そうだけど……」

「千紗の絵、世界に一つしかないんだぞ。誰かが必ず必要としてる」

真剣な眼差しに千紗の胸が熱くなる。


「私……」

言葉を探す千紗の耳に太鼓の音が響いた。フィナーレの花火が始まる合図だ。

夜空に巨大な花火が咲く。その光に照らされた千紗の横顔を見て、湊は息を呑んだ。


「私……決めた」

花火の音に負けない声で千紗が宣言した。

「美大に行く。親に反対されても、自分を信じてみる」

その瞳には迷いがない。強い意志だけがあった。

「よく言った!」

湊が思わず叫ぶ。千紗の覚悟に心が震えた。

「湊がいてくれたから……ありがとう」

二人の間に流れる沈黙。言葉ではなく目で通じ合う何かがある。


最後の花火が空を彩る。千紗は湊の袖をそっと掴んだ。小さな勇気。

「これからの季節……もっと忙しくなるね」

「ああ。お互い頑張ろうぜ」

そう言って湊は千紗の頭にポンと手を置いた。その温もりが何よりも頼もしかった。


帰り道、満天の星空の下で千紗は強く決意した。

自分の道は自分で切り開く—その覚悟が彼女の背筋を伸ばしていた。高校生活後半に向けての成長は、ただ夢を選ぶだけでなく、その選択に責任を持つことの始まりだった。


夏祭りから一ヶ月後。千紗は美術室でキャンバスに向かっていた。筆を置く度に溜息が漏れる日々。美大受験のプレッシャーと向き合いながら。


「また溜息?」

顧問の山崎先生が近づいてきた。美術部の卒業生で大学院まで進んだ先生だ。

「すみません……」

「いいんだよ。君くらいの歳の子は皆悩むもんだ」

千紗の絵を見つめる真剣な眼差し。

「でも千紗さんの絵には揺るがない芯がある。迷ってる時こそ大事にしなさい」


放課後。下駄箱で待ち合わせた湊と帰る道すがら。

「どうだった? 美大の模擬試験」

「……自己採点したらギリギリ合格圏内」

「マジか! すごいじゃん!」

湊の素直な喜びに千紗の心が和む。

「でも親にはまだ言えてなくて……」

「言わないとダメだろ。これからもっと金かかるんだし」

湊の現実的な意見に頷くしかない。


その晩。千紗はリビングで両親と向き合った。

「実は……美大に行きたいと思ってるの」

父親の眉が厳しくなる。

「絵を描くのは趣味でいいじゃないか。堅い仕事に就いた方が安定する」

「そうよ千紗。私たちだって必死に貯めたお金なのに……」

母親の声が震えている。

「でも私……絵を描くことが生きがいなの!」

初めて親に反抗する気持ちに戸惑いながらも言葉を続ける。

「湊くんの言葉がきっかけで気づいた。自分の人生だから自分で選ぶって」


次の日。中庭のベンチで湊と並んで弁当を食べる。

「親には話したの?」

「うん……やっぱり反対された」

「そっか……」

「でも諦めない。アルバイトも増やすし……奨学金の申請もする」

千紗の目に強い光が宿っていた。高校生活後半に向けての成長—それは単に進路を選ぶことではなく、自分の意志を貫く勇気を持てたこと。


---


秋風が吹く日曜日。文化祭の準備で学校に残っていた二人。美術部の展示準備を手伝う湊に千紗が声をかける。

「ねぇ……湊も私のこと応援してくれる?」

「当たり前だろ」

即答に千紗の胸が温かくなる。

「ありがとう。それだけで十分だよ」

その言葉に嘘はなかった。湊の存在こそが彼女の支えだった。


「そろそろ帰るか」

校門を出たところで雨が降り始めた。

「傘……持ってないや」

千紗が困った顔をする。

「俺の傘に入れよ」

そう言って湊は自分の折り畳み傘を広げる。小さな空間に肩が触れる距離。

「……近いね」

千紗が小さく呟く。

「しょうがないだろ」

二人は黙って歩いた。言葉はいらない。この距離感こそが彼らの関係性そのものだ。


交差点で別れる時。

「千紗」

湊が立ち止まる。

「……何?」

「なやんで...頑張ったんだな」

その言葉に千紗の目が潤んだ。

「湊のおかげだよ」

そう言って軽く手を振って別れた。彼女の胸には確かな自信があった。この先どんな困難があっても乗り越えられるという覚悟。


翌朝。掲示板に張り出された推薦入学の合格者リストに千紗の名前はなかった。その横で千紗の絵が展示されていた—高校最後の文化祭で描いた「未来への扉」と題された作品。扉を開けて一歩踏み出す少女の姿が描かれている。


「千紗……」

隣で見ていた湊が声をかける。

「大丈夫。これが本当のスタートだから」

千紗が微笑む。そこには悲しみも迷いもない。ただ新たな挑戦への期待だけがあった。



かつての日から千紗は猛勉強の日々を送っていた。毎日美術室に遅くまで残り、デッサンを繰り返す。時折湊が様子を見に来て励ましてくれる。

描いて、修正して美術の先生や様々な参考書を利用して毎日絵の練習をしていた。


そして、受験の日まであと少しというところまできた。


「あと一ヶ月だね」

「ああ。応援してるからな」

その言葉だけで千紗の背筋が伸びる。


受験当日の朝。千紗は普段通りの時間に起きた。緊張していないわけではないが、不思議と落ち着いた気分だ。洗面所で顔を洗いながら湊にもらったお守りをポケットに忍ばせる。


「行ってきます」

母親に声をかけ玄関を出ると、ちょうど湊が家の前に立っていた。

「早いね」

「緊張して眠れなかっただけだよ」

湊が照れくさそうに笑う。彼の姿に千紗の肩の力が抜けた。


試験会場までの電車内。他の受験生たちが必死に単語帳や資料に目を通す中、千紗は窓の外を眺めていた。心の中に昨夜描いたデッサンが鮮明に浮かぶ。あの時の感覚を思い出せば大丈夫—そう自分に言い聞かせる。


「千紗」

突然呼びかけられ振り向くと、同じ美術部だった吉田さんが立っていた。

「おはよう。お互い頑張ろうね」

「うん!」


試験室に入る。室内は緊張感に包まれているが、不思議と千紗には居心地良く感じられた。自分の番号の席に着き、深呼吸して目を閉じる。


「それでは始めます」


合図とともに問題用紙が配られる。千紗は一度全体を眺めてから取り組み始めた。予想外の設問もあったが、なぜか冷静に対処できる。


---


筆記試験が終わり休憩時間。廊下に出て新鮮な空気を吸うと、突然眩暈がした。

「千紗!」

駆け寄ってきたのは湊だ。

「大丈夫?」

「うん……ちょっと疲れたかな」

「水買ってきたから飲めよ」

湊の優しさに胸が温かくなる。

「実技試験も頑張れよ」

「ありがとう」


実技室へ向かう廊下で千紗は深呼吸した。次は自分の得意分野だ。


「テーマは『記憶の中の風景』です。3時間以内に完成させてください」


キャンバスを前に千紗は目を閉じた。思い浮かべるのは湊と一緒に過ごした小学校の図書室。古い木の匂いと日差しの温もり。そして湊の横顔。


筆が動き出す。最初の一本が引かれた瞬間から迷いがなくなった。記憶の中の風景が色づいていく。時間が過ぎるのも忘れて没頭する。


「あと10分です」


千紗は手を止めず最終仕上げに入った。細部まで丁寧に描き込む。この瞬間のために練習してきたのだ。


「実技試験は終了です」


千紗は満足げに自分の作品を見つめた。思い描いたものがそのまま表現できた満足感。達成感に浸ることができた。

---


「なぁ……なんか楽しそうだったな」

湊が試験後の千紗の表情を見て驚く。

「うん! 思った以上に描けたの」

「マジか! さすが千紗」

二人は帰り道で軽食を取りながら談笑した。湊は千紗の手をそっと握りしめる。

「絶対合格してるよ」

「そうかな……」

「俺の勘を信じろよ」

千紗は思わず笑った。この手の感触があるだけで自信が湧いてくる。高校生活後半の成長—それは自分を信じる強さを得たこと。


---


合格発表前夜。湊はベッドに横たわりながら天井を見つめていた。明日は千紗の美大受験の結果が出る日。スマホの通知音が鳴るたびに飛び起きるのに、ほとんどが友達からのメッセージで肩を落とす。


「なんでこんなに気になるんだよ……」

そう呟きながらも考えるのは千紗のことばかり。試験後の彼女の自信に満ちた顔を思い出す。

「頼む……うまくいっていてくれ」


湊は枕を抱きしめて目を閉じた。しかし眠りにつくまでに何時間もかかった。頭の中で千紗の笑顔が何度も浮かんでは消えていく。


翌朝。湊はいつもより早く家を出た。千紗の家の前で待っていると、彼女が制服姿で現れた。表情は穏やかで、目には決意の光がある。

「おはよ!」

「おはよ。行こうか」

二人は黙って歩いた。信号待ちの間に湊がそっと千紗の手を握る。

「大丈夫だよ」

その言葉に千紗が小さく頷く。


校門前に着くと掲示板には既に合格者の番号が貼り出されていた。千紗は深呼吸して近づく。湊も後に続く。

「俺はこっちから見るよ」

千紗が頷く。二人は黙々と番号を追いかけた。


「あ……」


千紗の小さな声に湊が振り向く。彼女の視線の先には自分の受験番号があった。

「合格……」

「マジか!」

湊が思わず叫ぶ。周りの生徒たちが振り返るほど大きな声だった。

「湊……本当に……本当にありがとう」

千紗の目から涙があふれ出る。湊は言葉もなく彼女を抱きしめた。


「あの日……試験会場で湊に会ってから不思議と落ち着けたんだ」

「そっか……よかった」

「湊がいたから……私は私でいられた」


---


春の陽射しが心地よい午後。湊と千紗は校舎の屋上で弁当を広げていた。千紗は美大への合格証書を大事そうに手にしている。


「まさか二人とも第一志望に合格するなんてな」

湊がサンドイッチをかじりながら言う。

「本当に……夢みたい」

千紗の頬が桜色に染まる。


「ねぇ湊」

「ん?」

「私たち……どこまで一緒なのかな」

千紗がぽつりと呟いた。春風が二人の間を吹き抜ける。

「どういう意味?」

「だって……大学は別の道だよ?」

千紗の不安げな視線に湊が苦笑する。


「離れるってわけじゃないだろ」

「でも……」

「建築と美術って似てるよ。人を感動させる仕事だし」

湊がスマホを取り出し検索画面を見せる。

「ほら。現代の建築でも美術的要素を取り入れた作品が多いんだ」


千紗の目が輝いた。確かに最近話題の建造物には美術の要素が色濃く反映されている。

「すごい……」

「俺の夢は人を感動させる建物を作ること。千紗の夢は人を幸せにする絵を描くこと」

湊が真剣な表情で続ける。

「実はさ……卒業制作で共同プロジェクトをやりたいと思ってるんだ」


「え?」

「建築模型と絵のコラボレーション作品。高校最後の大勝負だ」


千紗の胸が高鳴る。二人で何かを作り上げること自体が夢のようだ。

「やりたい!でも……美術部の顧問に相談しないと」


その夜。美術室で顧問の山崎先生に相談すると意外な返事が返ってきた。

「いいわね。私も賛成よ」

「本当ですか?」

「建築科と美術科の交流なんて素晴らしいじゃない」

山崎先生はさらに付け加えた。

「実は建築科の山川先生も似たようなプロジェクトを考えていたの」


---


翌日の放課後。職員室で建築科の山川先生と会った二人は驚愕した。

「まさか……美術科でも同じこと考えてたなんて」

山川先生が笑う。

「建築と美術は切っても切れない関係ですからね」


「千紗さん」

山川先生が千紗に視線を向ける。

「あなたたちの試みは今後の教育モデルになるかもしれません」


帰り道。夕焼けに染まる校門をくぐりながら千紗が口を開く。

「すごいことになったね」

「ああ。まさか先生たちまで乗ってくるとは」

湊が嬉しそうに笑う。


「それでさ……」

千紗が立ち止まり、湊を見上げる。

「プロジェクト名はどうする?」


湊は空を見上げて少し考えた後、真剣な顔で千紗に向き直った。

「『誓いの城壁』」

「誓いの城壁?」

「建築と美術の境界線を越える誓い……そして俺たち自身の」


千紗の瞳に涙が浮かぶ。

「素敵な名前……ありがとう」

「これから忙しくなるぞ」

湊が千紗の手を取り、ゆっくりと歩き出す。

「高校最後の思い出作りだ。最高のものにしよう」


二人の影が長く伸びる夕暮れ。それぞれの道を歩み始めても、心はいつも繋がっている—そんな確信が二人を包んでいた。


---


二人が共同制作を始めたのは春休みの初日だった。当初は単なる卒業制作の予定だったが、山川先生と山崎先生の後押しもあり、高校の代表作品として展示されることになったのだ。


春休み初日。朝7時に湊の家に集まった二人は、早速作業に取りかかった。

「まずは設計図を見せて」

千紗が湊のノートPCを覗き込む。

「ここに千紗の絵を配置したいんだ」

「なるほど……」

千紗が紙に素早くスケッチを描き始める。湊はその様子をじっと見つめていた。


昼食の時間になっても二人は作業を続けた。湊の母が作った弁当を片手に、設計と構想について議論が続く。

「ここの壁面はどうする?」

「もっと大胆な色彩を使ってもいいかも」

「試してみよう」


春休み三日目。美術室を借りて千紗が壁画用の下地を描き始める。

「これは大変……」

千紗が額の汗を拭う。

「手伝うよ」

湊がペンキを持って千紗の隣に立つ。


「でも建築科の作業もあるでしょ?」

「模型はほぼ完成してる。今は千紗の絵に合わせる調整が中心だよ」

「ありがとう」

二人の息が合わさるように作業は進んでいった。


春休み一週間目。建築模型が完成し、千紗の壁画も仕上げ段階に入った。

「この部分の色合いが……」

千紗がキャンバスに向かって悩んでいると、湊が隣に立った。

「こっちの色はどうだ?」

差し出された水彩絵の具に千紗の目が輝く。

「これだ!」


夕暮れの美術室。完成間近の作品を前に二人は静かに語り合った。

「最初は無理だと思ったよね」

「ああ。でもこうして形になろうとしてる」

「湊がいなかったら諦めてたかも」


湊が千紗の手に自分の手を重ねる。

「俺もだよ」


---


卒業式の朝。体育館に設置された作品は二人の努力の結晶だった。建築模型と壁画が完璧なバランスで調和している。


「これが私たちの『誓いの城壁』」

千紗が小声で呟く。

「ああ。俺たちの未来への約束だ」

湊が頷く。




校舎には「卒業式」の看板が立てられ、保護者や在校生で溢れていた。湊と千紗は朝早くから美術室と工作室を行き来し、最後の準備に余念がなかった。


「このパネルは体育館の入り口に」

湊が指示を出す。

「うん、こっちは展示スペースの中央ね」

千紗が大きなキャンバスを慎重に運ぶ。


彼らの共同プロジェクト「誓いの城壁」は建築模型と絵画の融合作品。湊が設計した現代建築の中に、千紗の抽象画を壁面装飾として取り入れた意欲作だ。卒業式のメインイベントとして校長自ら発表を許可してくれた。


「みんな準備はいいかな?」

建築科の山川先生が声をかける。

「はい!」

「万全です」


---


午前中の卒業式が滞りなく終わり、午後からは体育館を開放した卒業展覧会が始まった。在校生や保護者たちが次々と「誓いの城壁」の前で足を止める。



「これはすごいわ……」

「建築と美術の融合ね」

「高校生とは思えない完成度」


評判は上々だった。特に壁面に描かれた千紗の抽象画に注目する人が多かった。

「この絵……触れてみたいな」

「建物全体の印象が変わって見えるわ」


展示場所の隅で二人は安堵の表情を浮かべていた。

「想像以上に好評だね」

千紗が湊の袖を引っ張る。

「ああ。先生たちも驚いてるみたいだ」


「ちょっと君たち!」

美術科の山崎先生が駆け寄ってきた。

「これ見て!」

彼女が差し出したパンフレットには「海外芸術祭出展の可能性あり」と書かれていた。


「海外……ですか?」

千紗が驚いて目を丸くする。

「そうよ。審査を通ればだけど、絶好のチャンスよ」


湊と千紗は顔を見合わせた。大学進学後の新たな目標が生まれた瞬間だった。


---


夕方になり体育館は閉館の時間となった。残ったのは湊と千紗だけ。

「私たちの作品……たくさんの人に見てもらえたね」

千紗が静かに語りかける。

「ああ。これで俺たちの挑戦は終わった」


「いや……違うでしょ?」

千紗が湊の目をまっすぐ見つめる。

「私たちの挑戦はこれからだよ」

「そうだな」

湊が千紗の手を握る。


展示された模型とキャンバスに向かって二人は立ち尽くした。この作品が生まれるまでの長い道のりを思い返す。


---


「この作品には俺たちの全てが詰まってる」

湊が言葉を選ぶように話し始めた。

「俺の建築への情熱も、千紗の絵への想いも」

「それに……私たちの十年以上の時間も」


千紗の目に涙が浮かぶ。

「湊がいたから頑張れたんだよ」

「俺も。千紗がいたからここまで来れた」


夕暮れの光が作品を幻想的に照らす。二人は自然と肩を寄せ合った。

「この先も……一緒に歩いていけるかな」

千紗の小さな声に湊が答える。

「ああ。もちろん」

「約束?」

「約束だ」


---


体育館を出て校門へ向かう途中、桜の木の下で二人は立ち止まった。まだ花は咲いていないが、春の訪れを予感させる温かな風が吹いていた。


「千紗」

湊が真剣な表情で千紗に向き合う。

「俺と付き合ってほしい」

「え?」

「ずっと言えなかった。でも今日は特別な日だから」


千紗の頬が桜色に染まる。

「私……私も」

言葉につまりながらも彼女は続けた。

「ずっと湊のことが好きだった」


春風が二人の間を吹き抜ける。桜のつぼみが揺れる。

「じゃあ……OKってことで」

湊が照れくさそうに頭をかく。

「うん」

千紗が頷くと同時に二人の影が重なった。


---

「さぁ帰ろうか」

手を繋いで歩き出す二人。

「これで本当に高校生活も終わりだね」

「ああ。でも新しい始まりでもある」

「そうだね。大学も……そして二人の関係も」


二人の頭上では、まだ咲かない桜の木々が春の訪れを告げていた。それぞれの道を歩み始めても、心は一つだと確信しながら。

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