第29話 惜別 ②

今日は雨。

お散歩はお預けね。

暖炉の側のロッキングチェアに坐らせてもらい、心地よく木の弾ける音を聞きながら窓の外の雨景色を眺める。

あの日もこんな雨の日だった。


◆◆◆

エルサ嬢のデビュタントボールを数日後に控えた夜、カッセル侯爵は元国王リチャードにオフィーリア公女を守る術として王太子妃の証であるエメラルドの首飾りを身に着けさせるのはどうかと、ひっそりと呟いた。

仕来りでは、王太子の結婚式で儀式として王太子から王太子妃に贈られるものだ。

流石に息子に請われるまま無理を通してオフィーリアに王妃教育を施した自責に駆られていた元国王リチャードは、これでオフィーリアを助けられるとその呟きに乗った。

その後すぐに、国王自ら宝物庫に入り首飾りを持ち出したことを確認したカッセル侯爵は、王太子ジョージの部屋を訪れ、優し気に目を細めて耳元で囁いた。


「王太子妃の証であるエメラルドの首飾りをご存知でしょう?

先ほど、国王陛下自らデビュタントボールの舞踏会に間に合うようにお手元にご用意なさったようですよ。殿下自らがお着けして差し上げればさぞお心強い事でしょう。楽しみでございますね」


国王とその息子たちは自身の意のままに操れると妄信していたカッセル侯爵にとって、誰が王太子であろうと構わなかったのだが、思惑通りに動かず悉く計画の邪魔をしてくるホーエン公爵家と親密なビアンカ王女を親友と明言しているオフィーリア嬢にここで退場してもらえば、ホーエン公爵の影響力を削げる上、ジョージ殿下とエルサ嬢が王太子夫妻になる方がはるかに御しやすいと考えたのだ。欲を言えば、ジョージ殿下にも退場してもらい、姉のビアンカ王女に対して敵対心を隠さない第三王子のチャールズ殿下に自身の孫娘を娶わせればなお良し、とほくそ笑んで高みの見物を決め込んでいたのだ。


国王リチャードが首飾りを持ち出して一夜明けた朝食の後。


「渡す相手は分かっているな」


その言葉と共に父王から渡された首飾りを嬉々として受け取った王太子ジョージは、悲壮なまでの父王の表情に気付く事はなかった。


国王リチャードの行動を知った私は、オフィーリア姉さまの部屋で、ブレナン公爵とレナート兄様、母の王妃、そしてトビアス閣下とホーエン公爵夫妻と共に固唾を呑んで王太子ジョージの訪れを待っていた。

しかし、扉のノックと共に現れたのは、オフィーリア姉さまへの手紙を携えた従者だった。


[親愛なるブレナン公爵令嬢

三日後の舞踏会は、エルサ嬢の記念すべきデビュタントであるため、エルサ嬢をエスコートする事に決まった。

今後のエスコートについても、私の相手はエルサ嬢となる事を伝え置く。

ブレナン公爵令嬢は、どうかブレナン小公爵と共に末永く幸せになってほしい。

ジョージ・フォン・ルクセル]


主語を明確にしない言葉は、聞く者によって全く意味が異なる。

『多くの人は物事を見たいように見て信じたいように信じるのよ』

子どもの頃からよく耳にした、フリーデリケお祖母様の言葉が絶望と共に腑に落ちた瞬間だった。


何という傲慢で誠実さの欠片もなく自分本位な男だろう。

王太子妃の首飾りをエルサ嬢が着けて舞踏会に現れれば、オフィーリア姉さまは毒杯を賜る事を誰よりも知っているはずだ。

それを、末永く幸せになどと。

怒りで目の前が真っ赤に染まった。


すぐに動こうとするホーエン公爵夫妻と王妃とトビアス閣下を押しとどめたのはオフィーリア姉さまだった。


「わたくしは、ジョージ殿下有責にて婚約破棄を宣言致します。

ホーエン公爵閣下、お使い立てすることをお許しくださいませ。

国王陛下へ、国を担う立場でありながら私情を優先して人の命を踏みにじる方へ嫁ぐなど、わたくしの方から死を以てお断りいたしますとお伝え願います」


凛と立ち、ホーエン公爵をまっすぐに見つめて宣言する姿は神々しくさえあった。


「私、ホーエン公爵は、ブレナン公爵令嬢オフィーリア殿の宣言、しかと承った」


ホーエン公爵は、胸に手を当ててオフィーリア姉さまに応じた。

その言葉を聞いたレナート兄さまがオフィーリア姉さまの前に跪いた。


「オフィーリア・フォン・ブレナン公爵令嬢。

どうか私の妻となり、その生涯を共にして下さい」


オフィーリア姉さまは涙を堪え、震える声でレナート兄さまを制した。


「いけません、ブレナン小公爵様。

わたくしは毒杯を賜る身、わたくしを娶った方も同じ運命を課せられます。

貴方はブレナン公爵家を率いる身、道連れにするわけにはまいりません」


立ち上がらせようとするオフィーリア姉さまの手を取り、レナート兄さまはなおも姿勢を崩さず言葉を続けた。


「私の隣はあなたしかいない。あなたの居ない人生は私にとっては死んだも同然。

貴方を失い抜け殻になった私に、ブレナン公爵家を率いていくことは難しいのです。

それに、あの丘で並んで眠るという幼い頃の約束をお忘れですか?

どうか私にイエスの返事を頂けないでしょうか」


戸惑うオフィーリア姉さまに、レナート兄さまはなおも続けた。


「それに、ブレナン領の事なら心配はいりません。私たちの思いを最も良く理解して、意思を違わず導いてくれる方が既にいらっしゃるではありませんか」


レナート兄さまの言葉に、皆の視線が私に集まった。

ブレナン公爵と目が合うと、大きく頷いてくれた。

私は万感の思いを込めて、二人を見つめ頷いた。


「あなたの妻として旅立たせて下さい」


オフィーリア姉さまのその言葉にレナート兄さまは周りの目も気にせずオフィーリア姉さまを抱きしめた。

もう誰にも遠慮なんていらない。


その様子を見て私は決心した。

二人は死なせない。


「レナート兄さまとオフィーリア姉さまが旅立つのはずっと先だわ。

どうして何の罪もない二人が死ななければならないの?

三人でブレナン領で暮らすの。昔みたいに三人で色々な所に行って、またレイヴンを相手に盤上の模擬戦で戦うの。今ではきっと負けないわ。

表向きは亡くなった事になっていても、ブレナンの皆は分かってくれる。

私は二人を死なせないわ」


先ずは婚約破棄を王家に突き付けるべく、ホーエン公爵とブレナン公爵が王へ謁見を要求しに行った。

舞踏会当日、毒杯を賜る前に結婚式を行いたいという二人の希望で、ホーエン公爵夫人が衣裳部へ手配に行き、トビアス閣下にはジョージとエルサにオフィーリア姉さまが毒杯を煽る場に立ち会う様に手配を頼んだ。

そして残ったお母様に毒薬をすり替えるようお願いした。

王家の秘毒は王と王妃にのみ場所と種類、用途を伝えられる。

王族に下賜される毒杯は苦しまず、眠ったように旅立てると伝え聞く。


大人たちが皆退出した後、本来成人を迎える王太子とオフィーリア姉さまの肖像画を依頼していた隣国エヴェール王国のナイトレイ伯爵に事情を伝え、王太子ではなくレナート兄さまとオフィーリア姉さまの結婚式の肖像画を依頼した。

早めに到着して王都に滞在していたナイトレイ伯爵はその日のうちにやってきて、結婚式までの数日間、その印象的な透き通るような瞳で私たちの話をにこやかに聞きながらその様子をスケッチしていた。

私たちはこの三日間、ブレナン領に戻ったらやりたい事のリストを作ったり、騎士団の最新情報を更新して盤上の模擬戦用の駒を作りなおしたり、ブレナンの教会でもう一度結婚式を挙げる為、子供の頃に考えていたドレスのデザインを調整したりと、明るい未来だけを語り合い子供の頃のように屈託なく笑い合って過ごした。

本当に幸せな三日間だった。


舞踏会当日、ジョージとエルサは何の臆面もなく連れ立ってやって来た。

あの重そうな、舞踏会程度のドレスに対しては華やかすぎるエメラルドの首飾りを身に着け、恥ずかしげもなく国王の前にやってくると、いつもの少しあごを上げた得意げな笑顔で挨拶をした。

私には彼女の美しさが全く分からない。


ウエディングドレス姿のオフィーリア姉さまは本当に美しかった。

ベールダウンの大役を拝命した私は間近で微笑まれ、思わず涙ぐんでしまうほどだった。

ブレナン領で、レナート兄さまと二人で誰よりも幸せになってねと声を掛けて、ブレナン公爵と共にバージンロードへ送り出した。


計画通り、母のバーバラ王妃は王から下賜される秘毒を二日間仮死状態になる薬にすり替えていた。眠るように息絶えた後、棺に納められたオフィーリア姉さまはブレナンの領地に着く頃に目覚めるはずだった。


なのに。


コポリと血を吐いた瞬間、まるで最初からこうなる事が分かっていた様に、レナート兄さまはオフィーリア姉さまを力いっぱい抱きしめた。


あぁ、やはり。


王妃教育で王家の秘毒を知るオフィーリア姉さまのささやかな復讐。

一番苦しみ、凄惨な最期を迎える薬を選び、その最後をあの二人に見届けさせたのだ。


苦しみに空を切るオフィーリア姉さまの手をお母様と共に咄嗟に掴んだ。

握りしめて額に当てたオフィーリア姉さまの手から伝わる早鐘のような脈が途絶え、もう握り返してくれなくなった手からぬくもりが消えていくと共に体の奥底から激情が沸き上がる。



赦さない。




◇◇◇

はっと気が付き、速くなった呼吸と鼓動を胸に手を当てて落ち着けようとすると、筆頭侍女として仕えてくれている姪のダフネが慌てて駆け寄り、ショールを掛けて背中を撫でてくれた。

ダフネはフォルン伯爵となった弟チャールズの三女で、相思相愛で結ばれたブレナンの騎士と結婚以来、夫婦で私を支えてくれている。


もう大丈夫ありがとうと声を掛けて、お茶の準備をお願いした。


お茶の支度の為に部屋を出て行くダフネの後姿に、あの後の事を思い起こす。



オフィーリア姉さまを宝物のように抱き抱えるレナート兄さまに付き従い、礼拝堂を後にした。


なぜ涙が出ないの?

私はそんなに薄情な人間だったの?

どうして泣けないの?


髪も化粧も美しく整えられ、眠るように棺の中に横たわるオフィーリア姉さまの側に付き添い、棺が出発するまでずっとそればかりを考えていた。


その頃の事はあまり覚えていない。

ただ、弟のチャールズが側に居て声を掛けてくれていた事は微かに覚えている。


『姉様、お水を飲みましょう』

『少しで良いから何か食べてください。ぶどうはお好きでしょう?一粒で良いので口に入れて下さい』

『オフィーリア様は僕が必ずお守りしますから、少しだけでも眠ってください』


お茶の準備を整えて戻って来たダフネを向かいに座らせていつものように一緒にお茶を頂く。ダフネの淹れてくれるお茶は私が知る中で一番おいしい。

ダフネはチャールズによく似ているわ。顔かたちも過保護なほどに世話焼きな所も。


私、チャールズにお礼を言ったかしら。

あちらに行ったらあの時はありがとうと言わなくちゃ。


『今更ですか? 遅すぎますけど、姉様なら仕方がないので許してあげますよ』


そう言うチャールズの呆れ顔が目に浮かぶようだ。



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