第一章 色褪せた世界と、星空色の君

「でさ、昨日の深夜アニメ見た? 最終回、マジで神がかってたんだけど!」

昼休みを知らせるチャイムが鳴り終わるか終わらないかのうちに、前の席の健太けんたが椅子を回転させてこちらを向いた。その手には、購買で買ってきたばかりであろう焼きそばパンが握られている。ソースの香ばしい匂いが鼻をくすぐった。

「ああ、見た見た。ラストの戦闘シーン、映画かと思ったわ」

僕は机に頬杖をついたまま、当たり障りのない相槌を打つ。本当は、昨夜は課題に追われて気づけばベッドの上、アニメなんて冒頭の五分も見ていない。けれど、ここで「見てない」と言えば、健太のマシンガントークに三十分は付き合わされることになるだろう。それはそれで、面倒だった。

僕、夏月湊なつきみなとは、昔からそうやって生きてきた。

本音と建前を器用に使い分け、波風の立たない方へ、面倒ごとの少ない方へ。当たり障りのない言葉の膜で自分を覆い、他人との間に適切な距離を保つ。それが、この窮屈な世界を生き抜くための、僕なりの処世術だった。別に、誰かを騙してやろうなんて大それた考えがあるわけじゃない。ただ、その方が楽、というだけだ。誰も傷つけない些細な嘘は、人間関係の潤滑油みたいなものだと、本気でそう思っていた。

この日までは。

「だろ!? やっぱ分かってんな、湊は!」

満足そうに頷き、健太は焼きそばパンに大きな口でかぶりついた。その時だった。

教室の後ろのドアが勢いよく開き、別のクラスの友人である大輝だいきが顔を出す。その頭を見て、僕と健太は一瞬、言葉を失った。

「よお! どうだ、これ! 夏休み前に気合入れてみたんだけどよ!」

大輝は、ワックスでこれでもかと逆立てられた髪をかき上げながら、得意げに笑った。昨日までは平凡な黒髪だったはずのその頭は、鮮やかな金髪に染め上げられ、まるで威嚇するハリネズミのように四方八方へと跳ねている。正直な感想を言うなら、大事故だった。寝癖の方がまだ芸術的だ。

健太が口の中のパンを吹き出しそうになるのを、僕は冷静な視線で制する。ここで本当のことを言って、一体何になるというのか。

「す、すげぇな大輝……。気合入りまくりじゃん」

健太がなんとか絞り出した言葉に、僕は続く。大丈夫、いつものやつだ。思ったこととは真逆の言葉を、さも本心であるかのように口に乗せる。簡単なことのはずだった。

「ああ、すごいな。夏っぽくていいんじゃない? ……うん、似合ってるよ」

その瞬間だった。

ズクリ、と心臓を鷲掴みにされたような、鋭い痛みが胸の中心を貫いた。

「――ッ!?」

息が、止まる。呼吸の仕方を忘れたみたいに、喉がひきつった。視界の端から急速に色が失われ、世界が白く染まっていく。なんだ、これ。貧血か? いや、そんな生易しいものじゃない。もっと根本的な、命そのものが削り取られるような、根源的な痛みと喪失感。

「湊? どうした、顔真っ青だぞ」

健太の声が、やけに遠く聞こえる。僕は机に突っ伏すようにして、なんとかその場に蹲った。心臓が早鐘のように鳴り響き、冷や汗が背中を伝う。

数秒だったのか、数分だったのか。永遠にも感じられた時間の後、嵐のように襲ってきた痛みは、まるで何事もなかったかのようにすうっと引いていった。残ったのは、心臓の不快なほどの早い鼓動と、全身の倦怠感だけ。

「……いや、なんでもない。ちょっと、立ちくらみがしただけ」

「大丈夫かよ。保健室行くか?」

「平気平気。寝不足なだけだから」

僕は曖昧に笑って、健太の気遣いをやり過ごす。大輝はすでに、他のクラスメイトに自分の新しい髪型を自慢しに行っていた。

(なんだったんだ、今の)

胸に手を当てる。鼓動はまだ少し早いが、痛みはもうない。最近、少し疲れが溜まっていたのかもしれない。そう無理やり自分を納得させて、僕は残りの昼休みをやり過ごした。

だが、その「痛み」は、一度きりでは終わらなかった。

放課後のホームルーム。担任の田中先生が、机の間を回りながら夏休みの課題を配っている。僕の席の前で足を止めた先生は、心配そうな顔で僕の顔を覗き込んだ。

「夏月、昼間倒れたと聞いたが、もう大丈夫なのか?」

「はい、もうすっかり。ご心配おかけしました」

そう答えた瞬間、また、あの痛みが来た。昼間よりは少し弱いが、それでも心臓を直接握り潰されるような、明確な苦痛。僕は咄嗟に口元を押さえ、息を殺して痛みが過ぎ去るのを待った。

(まただ……なんで?)

偶然じゃない。何か、きっかけがあるはずだ。僕は記憶を遡る。昼休み、大輝の髪型を褒めた時。そして今、先生に「大丈夫だ」と答えた時。二つの状況の共通点は――。

まさか。

そんな馬鹿なことがあるはずない。頭の中に浮かんだ突拍子もない仮説を、僕は笑い飛ばそうとした。けれど、胸の奥で燻る嫌な予感は、どうしても消えてはくれなかった。

ホームルームが終わり、生徒たちが騒がしく帰り支度を始める中、僕は自分の仮説を検証せずにはいられなかった。震える手で、隣の席の女子、佐藤さんに声をかける。彼女は、クラスでも目立たない、物静かな文学少女だ。

「さ、佐藤さん。その……読んでる本、面白い?」

彼女が読んでいたのは、海外の難解な純文学だった。タイトルを見ただけで眩暈がしそうな分厚い本だ。正直、まったく興味がない。

「え? あ、うん。すごく……」

「そうなんだ。僕も、そういうの好きだよ」

――来た。

三度目の、鋭い痛み。間違いない。確信してしまった。

僕は、うそをつくと、胸が痛む。

いや、違う。ただの痛みじゃない。これは、もっと本質的な何かが、僕の中からごっそりと奪われていく感覚だ。

その日から、僕の世界は一変した。

日常の会話は、まるで地雷原を歩くような緊張と恐怖に満ちたものになった。

友人の「この服どう?」という問いに、「いいじゃん」と答えるだけで激痛が走る。先生の「課題は終わったか?」という質問に、「はい」と頷くだけで視界が歪む。コンビニの店員さんに「お箸はお付けしますか?」と聞かれ、本当はいらないのに「お願いします」と言ってしまった時でさえ、心臓は軋むように痛んだ。

潤滑油だと思っていた些細な嘘は、僕の命を削る毒だった。

医者にも行った。内科、循環器科、心療内科。あらゆる検査をしたが、結果は決まって「異常なし」。ストレス性のものだろうと、気休めの薬を渡されるだけだった。当たり前だ。「嘘をつくと胸が痛むんです」なんて、言えるはずがない。言ったところで、頭がおかしいと思われるだけだ。

誰にも理解されない恐怖。僕は急速に口数を減らし、他人との関わりを徹底的に避けるようになった。休み時間はイヤホンで耳を塞いで、誰とも目を合わせないように机に突っ伏す。移動教室も、昼休みも、常に一人。

あれだけ面倒だと思っていた健太のマシンガントークでさえ、今は羨ましく思えた。みんなが当たり前に享受している「何気ない会話」というものが、僕にとっては命懸けの行為になってしまったのだから。

僕の周りからは、ゆっくりと人がいなくなっていった。

いや、僕が、人を遠ざけていた。

そうでもしないと、いつか僕は、命を削る痛みで壊れてしまうと思った。

そんな僕にとって、唯一の安息の場所ができたのは、異変が始まってから一週間が過ぎた頃だった。

昼休みの喧騒から逃れるように、校舎の中を彷徨っていた僕は、最上階の突き当たりにある扉に気づいた。普段は誰も使わない、屋上へと続く扉。ダメ元でドアノブに手をかけると、カチャリと軽い音を立てて、それはあっさりと開いた。錆びた蝶番が、悲鳴のような音を立てる。

一歩足を踏み出すと、生暖かい風が頬を撫でた。

コンクリートの床。高いフェンス。そして、目の前に広がる、どこまでも青い空。

そこには、僕以外誰もいなかった。

生徒たちの喧騒も、先生たちの声も、すべてが遠い。ここだけが、世界から切り離されたみたいに、静かだった。

「……はぁ」

誰にも聞かれることのない、深いため息がこぼれる。

ここなら、誰とも話さなくていい。嘘をつく必要もない。痛みも、恐怖も、ここにはない。

僕は隅にあった給水タンクの影に凭れかかり、鞄から古い一眼レフを取り出した。父親の遺品であるそのカメラは、僕が唯一、心を許せる話し相手だった。

レンズを、空に向ける。

ファインダー越しに覗いた世界は、現実よりも少しだけ狭くて、少しだけ鮮やかだった。余計なものが削ぎ落とされ、ただ青い空と白い雲だけがそこにある。

カシャリ。

乾いたシャッター音が、静寂の中に小さく響いた。

僕は無心でシャッターを切り続けた。流れる雲を、空を横切る飛行機を、風に揺れるフェンスの金網を。

そうしている間だけは、自分の身体を蝕む、あの呪いのような痛みを忘れられた。

その日以来、屋上は僕だけの聖域になった。

僕の日常は、教室での息を殺した数時間と、屋上での静かな数十分だけで構成されるようになった。

世界は色褪せて、モノクロになってしまったみたいだった。

――そう、あの日、あの夕焼けに染まる屋上で、君に出会うまでは。

その日も僕は、昼休みを知らせるチャイムと同時に教室を抜け出し、屋上へと続く階段を駆け上がっていた。もはや習慣というより、条件反射に近い。教室という檻から解放されるための、唯一の脱出ルートだった。

錆びた扉を開けると、夏の匂いを濃く含んだ生暖かい風が、汗ばんだ額を撫でていく。太陽は雲に隠れているのか、いつもより空は白っぽく、光は柔らかい。絶好の写真日和とは言えないが、教室の息苦しさに比べれば天国だった。

いつものように給水タンクの影に座り込み、鞄から一眼レフを取り出す。ファインダーを覗き、空にレンズを向けた、その時だった。

「――きれい」

鈴が鳴るような、澄んだ声だった。

僕は驚いて顔を上げた。見ると、僕がいる場所とは反対側のフェンス際に、一人の女子生徒が立っていた。

腰まで伸びた、艶やかな黒髪。夏の制服から覗く腕は、透けるように白い。風に揺れるスカートを押さえながら、彼女はフェンスの向こう側、眼下に広がる街並みを静かに見つめていた。

僕の聖域に、先客がいた。その事実に、僕は少なからず動揺していた。ここは僕だけの場所だったはずだ。

彼女はこちらの存在に気づいていないようだった。僕は咄嗟に給水タンクの影に身を隠し、息を殺して様子を窺う。

(誰だ……?)

見覚えのある制服。おそらく、同じ学年の生徒だろう。けれど、顔には見覚えがなかった。少なくとも、僕のクラスの人間ではない。

彼女はしばらく街を眺めていたが、やがてふっと空を見上げた。その横顔が、僕の目に焼き付いて離れなかった。どこか儚げで、この世のすべてを諦めてしまったかのような、それでいて、何かを必死に探しているような、不思議な表情。

僕が彼女から目を離せずにいると、彼女は不意に、こちらを振り返った。

バチリ、と視線が合う。

しまった、と思った。彼女の大きな瞳が、驚いたように少しだけ見開かれる。気まずい沈黙が、僕と彼女の間に流れた。先に口を開いたのは、彼女の方だった。

「……ごめんなさい。邪魔、しちゃったかな」

「あ、いや……」

僕は慌てて首を横に振る。まずい。会話が始まってしまう。何か当たり障りのないことを言って、この場をやり過ごさなければ。

「僕の方こそ……。いつも、誰もいないから……」

「そっか。ここ、穴場だもんね。私も、時々来るんだ」

彼女は小さく微笑んだ。その笑顔は、まるで薄氷のように繊細で、すぐに壊れてしまいそうに見えた。

「写真、撮ってたの?」

彼女の視線が、僕の手の中にあるカメラに注がれる。僕は無言でこくりと頷いた。何かを喋れば、嘘をついてしまうかもしれない。正直に答えたとしても、会話が続いてしまうかもしれない。どちらにしても、僕にとってはリスクでしかなかった。

「そうなんだ。……見せて、もらってもいい?」

「え?」

予想外の言葉に、僕は素っ頓狂な声を上げた。僕の写真を? 誰かに見せるためじゃなく、ただ自分のためだけに撮っている、この自己満足の塊のような写真を?

「だ、ダメかな……?」

少し不安そうに、彼女が僕の顔を覗き込む。断るための、適当な理由が思いつかない。「見せたくない」と正直に言えば、彼女を傷つけてしまうだろう。「データがない」と言えば、それは嘘になる。

僕は逡巡の末、黙ってカメラの背面液晶を彼女の方に向けた。そこには、さっきまで僕が見ていた、白っぽい空の写真が表示されている。

「わぁ……」

彼女は感嘆の声を漏らした。

「なんてことない空なのに、なんだか、すごく綺麗。優しい色だね」

優しい色。僕が撮った写真に、そんな感想を言われたのは初めてだった。

「雲の向こう側にある、太陽の光が見えるみたい。……うん、すごくいい写真だと思う」

彼女は、心の底からそう思っているようだった。その言葉に、嘘の色は少しも混じっていない。だからだろうか。僕の胸は、少しも痛まなかった。それどころか、胸の奥の方が、じんわりと温かくなるような、不思議な感覚があった。

「あの、私、天野星奈あまのせな。二組の」

「……三組、夏月湊」

僕は、ほとんど反射的に自分の名前を告げていた。

「夏月くん、か。よろしくね」

星奈は、もう一度ふわりと微笑んだ。

その日、僕と彼女が交わした会話は、それだけだった。チャイムが鳴ると、星奈は「じゃあね」と小さく手を振り、先に屋上を去っていった。

一人残された屋上で、僕はしばらく呆然とその場に立ち尽くしていた。胸の奥に残る、微かな温かさ。それは、僕がこの一週間ですっかり忘れてしまっていた、他人とのまともなコミュニケーションがもたらす、温もりだったのかもしれない。

翌日も、星奈は屋上にいた。

その次の日も。

僕たちは、特に約束をしたわけでもないのに、毎日昼休みになると屋上で顔を合わせるようになった。会話は、いつも他愛のないものだった。

「今日の給食、カレーだって」

「夏月くんは、写真部なの?」

「ううん、違う。ただの趣味」

「そっか」

会話が途切れても、気まずい空気は流れなかった。彼女はフェンスのそばで空を眺め、僕は少し離れた場所でシャッターを切る。ただそれだけの、静かで穏やかな時間。

星奈と話している時、僕は不思議と嘘をつく必要がなかった。彼女の質問はいつもシンプルで、僕が正直に答えても誰も傷つかないものばかりだったからだ。そして何より、彼女自身が、嘘をつく人間ではないように思えた。彼女の言葉は、いつも彼女の瞳と同じくらい、真っ直ぐで透明だった。

そんな日々が、一週間ほど続いたある日の放課後。

その日は、珍しく空が燃えるような夕焼けに染まっていた。僕は授業が終わるなり、いつものように屋上へと向かった。きっと、星奈も来ているはずだ。そんな、何の根拠もない確信があった。

扉を開けると、思った通り、彼女はそこにいた。

夕陽を浴びて、彼女の黒髪がきらきらと光っている。フェンスに凭れかかり、遠くの空を眺めるその姿は、まるで一枚の絵画のようだった。僕は無意識にカメラを構え、シャッターを切る。

その音に、彼女が気づいた。ゆっくりとこちらを振り返り、僕の姿を認めると、ふわりと微笑む。

「やっぱり、来てたんだね」

「まあ……。こんな空、撮らないわけにはいかないだろ」

僕は少し照れ臭いのをごまかすように、ぶっきらぼうに答えた。

僕たちは並んでフェンスの前に立ち、言葉もなく、ただ空の色が刻一刻と変わっていくのを眺めていた。黄金色が茜色に、茜色が深い紫紺へと。まるで世界が終わってしまう前の一瞬の輝きみたいに、空は燃えていた。

永遠によく似た、ほんの一瞬の奇跡マジックアワー

「……きれいな夕焼け。嘘みたいに赤いね」

星奈が、ぽつりと呟いた。

その言葉に、僕はドキリとした。どうしてだろう。何の変哲もない感想のはずなのに、彼女が口にする「嘘」という言葉だけが、やけに鋭く僕の胸に突き刺さった。

「なあ、天野さん」

僕は、自分でもなぜそんなことを聞こうと思ったのか分からなかった。ただ、聞かなければいけない気がした。

「もし、嘘をついたら死ぬ、みたいな世界があったら、どうする?」

「え?」

星奈はきょとんとした顔で僕を見た。あまりにも突拍子もない質問に、戸惑っているようだった。

「どうしたの、急に。そんな変な質問」

「いや……なんとなく。どう思うかなって」

僕は夕焼けから目を逸らさずに言った。

星奈は少しの間、何かを考えるように黙り込んでいたが、やがて静かに口を開いた。

「そっか……。そうだね。もしそんな世界があったら……」

彼女の声は、夕暮れの風に溶けてしまいそうなくらい、穏やかだった。

「……楽かもしれないな、って思う」

「楽?」

予想外の答えに、僕は思わず彼女の方を向いた。

星奈は、寂しそうに笑っていた。

「うん。だって、誰もがお互いに、本当のことしか言えない世界なんでしょ? だったら、勘ぐったり、疑ったり、傷ついたりすることもなくなるんじゃないかな。少しだけ、生きやすくなる気がする」

彼女の言葉は、僕にとって衝撃だった。

僕が呪いだと思っているこの現実を、彼女は「楽かもしれない」と言ったのだ。

僕が絶望しているこの世界を、彼女は「生きやすい」と言ったのだ。

「それにね」と、星奈は続けた。

「私、もう、嘘をつくの、疲れちゃったから」

その横顔は、夕陽のせいだけではない、深い哀しみの色を帯びていた。

その時、僕は初めて知った。彼女がその繊細な笑顔の裏に、僕などには想像もつかないほどの、重い何かを隠しているということを。

「私ね、もうすぐ見られる流星群を、一番綺麗に見える場所で、誰かと一緒に見たいっていう夢があるんだ」

唐突に、彼女は言った。

「しし座流星群。今年は、ここ数年で一番の当たり年なんだって。街の明かりが届かない、山の上の展望台まで行けば、きっと、星が降ってくるみたいに見えるはず」

彼女は、まるで自分に言い聞かせるように、そう語った。その瞳は、空の彼方、まだ見ぬ星空を見つめているようだった。

「でも、一人で行くのは、なんだか寂しいから。……だから」

彼女は、意を決したように僕の方を真っ直ぐに見つめた。

その瞳の強さに、僕は息をのむ。

「夏月くん。よかったら、一緒に、見に行ってくれませんか?」

それは、僕にとって、あまりにも残酷な誘いだった。

「約束」という名の、未来を縛る鎖。

今の僕には、誰かと未来の約束をすることなんて、できるはずがない。だって、僕に、その「未来」が訪れる保証なんて、どこにもないのだから。

断らなければ。適当な理由をつけて。「その日は用事がある」と。

けれど、言葉が、出てこない。

目の前の彼女の、あまりにも真剣な瞳が、僕に嘘をつくことを許してくれない。

もし、ここで嘘をついたら? また、あの激痛が僕を襲うだろう。この、夕焼けよりも赤い血を吐いて、僕は彼女の前で倒れることになるのかもしれない。

嘘は、つけない。

でも、本当のこと――僕がいつ死ぬか分からない呪いにかかっているなんてこと、言えるはずがない。

僕に残された選択肢は、沈黙だけだった。

僕が何も言えずにいると、星奈はふっと表情を和らげ、困ったように笑った。

「ごめんね、困らせちゃったよね。いきなり、こんなこと言われても……」

「いや、そういうわけじゃ……」

「ううん、いいの。忘れて」

彼女はそう言って、僕から視線を逸らした。その横顔は、僕が今まで見た中で、一番寂しそうに見えた。

違う。そんな顔をさせたいわけじゃない。

僕が口を開きかけた、その時だった。

カシャリ。

僕の手が、勝手に動いていた。

カメラが、彼女のその一瞬の表情を切り取っていた。

ファインダー越しに見えた彼女は、夕焼けの光の中で、泣き出しそうなくらい、綺麗だった。

僕がシャッターを切った音に、星奈せなは驚いてこちらを振り返った。その大きな瞳が、夕陽の最後の光を吸い込んで、きらりと潤んで見える。

「……なんで、今」

「……なんとなく」

僕はカメラを構えたまま、それだけ答えるのが精一杯だった。本当は、ちゃんとした理由なんてなかった。ただ、彼女のあの寂しそうな横顔を、このまま世界から消してしまうのが、たまらなく惜しいと思ったのだ。僕の身勝手な感傷が、指を動かしていた。

「ひどいなあ、夏月なつきくんは」

星奈は、怒っているわけではなさそうだった。むしろ、困ったように、でもどこか嬉しそうに、ふわりと微笑む。

「一番見られたくない顔、撮られちゃった」

「……別に、変な顔じゃなかった」

「ほんと?」

「うん」

それは、嘘ではなかった。僕の胸は痛まない。ファインダー越しに見えた彼女は、本当に、どうしようもなく綺麗だったのだから。

「そっか。……なら、いっか」

彼女はそう呟くと、名残惜しそうにもう一度空を見上げた。太陽はすでに地平線の向こうに沈み、空は深い藍色と燃えるような赤のグラデーションに染まっている。一番星が、瞬き始めていた。

「……そろそろ、帰らないと」

「ああ」

僕たちはどちらからともなく、屋上の扉へと歩き出す。ギィ、と錆びた蝶番の音が、やけに大きく響いた。階段を下りる間、僕たちの間には言葉はなかった。気まずいというより、お互いに、何を話せばいいのか分からない、そんな沈黙だった。

昇降口で、僕たちは並んで靴を履き替える。外はもう、すっかり夜の気配を纏っていた。

「じゃあ、また」

星奈が、小さな声で言った。

「うん、また」

僕は、それだけを返す。僕たちの関係は、それ以上でも、それ以下でもないはずだった。名前も知らないクラスメイトから、屋上で時々会う顔見知りへ。ただ、それだけ。それなのに、今日のこの気まずさはなんだろう。僕が彼女の誘いを断った――いや、断ることすらできなかったせいだ。

「あのさ」

自分の背中に向かって歩き出そうとした僕を、星奈の声が呼び止めた。振り返ると、彼女は何かを決心したように、まっすぐ僕の目を見ていた。

「夏月くんは、どうして写真を撮るの?」

「え?」

唐突な質問だった。どうして、写真を撮るのか。そんなこと、今まで考えたこともなかった。

「なんとなく、だよ。暇つぶし」

「嘘だ」

星奈は、きっぱりと言った。

その言葉に、僕の心臓がどきりと跳ねる。まさか、僕の秘密がバレたのか?

「だって、夏月くんの写真、すごく優しいもん。ただの暇つぶしで撮ってる人の写真じゃないよ。もっと、こう……撮りたいっていう、強い気持ちが伝わってくる」

彼女の言葉は、僕がずっと目を背けてきた、自分自身の心の奥底を正確に抉り出しているようだった。

そうだ。暇つぶしなんかじゃない。僕は、撮りたかったのだ。この色褪せた世界の中で、ほんの一瞬だけ輝く、美しいものを。消えてなくなってしまう前に、この手で捕まえておきたかったのだ。

「……別に、そんな大したものじゃない」

僕は、本心を見抜かれた気恥ずかしさから、ぶっきらぼうにそう答えることしかできなかった。

「そっか。……でも、私は好きだよ。夏月くんの写真」

そう言って、彼女は今度こそくるりと背を向けた。

「じゃあね、また明日」

小さな背中が、街灯の灯りに照らされながら、ゆっくりと遠ざかっていく。僕はその場から動くこともできず、ただ彼女の後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと立ち尽くしていた。

胸の奥が、痛い。

それは、嘘をついた時の、あの物理的な痛みとは違う。もっと鈍くて、甘くて、どうしようもなく切ない、初めて知る痛みだった。

その夜、僕はベッドの中でずっと、星奈のことを考えていた。

彼女の寂しそうな横顔。僕の写真が好きだと言ってくれた時の、嬉しそうな声。そして、「嘘をつくのに疲れた」と呟いた時の、哀しげな瞳。

彼女もまた、僕と同じように、何かを偽り、何かを隠しながら生きているのかもしれない。僕が「嘘をつくことのできない」呪いにかかっているのだとしたら、彼女は「嘘をつかなければ生きていけない」呪いにかかっているのではないか。そんな、突拍子もない考えが頭をよぎった。

(流星群、か……)

僕はスマホを手に取り、「しし座流星群」と検索する。すぐに、たくさんの情報がヒットした。彼女の言った通り、今年の流星群は数年に一度の規模で、極大日は一週間後。天気予報は、今のところ晴れだった。

記事には、息をのむような美しい流星群の写真が添えられていた。夜空を切り裂くように降り注ぐ、幾筋もの光の帯。

こんな景色を、彼女は僕と見たがっていたのか。

僕のせいで、彼女は一人であの展望台に行くことになるのかもしれない。あるいは、行くこと自体を諦めてしまうかもしれない。

そう思うと、また胸が痛んだ。

僕は、どうすればいい?

嘘をつけない僕に、何ができる?

答えなんて、出るはずもなかった。僕は重いため息とともにスマホを閉じ、目を瞑った。眠れば、少しは楽になるかもしれない。そう思った。

けれど、その日の夢見は、最悪だった。

僕は、真っ暗な空間に一人で立っていた。目の前には、巨大な砂時計がある。その砂は、僕の寿命そのものだった。嘘をつくたびに、上のガラス器から大量の砂がザラザラと流れ落ちていくのが見える。

もう、残りは僅かしかない。

焦る僕の耳に、星奈の声が聞こえる。「一緒に、見に行ってくれませんか?」

行きたい、と叫ぼうとする。けれど、喉から出るのは意味のない喘ぎ声だけ。どうしようもない無力感に苛まれていると、砂時計の最後の砂が、さらりと落ちきった。

その瞬間、僕の身体は足元から崩れ始め、砂になっていく。

やめてくれ、と叫ぶ僕の目の前で、星奈が泣きそうな顔で僕を見ている。

「嘘つき」

彼女の唇が、そう動いた。

「――ッは!」

僕は、自分の叫び声で目を覚ました。

心臓が、痛いほど激しく脈打っている。全身は汗でぐっしょりと濡れ、シーツが肌に張り付いて気持ち悪い。

窓の外は、まだ薄暗い。時計を見ると、午前四時を少し回ったところだった。

最悪の目覚めだった。夢で見た、星奈の最後の言葉が、耳の奥で何度も反響している。

嘘つき。

そうだ、僕は嘘つきだ。彼女の誘いから逃げた。自分のことばかり考えて、彼女の勇気を踏みにじった。そして、写真が好きだという自分の本心からも、目を逸らした。

嘘をつけない身体なのに、僕は結局、誰よりも大きな嘘をつき続けているんじゃないか。

僕は、たまらない気持ちになってベッドから這い出した。

カメラを掴むと、Tシャツにスウェットという格好のまま、僕はアパートを飛び出した。

どこへ行くという当てもなかった。ただ、じっとしていることができなかったのだ。

夏の夜明け前の空気は、ひんやりとしていて心地よかった。僕は夢中でシャッターを切った。朝露に濡れた紫陽花を。静まり返った商店街のシャッターを。白み始めた東の空を。

ファインダーを覗いている間だけは、余計なことを考えずに済んだ。

どれくらい歩き回っただろうか。気づけば、僕は学校の前に立っていた。もちろん、門は固く閉ざされている。僕はフェンスに背を預け、その場にずるずると座り込んだ。

疲れていた。身体も、心も、もう限界だったのかもしれない。

(もう、どうだっていいか……)

諦めに似た感情が、心を支配し始める。僕の命がいつ尽きようと、世界は何も変わらずに続いていく。僕一人がいなくなったところで、誰も気にも留めないだろう。

そう思った時、ふと、星奈の顔が脳裏に浮かんだ。

僕の写真を見て「きれい」と言ってくれた時の顔。僕に「写真が好き」と言ってくれた時の顔。

もし、僕がいなくなったら、彼女は少しでも、悲しんでくれるだろうか。

――いや、違う。

僕が考えなければいけないのは、そんなことじゃない。

(僕は、彼女の、あの寂しそうな顔を、もう一度見たいのか?)

答えは、決まっていた。

見たくない。

彼女には、笑っていてほしい。僕の写真を見てくれた時のように、心から楽しそうに。

そのためなら。

そのためなら、僕は――。

僕は、ゆっくりと立ち上がった。

空は、すっかり明るくなっていた。昇り始めた太陽が、僕の影を長く、長くアスファルトの上に伸ばしている。

僕は、学校の校舎を見上げた。

一番上にある、小さな屋上。僕と彼女だけの、聖域。

今日、もう一度、彼女に会おう。

そして、正直に話そう。

僕が嘘をつけないことも、いつ死ぬか分からないことも、全部。

その上で、もう一度、彼女に問おう。

それでも、一緒に星を見に行ってくれるか、と。

それで断られたとしても、もう後悔はない。それが、僕にできる、唯一の誠実なのだから。

そう決心した途端、僕の心は不思議なくらい、晴れやかになっていた。

胸の痛みは、どこかへ消えていた。

色褪せていた世界に、ほんの少しだけ、色が戻ってきたような気がした。

夏の朝の光は、潔いほど真っ直ぐにアスファルトを照らしつけていた。僕の心の中にあった夜明け前の湿った感傷は、その強い光に晒されて、すっかり乾ききってしまったようだった。

決めたのだ。もう、逃げるのはやめよう。

僕の短い人生の中で、最も大きな決意。それは、不思議なほどの静けさと共に僕の胸の中にストンと落ちて、確かな重みを持っていた。

いつもより少し早い電車に乗り、学校へと向かう。教室のドアを開けると、まだ生徒の姿はまばらだった。自分の席に着き、鞄を置く。窓の外では、グラウンドで朝練に励む野球部の声が響いていた。ありふれた日常の音。昨日までは、自分とは関係のない遠い世界の音だと思っていた。でも、今は少しだけ違って聞こえる。

(今日、話すんだ)

心の中で、何度もその言葉を反芻する。どんな順番で? どんな言葉で? シミュレーションを繰り返すが、どれもしっくりこない。そもそも、「嘘をつくと寿命が削れる」なんていう荒唐無稽な話を、彼女は信じてくれるのだろうか。頭のおかしい奴だと思われるのが関の山かもしれない。

それでも、もう引き返すつもりはなかった。馬鹿にされたっていい。拒絶されたっていい。ただ、彼女に対してだけは、これ以上嘘つきでいたくなかった。

予鈴が鳴る少し前、教室の前のドアが開き、彼女が入ってきた。

天野星奈あまのせな

いつもより少しだけ、その姿が鮮やかに見えた。白いブラウスも、風に揺れる黒髪も、すべてがスローモーションのように僕の目に映る。

彼女は教室をぐるりと見渡し、僕の姿を認めると、一瞬だけ足を止め、瞳を揺らした。昨日の夕暮れの、あの気まずい空気が蘇る。だが、彼女はすぐに目を伏せると、何も言わずに自分の席へと向かってしまった。

その小さな仕草が、僕の胸にちくりと小さな棘を刺す。

話しかけなければ。今すぐにでも。

そう思うのに、身体が動かない。喉がカラカラに渇いて、声が出せない。僕が逡巡しているうちに、ホームルーム開始を告げるチャイムが無情に鳴り響いた。

授業の内容は、まったく頭に入ってこなかった。

数学の公式も、古典の助動詞も、ただの記号の羅列にしか見えない。僕の意識は、斜め前の席に座る彼女の、小さな背中だけに集中していた。時折、彼女が何かをノートに書き留めるたびに、その黒髪がさらりと揺れる。そのたびに、僕の心臓は意味もなく跳ねた。

どう切り出せばいい?

「昼休み、屋上に来てくれ」とメモを渡すか? いや、そんな勇気はない。休み時間に、直接声をかける? 周りに誰かいたらどうする?

思考は空転を続け、時間だけが残酷に過ぎていく。気がつけば、午前中の授業は終わり、昼休みを知らせるチャイムが鳴っていた。

今だ。今しかない。

僕が固い決意と共に椅子から立ち上がろうとした、その時だった。

「星奈ー! お弁当食べよ!」

明るい声と共に、クラスの中心にいる女子グループが、あっという間に星奈の机を取り囲んだ。

「あ、うん」

星奈は少しだけ困ったような顔をしたが、すぐに笑顔を作って頷いた。まずい。このままでは、話しかけるタイミングを失ってしまう。

僕は、ほとんど無意識に彼女の机へと歩み寄っていた。女子たちの「なになに?」という好奇の視線が突き刺さる。

「あ、あの、天野さん」

僕の声は、自分でも驚くほど上ずっていた。

僕の声に、星奈は驚いたように顔を上げた。その瞳には、戸惑いの色が浮かんでいる。

「夏月くん……? どうしたの?」

「いや、その……少し、話が」

「え?」

僕がそこまで言った時、星奈を取り囲んでいた女子の一人が、わざとらしく言った。

「もしかして、デートのお誘い? ひゅーひゅー!」

からかうような声に、教室中の視線が一斉に僕たちに集まる。最悪だ。こんな状況で、何を話せというのか。

星奈は、顔を真っ赤にしながら慌てて首を横に振った。

「ち、違うよ! もう、からかわないでよ!」

そして、申し訳なさそうな顔で僕を見た。

「ごめん、夏月くん。今日、みんなと一緒にお弁当食べようって、昨日から約束してて……。また、今度でもいいかな?」

その言葉に、僕は何も言い返せなかった。

「……ああ、うん。分かった。邪魔して、ごめん」

それだけ言うのが、精一杯だった。僕は逃げるようにその場を離れ、自分の席で買ったパンを無言で口に詰め込んだ。パンは、まるで砂みたいにパサパサで、味がしなかった。

チラリと星奈の方を見ると、彼女は友達と笑い合いながら、お弁当を広げていた。でも、その笑顔はどこかぎこちなく、時折、心配そうにこちらを窺っているのが分かった。

僕の決意は、いともたやすく打ち砕かれた。一人、いつものように屋上へ向かう。

扉を開けると、そこには誰もいなかった。がらんとしたコンクリートの空間が、やけに広く感じる。僕だけの聖域だったはずの場所は、彼女がいないだけで、ただの色のない、空っぽの箱になってしまっていた。

結局、放課後まで、僕は星奈に話しかけることができなかった。

ホームルームが終わると、生徒たちは蜘蛛の子を散らすように教室を出ていく。僕は、自分の席で彼女が一人になるタイミングをじっと待っていた。

星奈も、何かを察しているのか、帰り支度の手がやけに遅い。教科書を鞄にしまう動作の一つ一つが、ひどくぎこちなく見えた。

(今だ。今なら、誰もいない)

僕が意を決して立ち上がろうとした、その時。

「星奈、お待たせー!」

教室の後ろのドアが開き、星奈の親友だという、別のクラスの女子生徒が顔を出した。確か、名前は美咲みさきさん。快活で、誰にでも気さくに話しかける、星奈とは対照的なタイプの女の子だ。

「ごめんごめん、先生に捕まっちゃってさ。さ、帰ろ! 駅前のクレープ屋、今日まで割引なんだって!」

「あ、うん……」

星奈は、一瞬だけ僕の方を気にするそぶりを見せたが、美咲さんに腕を引かれると、もう逆らうことはできなかったようだった。

「じゃあね、夏月くん」

最後に、小さな声でそれだけを残して、彼女は教室を出て行った。

パタン、と閉まったドアの音が、やけに大きく響く。

夕陽が差し込む教室に、僕は一人、取り残された。

机の影が、床に長く伸びている。まるで、僕自身の無力さを象徴しているかのようだった。

(……なんだよ、それ)

込み上げてきたのは、情けない自分への怒りだった。決心したはずじゃなかったのか。正直に話す覚悟を決めたはずじゃなかったのか。

それなのに、結局僕は、タイミングが悪いだとか、周りに人がいるだとか、そんなことを言い訳にして、一歩も踏み出せずにいる。

「正直に話す」

たったそれだけのことが、こんなにも難しいなんて。

僕は重い足取りで鞄を掴むと、誰のいない廊下をとぼとぼと歩き出した。

帰り道、商店街を抜けたあたりで、僕はふと足を止めた。

見慣れた薬局の自動ドアから、見覚えのある姿が出てきたところだった。

天野星奈。

彼女は一人だった。親友の美咲さんの姿はない。彼女は小さな紙袋を大事そうに胸に抱え、何か考え事でもしているのか、俯き加減にゆっくりと歩いている。

心臓が、大きく音を立てた。

今しかない。

これが、多分、今日最後のチャンスだ。これを逃したら、僕はまた、昨日の夜と同じように後悔の中で眠ることになる。

僕は、ほとんど叫ぶように、彼女の名前を呼んだ。

「――天野さん!」

僕の声に、彼女の肩がびくりと跳ねた。

ゆっくりと振り返った彼女の顔には、驚きと、少しの怯えのような色が浮かんでいる。

「な、夏月くん……? どうして、ここに……」

「……追いかけてきた」

息を切らしながら、僕は言った。実際、少しだけ走っていた。

「話があるんだ。昨日のこと、そして、昼間のこと」

僕の真剣な表情に、彼女も何かを察したようだった。黙って、こくりと頷く。

僕たちは、近くの児童公園へと向かった。夕暮れの公園には、もう誰の姿もない。ブランコが二つ、寂しそうに並んでいた。僕たちは、そのブランコに、少しだけ距離をあけて腰を下ろす。

キィ、と錆びた音が鳴った。

何を、どこから話せばいいのか。言葉が、うまくまとまらない。

沈黙を破ったのは、星奈の方だった。

「……ごめんね。昼間も、放課後も」

「いや、天野さんが謝ることじゃない」

「でも……何か、大事な話だったんでしょ?」

「……うん」

僕は、地面を見つめたまま頷いた。夕陽が、僕たちの影を長く、長く引き伸ばしている。

もう、覚悟を決めるしかない。

「信じられないかもしれないけど、聞いてほしい」

僕は、ゆっくりと顔を上げ、彼女の目を真っ直ぐに見た。

「僕の身体は、今、少しおかしいんだ」

星奈は、何も言わずに僕の言葉の続きを待っている。その真剣な瞳に、僕は少しだけ勇気づけられた。

「僕は――嘘をつくと、胸が痛む」

僕は、言葉を選びながら、自分の身に起きていることを、一つ一つ丁寧に説明し始めた。

初めてあの激痛に襲われた日のこと。些細な嘘でも、容赦なく僕の身体を蝕んでいくこと。医者に行っても、原因が分からなかったこと。そして、ただの痛みじゃない、自分の命そのものが、少しずつ削り取られていくような、あの恐怖の感覚。

星奈は、僕が話している間、一度も口を挟まなかった。

疑うでもなく、馬鹿にするでもなく、ただ、時折小さく頷きながら、僕の話に耳を傾けていた。その翡翠ひすいのように澄んだ瞳は、僕の言葉の奥にある、僕自身の魂を見透かしているかのようだった。

僕は、すべてを話し終えた。

流星群の誘いに、すぐに返事ができなかった理由も。正直に話すことが、どれだけ怖かったのかも。

公園に、沈黙が落ちる。

カラスが鳴く声と、遠くで走る電車の音だけが聞こえていた。

僕は、彼女がどんな言葉を口にするのか、怖くて顔を上げることができなかった。軽蔑されるだろうか。気味悪がられるだろうか。

やがて、星奈が、静かに息を吸う音がした。

そして、僕が予想もしなかった言葉が、彼女の唇から紡がれた。

「……そっか。大変だったね、夏月くん」

その声は、夕暮れの公園の空気に溶けてしまいそうなほど、穏やかで、優しかった。

僕は驚いて顔を上げた。星奈は、ブランコに座ったまま、まっすぐ僕を見ていた。その瞳には、軽蔑も、気味悪がるような色も浮かんでいない。あるのは、ただ、深い水のような、静かな共感だけだった。

「……信じて、くれるのか?」

僕の声は、自分でも情けないと思うほど、震えていた。

「うん。信じるよ」

彼女は、迷いなく頷いた。

「だって、夏月くんの目、すごく真剣だもん。それに……」

星奈は言葉を切り、少しだけ俯いた。何かを言い淀んでいるように見える。

「それに、いつも正直な言葉しか言わない夏月くんが、こんな大事なことで、嘘をつくとは思えないから」

その言葉は、僕がこの数週間、誰よりも聞きたかった言葉だったのかもしれない。

理解されないと思っていた。拒絶されると覚悟していた。それなのに、彼女は、僕の荒唐無稽な話を、当たり前のことのように受け入れてくれたのだ。

張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れる。

僕の目から、ぽろり、と熱いものがこぼれ落ちた。一度溢れ出した涙は、もう止めることができなかった。僕は子供みたいに、声を殺して泣いた。情けない。みっともない。そう思うのに、涙は止まらない。

星奈は、何も言わずに、ただ静かに僕が泣き止むのを待っていてくれた。僕が落ち着くのを待って、おもむろに立ち上がると、自分の鞄からハンカチを取り出して、そっと僕に差し出した。

「……ありがとう」

僕はぐしゃぐしゃの顔で、それを受け取る。ハンカチからは、石鹸のような、清潔で優しい香りがした。

「ごめん。こんな、情けないとこ見せて……」

「ううん。全然、情けなくなんかないよ」

星奈は、僕の隣にしゃがみ込むと、僕の顔を覗き込んだ。

「一人で、ずっと苦しかったんでしょ? よく、頑張ったね」

その声は、まるで母親が幼い子をあやすような響きを持っていた。僕は、その温かさに、また泣きそうになるのを必死で堪えた。

しばらくして、僕はようやく落ち着きを取り戻した。

夕闇はさらに深まり、公園の古い街灯がぽつりとオレンジ色の光を灯している。

「あのさ」

僕はおずおずと切り出した。一番、聞かなければいけないことを。

「流星群のことなんだけど……」

「うん」

「僕に、未来があるかどうか、分からない。もしかしたら、一週間後、僕はもうこの世界にいないかもしれない。それでも……」

僕は、一度言葉を切り、大きく息を吸った。

「それでも、もし天野さんがよければ、僕と、一緒に星を見に行ってくれませんか」

これが、僕の精一杯の誠意だった。嘘のない、ありのままの僕の言葉。

星奈は、僕の言葉をじっと聞いていたが、やがて、小さく首を横に振った。

その仕草に、僕の心臓は凍りついた。

(ああ、やっぱり、ダメか……)

当然だ。いつ死ぬか分からないような奴と、約束なんてできるはずがない。僕は、自分から誘っておきながら、勝手に傷ついていた。

僕が俯こうとした、その時。

「嫌だよ。夏月くん『と』、じゃない」

「え……?」

「夏月くん『が』、いいの。夏月くんじゃなきゃ、嫌なの」

彼女は、僕が今まで見たこともないような、強い光を宿した瞳で、僕をまっすぐに見つめていた。

「私と、じゃなくて、私が、夏月くんと一緒に行きたいの」

それは、拒絶の言葉ではなかった。

僕が想像していたよりも、ずっと、ずっと温かくて、力強い肯定の言葉だった。

「未来があるかなんて、そんなの、誰にも分からないことだよ」

星奈は、静かに言った。

「健康な人だって、明日、事故に遭うかもしれない。私だって……」

彼女は、そこまで言って、ふっと口を噤んだ。その横顔に、またあの哀しげな影が差したのを、僕は見逃さなかった。

「だから、未来の心配をするのは、やめ。今、この瞬間に、夏月くんが私と星を見たいって思ってくれてるなら、私は、それだけで、すごく嬉しい」

そう言って、彼女は、花が綻ぶように笑った。

その笑顔は、僕が撮ったどんな写真よりも、僕が見たどんな空の色よりも、綺麗だった。

僕の世界が、この瞬間、確かな色を取り戻した。

「……ありがとう、天野さん」

僕が絞り出した声に、彼女は「うん」と頷く。

「約束、だね」

「ああ、約束だ」

僕たちは、どちらからともなく、指切りをするように小指を絡めた。触れた彼女の指は、驚くほど冷たかった。

僕たちは、それから少しだけ話をした。

流星群を見るための、具体的な計画。山の上の展望台までの行き方。天気予報のこと。話しているうちに、僕たちの間には、もう昨日のような気まずい空気はなくなっていた。

「そうだ。これ、返すね」

僕は、彼女に借りたハンカチを差し出した。

「あ、いいよ。あげる」

「いや、そういうわけには……。洗って、明日返すから」

「ふふ、分かった。じゃあ、明日、待ってる」

その「明日」という言葉の響きが、僕にはたまらなく嬉しかった。僕にも、明日が来る。彼女と会える、明日が。

「それじゃあ、また明日」

公園の入り口で、僕たちは別れた。それぞれの帰り道へと歩き出す。

僕は何度も、彼女の小さな後ろ姿を振り返った。彼女もまた、一度だけ、こちらを振り返って小さく手を振ってくれた。その仕草一つ一つが、僕の心を温かく満たしていく。

家に帰り着き、ベッドに倒れ込む。

目を閉じると、彼女の笑顔が瞼の裏に浮かんだ。

「夏月くんじゃなきゃ、嫌なの」

その言葉が、耳の奥で何度も繰り返される。

嘘をつくと寿命が減る。

僕を縛り付けていた、残酷で理不尽な呪い。

でも、もし、この呪いがなかったら、僕は彼女に本当の自分をさらけ出す勇気を持てただろうか。正直に、自分の気持ちを伝えることができただろうか。

そう思うと、この呪いさえも、彼女と出会うために神様が用意した、必然だったのかもしれない。そんな、都合のいいことまで考えてしまう。

僕は、ゆっくりと身体を起こすと、机に向かった。

壁に貼ってあるカレンダー。

今日の日付に、僕は赤いペンで小さな丸をつけた。そして、一週間後の、流星群が降る夜の日付にも。

二つの丸の間にある、空白の六日間。

それが、今の僕に与えられた、確かな時間。

この六日間を、僕はどう生きる?

答えは、もう決まっていた。

彼女の笑顔を、一つでも多く、この目と、このカメラに焼き付けよう。

たとえ、その先に待っているのが、永遠の別れだったとしても。

僕の、短くて、かけがえのない夏が、今、本当に始まったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る