星降る夜の果てを共に
砂山 海
星降る夜の果てを共に
「夏目さんさぁ、これどうなってるの? 前に教えたよね? 話聞いてないの? 寝惚けてるの? それとも俺の事舐めてるの?」
上司に呼び出されるなり、私は彼の机の前で激しい叱責にさらされている。毎日の事だけど、足が震え頭が白くなっていく。
「えぇと、それは……その……えっと」
「あのさぁ、何かあるんならとっとと答えて。暇じゃねぇんだよ。この資料、何で比較と統計が入っていないの? これじゃ意味ないじゃない」
「すみません。それはあとで別紙に」
「見にくいだろ、それじゃあさぁ。一体何度言わせりゃいいのよ」
顔を真っ赤にして怒る上司に、私はもう頭が真っ白で何も浮かばない。冷静な報告も、どうしてそうしたかも、適切な謝罪も。ただうつむき、目を泳がせるだけ。
「すみません、作り直します」
「いいよもう、やらなくて。いつになったらできるのかわからねぇからよぉ」
バシンと机を叩かれ、その音に身体をこわばらせる。私はもう何をすればいいのか全くわからなくなり、ただ申し訳無さそうな顔でうつむき立ち尽くすばかり。
「早く戻れよ、邪魔だから」
「すみませんでした」
頭を下げ、自分の机に戻るけどうまく先程までやっていた作業に戻れない。指が震え、胸が苦しい。部署に六人いるけど、先輩達は知らんぷりで仕事をしている、私は滲む目を堪えながら、ゆっくりとキーボードを叩き始めた。
この会社に入社して半年が過ぎた。五人いた同期はみんな辞めていって、残ったのは私だけ。
最近は朝起きるのが憂鬱で仕方がない。まだ仕事の全容を知ったわけじゃないけど、もう社会人と言うものが嫌になってきた。残業が当たり前なのも、上司が気分屋でいつ怒られるかわからないのも、先輩が無口を通り越してほとんど教えてくれないのも嫌。聞き直せば何を聞いていたんだって怒られるし、確認しようとしても怒られるのが嫌。そのくせ自分達がミスしてもヘラヘラ笑って終わらせるのが嫌。
死にたいとすら思うようになってきた。いや、最近はかなり真剣にそれと見詰め合っている。
だったら辞めればいいと自分でもわかっているけど、なかなかできない。だって私、何もできないんだから。
小中高と平凡な人間だった。よく一緒にいる友達は五人くらいいて、部活もバトミントン部に所属していた。体育会系のノリや雰囲気はわかっているつもり。なんとか偏差値低いながらも大学に行けて、留年する事無く卒業できた。バイトだって経験がある。怒られた事はもちろんあったけど、でもそれなりにやり甲斐はあった。
ただ、ここに入ってからは人格や人生を否定されている気分だ。でも、他に行きたい所は落ちてしまって、受かったのはここだけ。入社三日目から残業させられ、ほぼ教えられないまま業務を押し付けられ、当たり前のようにミスをして怒られる日々。
「夏目さんも辞めた方がいいよ。ここ、絶対おかしいから」
それなりに話をしていた同僚の一人が辞める間際、私にそう言ってくれた。それでも彼女は能力があるから他に移れるのかもしれない。私は何も無いのだ。パソコンもロクに使えないし、社会人としての立ち振る舞いもできていない。入力も遅いし、出来も悪い。
こんな人間、どこに行ったって役に立たないに決まっている。上司からもここ辞めてもお前なんてどこも勤まらないぞと散々言われているけど、それは多分合っているから何も言えない。行動できない。
ただ、辛い事には変わりない……。
「そんな感じでさぁ、もう辛いの」
喧騒溢れる週末の居酒屋の片隅で私はメガレモンサワーをぐいっと飲むと、吐き出すようにそう言いながらうなだれる。その勢いのままジョッキをテーブルにドンと少し強く置いてしまったけど、誰も咎める人はいない。
「莉緒はさぁ、真面目過ぎるのよ。そんなに思い詰めなくても、何とかなるんだってば」
のんびりとしたと言うにはどこか間の抜けた声で親友の浅沼知奈美が焼き鳥を頬張りながら話しかけてくる。別に食べながら話すのはどうでもいい、ただ彼女の言葉が引っかかったから私は顔を上げたのだった。
「何とかならないよ。そんなの世渡り上手とかできる人の言葉なんだよ」
「いや、そうでもないってば。そんなクソジジイと人の心の無い人達の下で働いてもロクな事にならないよ。莉緒は自分が思ってるよりもできるんだってば。もうね、呪いをかけられているのと一緒だから、今」
「呪い?」
何か不穏なフレーズが聞こえたから訊き返せば、知奈美が深くゆっくりとうなずく。
「できる事も駄目出しとかで叱られ続けていると、自分は出来ないんだって思っちゃうじゃない。わかっている事だって本当にわかっているのかって詰められたら、自信が無くなっちゃうじゃない。ある種の洗脳だよね」
「どうかなぁ……私、本当に出来てないんだろうけど」
親友にそう言われても、まだ素直にうなずけない。だって知奈美は私と同じく社会人半年であって、まだまだ何も知らないだろうから。それに比べ、悔しいけど私を叱る人達はもう何年も社会人をやっている人達。だから私が至らない部分をちゃんと把握できているから、あんな風に言うのかもしれない。
「いやいや、冷静に考えてみてよ。半年で何ができるのよ。話を聞いている限り、莉緒の職場は社員教育が酷過ぎるんだって。大学の時に一緒にいたから莉緒の事はわかるけど、莉緒ってそこまでできない人じゃないよ。むしろ真面目で丁寧だから、ちゃんと教えたらすごく良くなるはずだよ。それができないのはもう上のせい」
苦笑いを浮かべながら知奈美がウーロン茶を飲む。私ももう一口レモンサワーを飲み、小首を捻った。
「そうかなぁ。でも、そう言ってくれるのは嬉しいよ。ほんと、知奈美にはいっつも助けられているよ。こうしてお酒飲めないにもかかわらず、飲み会に付き合ってくれるんだからさ」
「私は居酒屋のご飯が好きなの。むしろお酒飲めないから、こういうとこに行きにくい私を連れて行ってくれる莉緒には感謝してるんだよ。それに私、莉緒の飲みっぷりも食べっぷりも好きだし」
「ほんと?」
好きと言われたら嬉しくなるのは当たり前。それが知奈美ならばなおさらだ。
「ほんとほんと。だってさぁ、お酒飲めなくても居酒屋とかは別に入ってもいいのかもしれないけど、でもやっぱり入りにくいよね。焼き鳥とかもさ、スーパーとかで売ってるのよりこういうとこで食べた方がずっと美味しいもん。アサリの酒蒸しとかモツ煮とか、私大好きだからさ」
「渋いの好きだよね。でもいいよ、いっぱい食べて。どんどん食べてよ。ちゃーんと割り勘だからさ」
「それはもう、遠慮なく。だから莉緒も飲みなよ」
私達は笑顔でグラスを重ねた。
けれど感情の波は酔っていると抑えきれず、更に二杯お酒を飲んだところでまた谷へと突入していく。共通の友達が夏休みに九連休取ったとの話を聞いた時、思わず溜息が漏れた。そしてそれはじわじわと私をまた闇の中へ沈めさせる。
「いいなぁ、九連休。私、月に五回しか休みないし、夏休みとか無縁だったなぁ」
「でもほら、九連休取ってもやる事無いじゃない。海外行くお金も無いし、三日で飽きるよ。お金が無いと大型連休なんか意味無いよ」
私はその言葉でメガレモンサワーをぐいっと飲むと、ジョッキを置く。優しく置いたつもりだったのに、ちょっと大きな音がしてしまった。
「嫌な上司とかと九日も会わないのがどれほど幸せな事か」
私だって別に海外に行きたいわけでもないし、何日もどこかで遊んだりなんだりと充実した毎日を送りたいわけじゃない。ただ会社に九日行かなくていいというだけで、どれほど価値のある事か知奈美にはわからないんだ。
「あー、まぁそういう考えもあるね。でも、大分病んでいるね」
「病んでいるよ、もう何が楽しいのかも忘れちゃったくらいに。いやこうして知奈美と会っているのは楽しいんだけど、でもこの一瞬なの。明日になったら苦しいの。死んじゃいたいくらい苦しくて、辛い。ニュースとかで仕事で追い詰められて自殺とかってあるじゃない」
「うん、あるね」
私はまたぐびぐびとジョッキを傾け、脳をアルコールで溶かそうとする。
「なんであれって辞めないで死ぬのか、学生の頃はわからなかった。でも、今ならわかる。逃げられないの。逃げた先に何も無いから。そんな選択肢浮かばないんだもん」
「いや、親友としてそれはわからないで欲しいなぁ」
「私だって知りたくなかったよ」
あの頃呆れて観ていたニュースが身に刺さる。きっと人は自分で見聞きしたものはいずれ我が身に降りかかってくるのかもしれない。それがこれなんだ。
「もう私は駄目なんだよぉ」
また大きく一口飲むと、ジョッキを置いて天井を見上げた。一体どれほどの人が居酒屋の天井を見た事があるだろうか。私はある。そんな些細な特別さにでもすがらないと自分が惨めで悲しくて、切なくなってしまう。
でも酔っ払いには見上げ続けているのが辛くなり、私は机に伏した。
さすがに知奈美は呆れているだろう。こんな社会人としても駄目で、飲んだくれて文句ばっかり言う私なんか面倒臭いと思っているに違いない。もういい、どうでもいい。私なんか所詮こんな人間なんだ。馬鹿でクズで何もできない、生まれてきてすみませんの女。恋愛経験も無ければ人に愛された事も無い欠陥人間。
さよなら知奈美、さよなら親友。私もう、そのポジションは無理だ……。
「莉緒、明日予定ある?」
唐突な問いかけにふと私は我に返る。でも顔を上げたくなかった。
「え、無いけど」
するとパンと一つ手を叩いた音が響いた。その音にびっくりし、私は思わず顔を上げる。目に入ったのはどこか嬉しそうな顔をしている知奈美だった。
「じゃあ、星を観に行こうよ」
にこやかな宣言と裏腹に、私はその意味も意図もつかめなかった。
「え、星? 今から?」
スマホで確認すれば現在夜の七時半、おまけに場所はネオン煌めく繁華街の駅前の飲み屋。今から一体どこに星を観に行くというのか? いやもしかしたらそれは物の例えで、何か他に別の意味があるのかもしれない。
「そう、星を観に行こうよ。たまにはね、空を見るといいんだよ。青空もいいけど、星空もいいもんだからさ。莉緒、最近空って見た?」
「え、いやまぁ普通に見てると思うけど」
……いや、どうだろう。空、最近ちゃんと見たかな。明るいとか暗いとかくらいでしか認識してないんじゃないだろうか。どんな雲があってどんな風に流れてとか、今はどんな形の月とか星がどんな様子なのか、私わからないかもしれない。
今日の空ってどんな様子だったかな……?
「でもね、二人で一緒に見てみようよ。気持ち良いよ。あ、そう言えば明日って莉緒休みだよね? このままドライブで遠くまで行っちゃおうか」
「え、本当に今から行くの?」
「いいじゃない。こういうのはノリが大事なんだって」
元気に笑う知奈美に私はどこかひきつったように笑うのが精一杯だった。
残っていた食べ物をあらかた片付けたが、飲み物は少し残ってしまった。それでも楽しそうにソワソワしている知奈美を見ていると、しょうがないかとさえ自然に思えた。何だかんだ私はこの勢いに何かを期待しているのかもしれない。
お店を出ると少し歩いた所にあるコインパーキングに知奈美の車があった。白いタントが彼女の愛車で、新古車として安く買ったらしい。乗り込むとローズの芳香剤で満たされており、普段なら心地良い香りも少し酔っている私にはちょっときつかった。それでも車内は綺麗に保たれており、フロントガラスのところにちょこんといるネコのぬいぐるみが可愛らしい。
「じゃあ、行こうか」
「あのさ、どこまで行くの?」
「全然決めてない。とにかくこんな街中じゃ見えないから、遠いとこ行こうよ」
車は走り出すとまず国道を北上していく。まだ月すらも見えないほどネオンが煌びやかだけど、十分も走ればそれらは色褪せていく。繁華街が遠ざかり、低層のビルやチェーンの外食店が目立つようになる。街灯が存在感を増してきた時、アパートや低層のマンション、民家も見えてきた。この辺の土地勘はあまり無いけど、同じ市内なので地名も見憶えがある。
「え、まだ先に行くの?」
けれど車は停まる気配が無い。ぐんぐんと先程まで飲んでいた場所を離れ、一人じゃほとんど来た事の無い市の外れまで来ていた。
「もちろん。なんかさー、行ったとこのない場所に行きたいよね。全然知らない土地に行ってさ、気分思い切り変えるのもいいんじゃないかな」
「マジかー。まぁ、知奈美とならいいか。楽しいし」
「その言葉を待ってました。さすが私の莉緒」
車内に悲壮感や不安は何も無い。ただ、期待が詰まっている。どこか無鉄砲で勢い任せの知奈美、そんな彼女が好きだ。だからこうして休日、一緒にいたくなる。
「あ、星が見えてきた」
その言葉に触発され、窓の外を見た。車窓から見上げれば星が流れるように遠ざかる。こうして夜空をしっかり見たのはいつ振りだろうか。いつも帰る時は夜なのに、下ばかり向いて歩いている。何かを待っている時はわずかな暇を潰すようにスマホを見るだけ。でもきっと、私だけじゃないだろう。
「こういうのデジタルデトックスって言うのかな。なんかいいかもね」
狭い情報世界を離れ、遠くの広く果てない自然世界を見る。ただこれだけなのに私は何だか新鮮な気分になる。多少まだ酔いが残っているからそんな風に感傷的になるんだろうか。それとも根源的な何かが刺激されているのだろうか。
「とは言っても、一人じゃなかなか難しいよ。スマホ見ちゃうもん、私だって。なんかさ、莉緒ほどじゃないと思うけど疲れると下ばかり向いちゃうよね。だから私、これじゃいけないって思って意識して空を見るようにしているよ。あ、それで面白い話があってね」
「なになに?」
私が興味深そうに食いつくと、知奈美が嬉しそうに口角を上げた。
「昔さ、よくUFOの特集とかやってたじゃない。一般の人も見たとか言って。でさ、最近あまりそういうの見ないでしょ」
「あー、そうかも。子供の頃は結構あったかも。怖かったんだよね、私」
よく季節の折に特集をやっていたのを思い出す。宇宙人に誘拐されると本気で怖くなって震えて眠れない事もあった。親は半笑いで見ていたけど、子供心にはもう一大事だったのだ。
「みんな動画とかカメラ機能のあるスマホ持ってるのに、最近は目撃とか少なくない?」
「言われてみれば」
「それってね、みんなスマホばっかり見るようになって空見なくなったかららしいよ。だから気付かないんだって」
言われてみれば一理あるかもしれない。
「なるほどね。確かに電車待ちとかでぼうっと空見上げている人がいたら、かなり病んでるのかなぁって思っちゃうかも。みんなスマホ、たまに年配の人が小説読んでいるくらいだもんね」
「あとはまぁ、最近のスマホは編集技術も凄いでしょ。そういうフェイク動画とか簡単に作れるから信ぴょう性も疑わしいんじゃないのかな」
「それはあるかもね。買い換えたら最初はそういうの楽しいんだけど、私すぐに飽きちゃうからなぁ」
車は更に北上し、民家も次第に減ってくる。建物がまばらになり始めた頃、低層の工業地帯や流通拠点が目に飛び込んできた。といってもほぼ真っ暗で、時折見えるコンクリート工場のように大きな建物に驚くくらいだ。
「夜の工場見学ツアーとかも面白そうだなって思った事あるけど、こうして真っ暗だと怖いね」
「そりゃそうだよ。あれは綺麗にライトアップされてるから綺麗なだけで、町外れの工場なんて錆びてたり古ぼけているから怖いよ。テレビとか雑誌で特集してるのは一流のとこだけじゃないかな」
「さすがに地元じゃそういうのやってないもんね。あ、ごめんちょっと次コンビニあったら寄ってもらっていいかな。トイレ行きたいし、飲み物欲しいかも」
「私も行きたいと思ってたとこだから、丁度いいや。コンビニに指定は無いよね?」
「うん、どこでもいい」
町の灯がほぼ消えかかっているとはいえ、まだ山間部とか海岸線に入っていないので少し走れば見つかった。寂しげな土地に不釣り合いなほど煌々と光っており、ここだけ別世界のよう。それでも見知らぬ土地で知っているお店があるのは嬉しいし、知奈美と一緒ならばどこでも楽しい。
「あ、この商品初めて見る。シャインマスカット味だって」
「へぇ、好きなの?」
「いや別に。ただ気になっただけ。私コーヒー買おうかな」
「何よそれ」
静かな店内に響く私達の小さな笑い声。たったこれだけの事がすごく楽しくて、あれだけ死にたいと思っていた心がどこに行ったのかと思えるほど。いやもう、それすら忘れていた。そしてそれはすぐに追いやられ消えていき、また楽しいという感情が私を満たすから笑顔にもなれる。
「じゃあ、出発するよ」
「あ、待って。ちょっと空見たい」
車に乗り込もうとした知奈美を呼び止め、私は夜空を見上げた。やけに黄色く輝いている満月にはウサギの形が見える。子供の頃、あそこにウサギが見えるでしょと言われても意味がわからなかった。まさかさかさまになっているなんて、思いもしなかったから。
「月ってさぁ、いつも見える面が同じなんだってね。だから私達から見ればウサギの餅つきに見えるけど、反対側は隕石の衝突でボコボコらしいよ」
「知奈美ってほんと物知りだよね。じゃああれは背中に傷を負いながら餅つきしてるのかな。隕石受け止めながらも気にせずに淡々と餅つくウサギかぁ」
「なんか強キャラ感出てきたわ」
ケラケラ笑い合い、また見上げる。星座はよくわからない。子供の頃に星座図鑑とか見たけど、あれはもうこじつけもいいとこだろう。どう繋ぎ合わせても私には蛇や牛、戦う人なんかには見えなかった。
でも星は好きだ。別に詳しいわけでもないし、特にすごい興味があるわけでもない。見上げていれば自分がちっぽけな存在にとか、全く思わない。この宇宙に比べたら私の悩みなんてとか、そんな事は思わない。宇宙がどんなに広かろうと、私の悩みはいつだって重大なのだから。だから別に星にそんなに思い入れは無い。
ただ綺麗だから好き、それでいいと思う。
「ありがと。じゃあ行こうか」
車に乗り込み出発すると十五分ほど走った所で海が見えてきた。車の中なので波音は聞こえないし、月明りしか無いので暗く不気味。それでも波間が月に照らされていてどこか幻想的な光景は初めて生で目にするかもしれない。
手軽に動画などで何でも知った気になってしまう。それは例えばなかなか行けない海外の世界遺産だとか危険地帯ならそれでもいいのかもしれないけど、少し手を伸ばせば得られる体験や経験すらもネットの情報で満足してしまう私がいる。きっとこうだから、どうせあぁだからで済ませてしまいがち。
だけどやっぱり自分の目で見て、肌感覚を得て心に触れると感動が違う。この夜の海だって暗いことくらいは知っていたけど、実際に見れば不気味で幻想的。両方の性質に触れ、どこか一言では言い表せない複雑な感情が心を揺さぶる。
「ねぇ莉緒。今年海って行った?」
「いや、行ってない。てかもう何年も行ってないよ。知奈美は?」
「私もー。ぼんやり行きたいかもとか思っていたんだけど、誘う相手も誘われる相手もいなかったからなぁ」
子供の頃は親に連れて行ってもらったりしたけど、中学生くらいになればそういうのも無くなった。海はどうしても汚れるから、もっぱらプールばかりだった。それも高校生まで。大学から今に至っては水着すら着ていない。
「私も。あ、じゃあさ、今度ってかもう来年かな。海行こうよ、一緒に」
「いいね、行こう。じゃあ水着買わないと。ねぇ、一緒に選んでもらっていいかな。私も莉緒の選びたいからさ」
「えー、なんか恥ずかしいけど面白そう。そういうのやったことないからなぁ、ちょっと面白そうかも」
「私は大分面白そうだって思ってるよ。あー、早く来ないかな夏」
「やっと涼しくなってきたってのに、何言ってるのよ」
でも知奈美の水着姿かぁ。胸大きいし何着ても似合うんだろうなぁ。私だってもう少しあれば似合う服も水着も色々あるのだろうけど……。
そんな事を考えながら車は海岸線をひた走り、やがて国道は山間部へと入っていく。木々が増え、夜の暗さに拍車がかかる。街灯すら無い山道では車のライトだけが頼りになるが、何だか心細くなってしまう。
「道、合ってるよね?」
「うん。カーナビでは国道だからね。このまま真っ直ぐ行ったらどこかの町に着くんじゃないかな」
相変わらず知奈美は気楽な感じでハンドルを握っており、楽しそうだ。でもこんな山道、野生動物でも飛び出してきたらどうしようかと考えてしまう。いや動物だけでなく、変な人とかいたらどうしよう。それも複数人とかで……。
「なんか夜に山道とか行く事無いから怖いな」
「莉緒、免許持ってないもんね。いやでも、私もほとんど行く事なんか無いよ。暗くて怖いよね」
「とてもそうには見えないけど」
じっと横顔を見てみるけど、怖がっている素振りは無い。私はもうこんなに暗い事なんかなかなか無いため、怖い。背の高い木々に覆われているからか、月明りも星の瞬きも見えない。ただ暗いだけ。
「でもさ、これだけ暗いと幽霊とか宇宙人とかいてもおかしくないよね」
「えー、やめてよ。どっちも嫌だし、おかしいから」
「でも私、霊感無いから多分わからないよ。莉緒はそういうのある方?」
「いや、無いけど。って、わからないよ。ただ、見た事は無いかも」
すると知奈美が笑い出し、流れている音楽の音量を上げた。それは少しうるさいくらいで、私は思わずビクッと肩をすくませてしまう。
「え、何急に?」
「なんか怖いからさ、楽しい音楽を大きな音で聴こうと思って。まぁでも、霊感とか無いなら幽霊って何で怖いんだろうね? もし見えたら怖いからかな?」
「そうだよ。もしかしてってのがあるからだよ。あとは単純に暗いのは怖いよ」
「暗いと怖いのは本能なのかもね。きっと大昔、こういう暗い夜に動物に襲われたのが記憶されているから怖いのかも。あ、でも見て」
知奈美が真っ直ぐ前を指さすと、木々の切れ目が見えてきた。私もそこに注目すると、どんどんと空が広がっていく。そうして車がそこに到達すると、空が大きく開けた。
山の頂付近で見た星空は目を奪われるほど綺麗で、いつもいる町から見ているのとは大違い。周りに人工的な光源も無く、かつ空気も澄んでいるからかこんなにも星があったのかと驚きを隠せない。
「うわぁ、すごい」
「車停めようか」
車を脇に寄せ、エンジンも切る。一切の静寂が訪れるのかなと思ったけど、フクロウなのか何なのか、野性の鳥の声が結構響いている。虫の声も大きいし、カエルのような声もする。意外と夜の山は賑やかなんだと初めて知った。
外には出ない。二人とも、さすがに出たら虫が寄ってくるとわかっているから。だから車の中から見るのだが、車窓を通してもその美しさは曇らなかった。
「綺麗だね、すごく」
「うん、なかなか見れないよ。なんかさ、ネットとかでもっと綺麗な写真とかたくさんあるんだろうけど、こうして生で見れるのがやっぱり一番感動するよね」
「写真撮っとこうかな」
私がスマホを取り出そうとすると、知奈美が微笑みながら私の手をそっと抑えた。
「どうせ撮っても見返さないよ。それにさ、写真に収めてもこの時の感動までも同じじゃないんだからさ」
けれど私は知奈美の手をそっとどかすと、車窓から何枚か月や夜空の写真を撮った。
「同じじゃなくても、思い出せるよ。辛い時とかさ、思い出せなくなるから」
「それもそうか。じゃあ、私も撮っておこ」
するとすぐ知奈美もスマホを取り出し、いたずらっぽく笑った。
「なによそれ。真似しちゃって」
「いいとこは素直に取り入れないとね」
知奈美も数枚撮ると、あとはのんびり星空観賞。星を観に行こうと言われた時には驚いたし星なんてと思ったけど、確かに悪くない。こうして星空を見上げながらのんびりするなんて、贅沢な事なのかもしれないから。
家にいれば漫画や動画、そうでなくともスマホをいじりがち。ご飯だって適当に作って、パパっと食べてしまう。ゆっくりじっくり楽しむ、または何も無い時間をしっかり感じるなんてなかなか一人じゃできない。
知奈美とじゃないと、できないのかもしれない。
彼女と出会ったのは大学三年の時だった。別学部だったので接点なんか無かったのだが、友達の友達という事で紹介されたのがキッカケ。最初は気まずいな、何を話したらいいんだろうかとどこか引き気味だった私に対し、知奈美が今と同じようにグイグイと来てくれたおかげで仲良くなり、いつしか紹介してくれた友達そっちのけで遊ぶようになった。
行動力も共感力もすごく、かつ話の引き出しも多い。私に無いものをたくさん持っている知奈美にいつしか居心地の良さを感じ、卒業して連絡を取らなくなった友達が大半な中で今もこうして頻繁に会っている。
私と一緒にこうして付き合ってくれているという事は知奈美もきっと楽しかったり、心地良かったりしてくれているのだろう。自信の無い私だけど、そこだけは信じたい。
「それにしてもさ、月が綺麗だね」
輝く月はいつにも増して綺麗で、心惹かれる。月の美しさに心奪われるなんて、それこそ子供の頃以来だ。
「なにそれ、私をくどいてるの?」
「え、なんでそうなるの?」
驚いて彼女の方を見れば、ニヤニヤしながらこっちを見ていた。
「いやいや、有名でしょ。夏目漱石がアイラブユーを月が綺麗ですねって訳したんだよ」
「なんでそれでそんな意味になるのよ?」
「多分同じものを見て同じ感動をするような間柄なら愛も芽生えるんじゃないの? それか返しとして、あなたの方がもっと綺麗ですよ、月にも負けていませんよって感じじゃないかな?」
「……なんか恥ずかしくなってきたんだけど」
二人で小さく笑い合いながら、月を見た。さすがにそんな意味や感情は無いけど、でも同じものを見て同じ感動をするというのは特別な意味のようにも思える。知奈美とだからきっと、こんなにも感動できるのかもしれない。
そう素直に思える夜なのは間違い無かった。
「そろそろ行こうか」
やがて私がそう言いだすと、知奈美もうなずいた。綺麗な景色だって、ずっと見ていれば慣れてしまう。最初の感動は薄れ、次第に次の刺激を求めてしまうものだ。それにいつまでもこんな山の中にいるのはやっぱり怖い。
「そうだね。ここ下ったらどこに行くのかな。なんか楽しいよね、こういうの。ぶらっと気ままにどこか行くなんて、なかなかできないもんね。だからこういうの付き合ってくれるの、本当に嬉しいんだ」
ちょっと照れながら知奈美がエンジンをかけると、ギアをドライブに入れて車は走り出す。少しするとまた暗い森の中に入って行くけど、もう怖さはほとんど無かった。車内に響く大音量のミセスの曲にテンションも上がり、時折歌いながら笑い合う。
野生動物も幽霊も宇宙人も、もうどこかへ吹き飛ばしてしまったかのよう。
やがて山間部を抜けた車は平野部に入り、何も無い道を走る。原野なのか農地なのか暗くてよくわからない。ぽつりぽつりと明かりの消えた民家や倉庫が見えるばかり。信号の間隔も遠く、行き交う車も無い。
「このまま行ったら黒部に着くね。そこまで行ったら少し休憩しようか」
「わかった」
何も無いなと思っていても、やはり山を越えてきたからか徐々に街灯の数が増えて明かりの消えた民家の間隔が狭まってくれば、人のいる街に来たんだなとわかる。農地が住宅地に変わり、住宅地から低層ビル群へと姿を移ろわせていくと、明かりも増える。コンビニ、二十四時間の外食チェーン店、行き交う車など眠っているはずの時間なのに生活の匂いがする。
「ねぇ知奈美、この辺に二十四時間営業のスーパー銭湯とかあるかな?」
「え、どうかな。ちょっと見てみるね」
路肩に車を停め、カーナビで検索する知奈美を見ながら、私はもう大きなお風呂に入る気でいた。酔いも醒めたし、またここで特別な事をしてみたくなったから。
「あー、あるね。ここから五分ほど行ったとこに」
「じゃそこ行こうよ。なんかさ、大きなお風呂に入って気持ち良くなりたい気分なんだ。知奈美も運転疲れたでしょ、一緒に入ろう」
「あー……そうだね」
なんだか奥歯に物が挟まったような感じでうなずく知奈美に私は若干の違和感を覚えつつも、このドライブがもう既に小旅行のような感じになってきたからこそ、大きなお風呂に入って満足したかった。
「あ、でもそう言えば知奈美とお風呂に入るの初めてだよね」
「そうだね」
「まさか水着より先に裸を見せる事になるとは思わなかったよ」
「確かに。いやでも、引かないでよね」
あぁ、そうか。テンションが低いのはもしかしたら余計な肉がついているかもしれないのを心配しているのかもしれない。でも、そんなの私達にとっては今更な話だ。例えお腹に浮き輪みたいな肉がついていようと、セルライトで足がぶよぶよしていようと、この関係に一切の影響なんか無い。
私だってそんな褒められた身体なんかじゃないし。
「引かないよぉ。今更何言ってるのよ。私もさ、肉ついちゃってお腹とかみっともないんだよね」
ケラケラ笑っていると車は間もなく二十四時間営業のスーパー銭湯に着いた。まばらに停まっている駐車場の中でも広々としたスペースの場所に停め、受付を済ませる。時刻はもう夜の十一時半。この時間に受付なんてできるのかと半信半疑だったけど、それを済ませると一気に心が軽くなった。
「はい、では入浴セットです。どうぞごゆっくり」
ビニールの手提げバッグにタオルや館内着が入ったセットを受け取ると、私達はまっすぐに女湯へと入る。さすがにこの時間なので荷物置き場やロッカーを使っている人はほぼほぼおらず、ほぼ貸し切り状態だと予想できた。
「あのさ、さっき言ってた話なんだけど、引かないでよね」
「え、当たり前じゃない。私こそ笑わないでよね」
「それは大丈夫だけど」
そう言いながら知奈美がハイネックのノースリーブシャツを脱ぐと、下着姿になった。服の上からも大きな胸だなと常々思っていたので悪いと思いつつ横目で見れば、確かに大きかった。思っていたよりもずっと。羨ましいなと思いつつ私も脱ぐ。
……ん?
ふと心に刺さった違和感。私はそれが何なのかわからないのでとりあえず無視し、上も下も脱ぐ。脱いだものをロッカーに入れようと顔を上げた時、不意にまた違和感を覚えた。私はもうそれが気になって、何と無しに隣の知奈美に目をやった。
大きく綺麗な胸の上の方からお腹にかけ、縦に傷跡のような線が見えた。何かを押し付けてついたような痕じゃない、大手術をしたかのような痕。おもわずまじまじと見てしまった私はハッと我に返ると、申し訳無さそうに知奈美を見た。彼女は苦笑いしながら特に責める様子もなく私を見ている。
「いやぁ、これがあるからあまり人前で脱いだりしたくなかったんだよね」
あぁ、だから知奈美は夏でも露出の多くない服を着ていたのか。冬はタートルネック、夏も首元まで隠れるような服を好んで着ていたのはこのためだったんだ。
「これって手術した痕?」
「うん、昔ね。中学生の時に心臓の手術をしたんだ。今はもう治ったんだけど、傷跡が残っちゃって。普通はまぁまぁ消えるんだけど、体質なのか結構残っちゃったんだよね」
「私、あまり詳しくないけどこういうのって治せないの? なんかほら、別の皮を持ってきて貼ったりとか、そういうのあるんでしょ」
医療系の漫画で読んだ事がある、火傷とかで傷口が酷い時にお尻の皮とかを切って貼り付けるというやつを。自分の皮膚だから拒絶反応もなく安全だと見た覚えがある。
「そうだね、あるにはあるけど……なんかね、戒めってわけじゃないけどこれを見て私は普通の人と違って無茶できないんだって思い出すようにしてるの。普段通り生活する分には問題無いんだけど、無茶すると再発の可能性もあるよって言われれて」
知奈美がその傷跡を優しく指先で撫でた。
「あとはまぁ、こんな姿でも愛してくれるような人がいればいいなって。普通の男の人なら引くでしょ、こんなのいざって時に見たら。だからまぁ、変な虫よけみたいなもの」
明るく笑いだす知奈美に私はどう反応すればいいのかわからず、愛想笑いを浮かべる。
「いやでもごめんね、こんなの見せちゃって」
「あ、いや、それはいいの。私がお風呂入りたいって言ったんだから。というか私の方こそごめん、何も気付けなくて」
少し申し訳無さそうな顔をさせてしまった事に罪悪感をおぼえ、私は手を合わせながら頭を下げた。
「え、いや莉緒が謝る事じゃないよ。だって言ってなかったんだから気付くも何もわかるわけないじゃない」
「それでも、ここに来る時に知奈美が微妙そうな感じだったのはわかったんだけど、でもお風呂入りたかったし、なんか楽しいドライブだからこういうのもしてみたいなって思っちゃって」
するとくすくすと小さな笑い声が響いた。
「まぁ、私だって本気で嫌だったら断ってたよ。莉緒と一緒に星観れて楽しくなっちゃったから、見せてもいいかなって思ったの。高校の時とか友達に見られたりした時は結構引かれたんだけど、莉緒そういう目で見なかったからいいよ」
「いやでもごめんね、なんかジロジロ見ちゃって」
「それはまぁ、仕方ないよ。気になるでしょ。私だって他の人にこういうのあったら見て見ぬ振りなんか多分できないもん」
「それはまぁ、そうか。ところでさ」
私は手提げバッグの中からタオルを取り出した。
「中途半端に脱いで間抜けな格好だからさ、そろそろ入ろうよ」
「そうだった。あはは、私もなんかちょっと自分の格好忘れてたわ」
浴場にはほぼ人がいなかった。時間も時間だからだろう、半ば貸し切り状態だからか知奈美も特に傷跡を隠そうとはしていない。だからか何だか楽しそうな顔をしていて、私もそれを見て楽しくなる。
電気風呂、打たせ湯、露天風呂に普通の湯。サウナは少し入ったけど、すぐに熱くなって出てしまった。五分もいなかったかもしれない。大きなお風呂は好きだけど、最近はなかなか来る機会も無かった。
だから今、すごく楽しい。
お風呂から上がった私達は髪を乾かし終えた後、館内着でロビーに行くと自販機でアイスを買った。私はソーダ味、知奈美はヨーグルト味。火照った身体で食べるアイスはとても美味しく、何だかこのままずっとこうしていたくなる。
「ソーダ味って食べた事無いんだよね。私いつもこれか、ブルーベリーばっかり」
「美味しいよ、ソーダ。サッパリするの。でも私もヨーグルトって食べた事無いかも。こういうのってさ、大体決まったものばかり買っちゃうから」
「じゃ、食べてみる? 私も一口ちょうだい」
そう言って差し出された食べかけのアイス。もう周囲はかじってあるので、どこを食べても同じところに口をつけてしまう。何だかこういうのあまり経験が無いからいいのかなという背徳感と、あまり意識すると変な感じになってしまうかなという照れが入り混じる。
でもためらっていたら駄目だろう。そう思ってえいっと一口かじると、柔らかい甘味と程よい酸味が冷たさと共に広がる。
「どう、美味しいでしょ」
「うん、確かに美味しい。じゃあ、私のもどうぞ」
少し手が震えているのがバレないだろうか。なんて考える間も無く知奈美が私のアイスを一口かじる。私のも知奈美と同様に、まさかあげるとは思っていなかったのでぐるりと周囲をかじっていたから私の口付けた所を食べられた。
「んー、ソーダ味も美味しいね。今度これ買おう」
「そっか、気に入ってくれて良かった」
けれど知奈美は何て事無さそうに味を楽しみ、笑っている。私が気にし過ぎなんだろうか。それとも知奈美がこういうのに慣れていて、特に何も思っていないんだろうか。まぁ確かに知奈美は社交性もあるから、友達とこういう事をするのに抵抗が無いのかもしれない。むしろ私が友達付き合い下手だから、経験無さ過ぎて意識しちゃうのかな。
別に裸を見たからってわけじゃないけど、知奈美は可愛いし魅力的だ。変な意味じゃ無く、客観的にそう思う。服のセンスもいいし、話題は豊富だし、行動力もあって明るい。お風呂入ってる時に濡れた髪を見ても、艶があって綺麗だった。ショートボブの毛先から落ちる雫なんか、同じ女性なのにドキッとしてしまう美しさがあった。
対して私はといえば骨格ストレートだからくびれも無いし、鏡を見ても色気無いなぁといつも思ってしまう。こんなんじゃ彼氏とか、到底無理だ。
いや、今夜はもう卑屈になるのはやめよう。折角ここに連れてきてくれた知奈美に悪い。だって飲み会もまぁまぁ楽しかったけど、ドライブしてからが本当に楽しい。したことない体験、行った事の無い場所、更には秘密を打ち明けてくれたんだ。
「……ありがとね、付き合ってくれて」
私がそうぽつりと漏らすと、知奈美が不思議そうに見てきた。
「え、どうしたの?」
私はこっそりと知奈美がかじった所を食べると、飲み込むまでの間に頭を整理する。
「いや、何と言うか落ち込んでみっともないとこ見せていたのに、元気付けてくれた事が嬉しくてさ。恵まれてるなぁって思ったんだ」
「いやまぁ、私も丁度思いっきりドライブしたかったんだ。だからさっきも言ったけどついてきてくれて嬉しいのは私の方だよ」
照れ臭そうに笑い、知奈美もアイスを食べる。もう柔らかくなったアイスを私達は少しだけ急いで食べ終えると、手に持っている棒をゴミ箱に捨てた。そうして立ち上がった際に周囲をぐるりと見回すと、時計が目に入った。もう日付が変わりそうだ。
「んー、これからどうしようか」
私がうんと伸びをしながらそう言うと、知奈美が考えるように唇を結んだ。
「ここで寝るのはちょっと嫌かも。もしよかったらドライブ続けて、疲れたら車の中で寝てもいいかな」
「別にいいよ。どうせホテルなんかもう無理だし、確かにここで寝るのもなんか怖いもんね」
「それじゃ、着替えてもう出ようか」
着替えを終えた私達は再び車に乗り込んだ。元来た道をただ引き返すのはつまらないからと、知奈美がカーナビをセットしながら別ルートで帰ろうと提案してきた。けれど私に拒否権なんか無いし、そうするつもりも無い。
ただ、疲れてはいるけどまだ楽しめるんだと言う思いの方が強かった。
車はゆっくりと走り出し、再び暗い道を進んでいく。相変わらず星空は綺麗だし、月も位置が変わっているけど美しい。真夜中のドライブなんて初めての経験は少し怖く、とても楽しい。
「私も運転出来たらもっと楽しいんだろうな」
「でも免許って高いもんね。車も高いけど、買って終わりじゃないからね。維持費もあるし、ガソリン代だって馬鹿にならないし」
「そうなんだよね。実際、生活でそこまで困って無いから免許取ろうって思わないのが一番なんだよ」
「でも隣に乗ってるだけなら暇でしょ」
にっと笑った知奈美に対し、私は小さく首を横に振った。
「暇ではないんだけど、交互に運転できたら楽しいだろうなって。あと、知奈美も楽だろうし」
「あはは、いつかその時を楽しみにしてるよ」
平野部の国道を通り抜けていく。街灯が等間隔で迫っては過ぎ去り、まばらに明かりの消えた民家が見えるばかり。やがて寂れた工業地帯が見えてきたけど、明かりが点いている所はほとんど無い。
「でもさ、車持ったら行動範囲が広がるよ」
「そうだよね」
「仕事とかもさ、幅が広がると思うんだ。選択肢ってのはたくさんあった方がいいし、免許も立派な資格だからね」
何気なく言ってくれるその言葉は私を気遣っての事だとすぐにわかった。きっと転職を勧めてくれているのだろうと言う事を。
私もこのままじゃ自分がおかしくなるか、死んでしまうかのどちらかだと思っている。何かを変えたいけど、どう変えればいいのかがわからない。忙しさとストレスは思考や選択肢を奪っていくばかり。
もっと私、今より明るかったはずなんだよなぁ。
と言っても別に一軍女子や陽キャだった事は無い。ただそれでも、今より無邪気に学生時代は笑っていた。もう少し心も強かったかもしれない。今はメチャクチャにメンタルを潰され、へし折られた。
一度握り潰した紙は丁寧に伸ばしても元には戻らない。心もきっと同じだろう。
「でも免許ってお金もそうだけど、難しいんでしょ」
「そんな事無いよ。だって世の中の大半の人は取ってるでしょ。教習所に通えばできるようになるんだって」
「そうかなぁ……でもそうだよねぇ」
確かにうちの両親も持っているし、ぼうっとしているお姉ちゃんも持っている。普通の主婦も持っているわけだし、確かにそうなのだろう。でも、その人達は私じゃない。私なんかが取れるのだろうか。
未知への挑戦はやはりネガティブな思考で足止めされる。この半年で私はすっかり怖くなってしまった。
「私が通ってたとこはメンタル弱い人にはそういう教官がつくようになってたよ。まぁたまにキツい言い方する人もいたけど、でも基本的には優しく教えてくれたよ」
「あ、そういうのあるんだ」
そういうシステムがあるのを知らなかったので、目から鱗だった。
「今のとこで働いてるなら、きっとみんな天使に見えるよ」
そう笑い飛ばす知奈美につられ、私も笑ってしまった。確かにそうかもしれない。教習所を落ちた人の話はたまに聞くけど、教習所で不合格になって自殺したって人の話は聞かないから多分大丈夫なのかもしれない。
「転職だってもさ、実際働いてみないとわからない人間関係とかあるだろうけど、でも今よりマシなんじゃないかな。どの場所にも合わない人とか嫌な人は絶対いるけど、でも割合が少なければ我慢できるでしょ。話聞いてたら、みんな敵みたいな感じじゃない」
「そうなんだよね。相談できる人もいないし、何しても怒られるから」
「だからさ、一生懸命踏ん張るのは大事だけど、死ぬまで付き合わなくてもいいと思うよ。生きるために逃げるのはありだから。動物だって死にそうになったら逃げるでしょ。人間だってそうすればいいじゃない。まぁ、逃げ癖がつくのはよくないけどさ」
真っ直ぐ前を見ながらそう言う知奈美が何だか素敵に見えた。わずかな車内の光りで照らされている知奈美の横顔は凛々しく、美しい。
「え、なにそれカッコイイ。なんか本とかに載ってそう。背景黒で白抜きの文字で」
「いやこれ、お父さんの受け売り。でも私もいいなって思ったよ」
でもその通りなのかもしれない。別に私、今の会社に一生を捧げようなんて思っていないし、そこまでの仕事だとも思っていない。ただ辞めないのは自分が他に何もできないからだと思っているだけ。
でも元を辿ればそういう思考になったのは就職活動に失敗し、今の会社に入ってから駄目出しされまくってそう思うようになってしまった。何もできない、他じゃ使えない、ここだから働けているんだ。何度そう言われたかわからない。
でも知奈美は別の所で活躍できると言ってくれている。あの会社の人達よりもずっと、私の事を知っている知奈美がそう太鼓判を押すのだから、きっとそうなのだろう。
「でもさぁ、なかなか辞めるって言えない雰囲気でね。前に辞めるって言った人に上司がメチャクチャ怒鳴りまくって損害賠償がどうのとかって聞こえたから、怖くて」
私に辞めるようアドバイスしてくれた人が辞めますと言った日の事を思い出す。上司はほぼ半狂乱になってキレて、そんな事を言っていた。彼女は何だか吹っ切れたようにでも辞めますからと半笑いで言って去って行った。そんなの私にはできない。
だから辞められないでいる。
「それって普通に恐喝だよね。裁判とかで訴えれば余裕で勝てるだろうけど、そこまではなかなか普通の人はできないもんね。まぁ数万払って退職代行とかがいいんじゃない? そういうとこに相談すれば、あとはもう会社関連の人の電話を着信拒否にすればいいし」
「そっか、その手もあるね」
「色々手段はあると思うけど、今の莉緒ならそれが一番なんじゃないかな。あとは失業保険使いながら次のを探せばいいし。今ならつなぎのバイトだって簡単にできるからね。何だってできるよ、何も心配する事なんか無いってば。まだ二十二なんだしさ」
明るく笑い飛ばす知奈美に私は微笑み、うなずいた。
ありがと。
声にならない声で囁き、私は車窓を見る。知奈美の事は信用しているし、好きだ。でも今夜は本当に頼りっぱなしで申し訳なく、かつ素直に言葉にするのがつい恥ずかしくなってしまった。
寂しい工業地帯を抜ければ次第にまた民家が増え、みるみるアパートや明かりの消えたお店が増えていく。どこかの街に入ったのだろう。けれど深夜一時半の世界ではコンビニと街灯以外は眠っている。車内の大きな音楽だけが不釣り合いなほどの都会を私達に見せていた。
それでもさすがに眠気が強くなっていた。
車窓を眺めながら流れる景色や街灯の光りが尾を引き、薄ぼやける。気付けば目を閉じ、とりとめのない事を考えているのに気付いて目を覚まし、寝てない振りをしながら大きく深呼吸して車窓を眺める。
「眠かったら寝てもいいよ」
「いや、さすがに私が寝ちゃったら知奈美がもし寝た時に起こす人いなくなるじゃない」
「いいじゃない。その時はどーんっていっても」
ケラケラ笑う知奈美もどこか元気が無い。だから私はしっかりと彼女の方を見、大きな声を出す。
「よくないよ。そんなんで死ぬのは嫌だよ」
すると知奈美がより大きな声で笑った。私もつられて笑う。車内の音楽が聞こえなくなるくらいしばらく笑い合うと、知奈美が大きく呼吸を繰り返す。
「嫌かぁ。まぁそうだよね」
「そうだよ。寝たままあの世なんて困るよ。最後にどんな顔してるのかくらい見たいしね」
「えー、そこなの?」
また車内に笑い声が響き合う。けれどもうお互い眠いからかすぐに収まり、音楽と走行音だけが響くようになった。
「さすがに私もちょっときつくなってきたかな」
五分ほど走らせ、知奈美がそうこぼした。無理も無い、見知らぬ街をずっと運転しているのだから。おまけに外は暗く、安易に休む場所も無い。当然ホテルなんかも無い。
「どっか公園にでも停めようよ。あ、ほらあそこの公園とかいいんじゃない。結構大きいから駐車場もあるし、向こうにコンビニも見えるよ」
前方に木々が綺麗に整えられている公園が見えた。そこはそれなりに大きそうで、駐車場も使えそうだ。道路を渡って向かい側にはコンビニもある。偶然見つけたとはいえ、立地としては申し分なさそうだった。
車は静かに駐車場に入り、空いてるスペースに停めた。さすがに私達以外は誰もおらず、しんとした真夜中の公園にこの音量で音楽を流すのはどうかと思ったのか、知奈美が音量を下げた。
「ねぇ、本当にここでいいの?」
やや不安げにそう訊かれたので、私は笑顔でうなずく。
「いいよ、もう。車中泊にしよう。別に寒くも暑くもないし、陽が差せば勝手に起きるでしょ」
「元々私が言い出した事だけどさ、疲れるけどいい?」
「明日、ってか今日は休みだからね。というかもう、会社辞めるからしばらく休みにするし。それにこういうの初めてだし、知奈美と一緒だから楽しいよ」
辞めると言った時、何だか気持ちが晴れ晴れとした。だからつい笑っていると、知奈美も嬉しそうに笑ってくれた。
「じゃあ、いいか。リクライニング倒そうよ。倒すとこ、わかる?」
そう言われたけどわからない。親の車では下とか横にレバーらしきものがあったはずだけど、ちょっと手で探ってみたけどよくわからなかった。
「えっとね、ここにあるの。ちょっとごめんね」
そう言うとシートベルトを外した知奈美がぐっと私の方へ体を伸ばしてきた。そうして私のお腹の上にかぶさるような態勢となり、リクライニングのレバーを探している。
「あった。倒れるからね」
でも私は気が気じゃなかった。さすがに親友とは言え、この距離で体をくっつけるなんて思って無かったから。温泉で同じシャンプーを使ったはずなのにふわりと良い匂いが鼻をくすぐり、柔らかな身体が私にあたる。変な事はさすがに考えないけど、やっぱりドキドキしてしまった。
シートが倒れると知奈美は私の脇に手を置いて体を起こし、自分のシートをも倒した。車の中でこんなにシートを倒したのは初めてで、普段見上げる事の無い天井を見るのは新鮮だった。
「なんかさ、こういうのってきっと彼氏ができてもしないんだろうな」
ぽつりと同じく天井を見上げる知奈美がそう言うと、私は思わず笑ってしまった。
「だろうね。むしろ泊まるとこが無いから車中泊しようとか言われたら冷めるわ。知奈美じゃなきゃ許されないよ」
「それはどうも」
素っ気ない返事に私はこの気持ちが伝わっていないんだと思い、顔を知奈美の方へと向けた。どうかこの思いの半分でも伝わるように、と。
「いやほんとだって。こんなのよっぽどじゃないとできないんだから。特別な事なんだよ、私にとって。他の誰ともできないんだよ、車中泊なんてさ」
「かもね」
またも短くそう言うと、知奈美は私に背を向けるように横になった。
「ごめん、もう眠いから寝るね。おやすみ」
「うん、おやすみ。ありがとね」
そう言って私も寝ようとしたのだが、なかなかすぐに寝られない。それもそうだ、知奈美と一緒にこんな事は今までした事が無い。ドライブはあるけど、一緒にお風呂入ったり寝たりなんて今まで無かった。そう、今夜は本当に特別な一夜。
いつしか雲に隠れていた月が顔を出し、イタズラな月明りが差し込むと心なしか知奈美の耳が赤らんでいるようにも見えた。髪の毛の隙間からのぞく耳はしっかり赤く、それを見た途端に私は見てはいけないものを見たような気になってしまった。
私は心がむずがゆくなるのを感じ、背を向けるようにして横になった。その際、念入りに髪の毛で耳を隠すようにするのを忘れずに。
しばらく車内に寝息は響かなかった。
星降る夜の果てを共に 砂山 海 @umi_sunayama
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