君と見上げた、最後の夏空

神楽 朔

プロローグ

カシャリ、と乾いた音が響く。

古い一眼レフのシャッター音は、少しだけ感傷的で、それでいて優しい。ファインダー越しに切り取られた世界は、ありふれた日常のはずなのに、息をのむほど美しい色をしていた。

「……うん、いい写真だね」

不意に、すぐ隣からそんな声が聞こえた気がして、私はハッと顔を上げた。

もちろん、そこに彼の姿はない。

あるのは、ゆっくりと傾き始めた西陽にしびに染まる公園のベンチと、私の影に寄り添うように伸びる、もう一つの見えない影だけ。

分かっている。これはただの記憶の残滓ざんしであり、私の心が勝手に見せている幻。

それでも、シャッターを切るたびに、私は今でも彼の声を探してしまう。私の撮る写真を、世界で一番優しい瞳で見てくれた、君の声を。

私の夏は、一人の『正直な嘘つき』との出会いから始まりました。

今思えば、あの頃の私は、とうに世界に期待することをやめていたのだと思います。

物心ついた時から、私の日常は病院の白い壁と、消毒液の匂い、そして窓から見える四角い空でできていました。諦めること。我慢すること。未来を夢見ないこと。それが、この息苦しい世界で、少しでも楽に呼吸をするための、私なりの処世術でした。

体調のいい日にだけ通うことを許された学校は、まるで分厚いガラスケースの向こう側にある世界のようでした。教室の賑やかな喧騒けんそうも、友達同士で交わされる未来の約束も、すべてがキラキラと眩しくて、私には少しだけ、痛かったのです。

星奈せなは将来何になりたいの?」

「夏休み、どこか行くの?」

悪気のない質問に、私はいつも曖昧に微笑んで、当たり障りのない嘘をつくことしかできませんでした。本当のことなんて、言えるはずがなかったから。

だから、あの日、学校の屋上に足を向けたのも、一種の逃避行動だったのかもしれません。誰にも邪魔されない場所で、ただ、暮れていく空の色を眺めていたかった。

そこに、先客がいたのです。

フェンスに背を預け、黙って空の一点を見つめている男の子。それが、私が初めて意識した、夏月湊なつきみなとくんの姿でした。

同じクラスのはずなのに、彼がどんな声で話すのか、私はその時まで知りませんでした。いつも教室の隅で本を読んでいるか、窓の外を眺めているかで、誰かと楽しそうに話している姿を見たことがありませんでした。

その時の彼も、まるで世界から自分だけを切り離してしまったような、寂しそうな横顔をしていました。手には、私のお守りになっているのと同じ、少し古い形の一眼レフカメラ。

不意に、彼がカメラを構えました。レンズが向けられた先は、燃えるような茜色あかねいろに染まった、西の空。私も思わず息をのみ、その光景に見入っていました。

空が、雲が、街が、一瞬だけ黄金色に輝いて、やて静かな紫紺しこんの色へと沈んでいく。永遠によく似た、ほんの一瞬の奇跡マジックアワー

「……きれいな夕焼け。うそみたいに赤いね」

ほとんど無意識に、言葉がこぼれていました。

驚いたように肩を揺らした湊くんは、ゆっくりとこちらを振り返りました。その瞳には、夕焼けの赤が映り込んでいて、まるで泣いているみたいに見えました。

それが、私たちの始まりでした。

彼は、不思議な人でした。

私の言葉に、お世辞や社交辞令で返すことをしませんでした。私が作った少し不格好なお弁当を「うん、味は普通」と言ったり、私が選んだ映画を「俺はあまり好きじゃない」と正直に言ったり。

普通なら、少しだけ傷ついてしまうような言葉のはずなのに、彼の口から発せられると、不思議と嫌な気持ちにはなりませんでした。むしろ、その不器用なほどの正直さが、私の心を縛っていた見えないくさりを、少しずつ解いていくような気がしたのです。

誰もが私の身体を気遣ってくれる優しい嘘の世界で、彼の嘘のない言葉だけが、私を「病気の天野星奈」ではなく、ただの「星奈」として扱ってくれているように感じました。

湊くんと過ごす時間は、私にとって宝物たからものでした。

彼が撮る写真を見るのが好きでした。彼が切り取る世界は、なんてことのない日常のはずなのに、光と影が美しく折り重なって、一枚一枚が特別な物語のように見えました。

いつからか、彼のレンズは、風景だけでなく、私自身をも捉えるようになっていました。ファインダー越しに見つめられるのは、少しだけ気恥ずかしかったけれど、写真の中に写る私は、自分でも知らないような顔で、本当に楽しそうに笑っていました。

彼と過ごした夏は、まるで長い夢のようでした。

入道雲にゅうどうぐもも、夕立ゆうだちの匂いも、夜空を埋め尽くす流星群も、すべてがうそみたいに輝いていて。

私は、忘れていたのです。この幸せな時間が、いつか必ず終わるということを。そして、彼のまとう危うげな雰囲気の正体を、私はまだ何も知らなかったのです。

彼は、私の知る誰よりも正直な人間でした。

けれど、彼はたった一度だけ、私に嘘をつきました。

それは、彼の命を懸けてついた、世界で一番優しい嘘でした。

そして、その嘘だけが、彼のいなくなったこの世界で、今も私の未来を照らし続けている、たった一つの真実しんじつなのです。

だから、神様。

もしも、あの夏に起きたことのすべてが、神様の気まぐれな悪戯いたずらだったのだとしても。

最後に彼が私に残してくれた、あの温かい嘘だけは、どうか本当のことだったのだと信じさせてください。

これは、私が彼と出会い、世界の美しさを知り、そして――彼のいない未来を、今も歩き続けている物語。

カシャリ、ともう一度シャッターを切る。

ファインダー越しに見える夏空は、あの日のように、嘘みたいな青色をしていました。

そして、やっぱり聞こえる気がするのです。

「いい写真だね」

そう言って笑う、君の声が。

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