雪界
君の歳月を、私はほとんど知らない。
私の歳月を君がほとんど知らず、知らないままに去ったように。
それでも共にあったあの日々の充足は、見せかけにもならず噓にもならない。
そう固く信じるからこそ、私は私を巡る光景を逡巡なく語ることができる。
生身であればうんざりするかもしれない。だけれども、こんなものを書き記した紙束に、ほんの微かにだけ音を立てて擦った一本のマッチで小さな火をつけて、あっという間に燃やしてしまうと、きっと書いてある長い言葉の数々も煙になって君に届くだろう。きっとそうだろう。
そう、君は、私の住む世界の冬に怯えた。
奪われてしまった太陽を、取り返そうとも思えない。暗い雲は朝の訪れをずっと妨げ、昼間であるところの時間の間中ひとをうつむかせ続ける。世界に日差しがないものだから、世界は雪が暗がりで白くくすんで、雪以外は影のようでしかなかった。
そう、私は君を脅かした。覚えている。
「雪は上からやってこないんだ。横からくる。地吹雪っていうんだよ」
海からやって来る猛烈な冬の風は、荒れる冬波を更に立ち昇らせ、飛沫と雪とをないまぜにして地面に叩きつけに来る。真正面からそいつを受けると、口を開けてりゃ息が止まる。
だからみんなうつむく。空を見ない。風も見ない。自分の足元だけを見て歩く。そしてその足音も、
「雪に埋まるの?」
「降った直後はね」
一晩過ぎると、降った雪はザラメのように固くなる。そんなところを歩くのは、夢も希望もない。無理をすれば足首だのにザラメが入り込んでくる。
「冷たくないの?」
「冷たいよ。冷たいし、体温で溶けたら靴下はグチョグチョになるし、歩かなきゃ凍えるし、寝たら死ぬし、最悪だよホント」
そんな世界のことを君とおしゃべりしたけれど、そんな世界のことを描いた話は、したことがあっただろうか。
あの充足した時間、君とのやり取りの全てを、克明に覚えているわけではない。それだってザラメになった雪と同じで、一晩たてば実際のやり取りと感じが異なった記憶しか残らないことだって多いし、そんな欠片さえとどまってくれないこともたくさんある。それでも、どこかで話したような気がする。小説の断片を見せたときに、プロみたいだと驚かれたこと。その時に、吐きながら書いた中編があるなんてことくらいは触れたかもしれない。
もちろん、話の中身までは語らなかったはずだ。主人公である私が、死んでしまった彼女の墓参りに行く話だ。そんなことを君に語るはずはない。君はその時、死を思わずにはいられない日々を病院で過ごしていたのだから。
君が去って、私が残って、君との歳月が私を支え続け私の在る意味となって、時間の積み重なりが君の合う前とまるで異なる感覚となっていって、私が若いころに試みに書いた墓参りの作品は、別に未来の予言でも何でもなしに、ただ当たり前に私の中に納まるようになった。今君にそれを捧げると、君は自分と異なる、私との歳月が成立するずっと昔に、虚構の中で存在した彼女なんてものに、どういう感情を抱くだろうか。でもそれは全て雪解けのように。痛みを伴う寒さの記憶ばかりを留めながらも雪解け水があらゆるものを潤していくように。そう願って、私には君に昔の記憶のかたまりを捧げる。
そう、その作品は、凍てついた部屋にぽつんと置かれたグランドピアノの高音の鍵盤を一音だけ、確かにタッチする。そんな基調音が耳奥で張り詰めるような気分で書いていた。
雪道を僕は歩いていた。足音が次第に伴っていった。
三月、名残の雪というには気まぐれが過ぎるほどの雪が降った。空は三月のものだった。雪解けの風に洗われたような青空があった。だから、雪は日差しを吸ってまばゆく、目を細めるしかなかった。いくらか人が歩くと、雪道は水であふれた。この雪は長持ちしない。ここで生きていると、そんな目星ばかりをつけて冬を過ごす。
ただ、海風はむき出しの耳を嚙みちぎるようにして冷ややかに拭いてくる。潮騒は夏ののどかさから程遠く、どこまでも身勝手に響いた。
季節外れは何もかもが矛盾していた。だからこそ季節が動くのだろう。風景も一刻一刻と表情を改めていくのだろう。現にそうだ。
僕はそこに向かって歩んでいた。海沿いに拓かれた墓地へ。死んだ人たちが眠る場所へ。彼女に会うために。
彼女が命を投げ出してから、何年もの間、彼女の墓の存在はわからなかった。彼女のご親族から知らされることがなかったし、彼女のご親族も知らせようがなかっただろう。そもそも僕らと彼女の関係性というのは何だったのか。僕自身にも何とも言えない。
「何それ?」
「ひどい話だよね」
私は今更ながらに苦笑して呆れ顔の君に語る。受験生の男仲間三人が、どこにも帰属していないラという名前の女の子をシェアするお話しなんだ。まだSNSもネトゲもなかった頃のことだから、どこにも帰属していない名前のない女の子なんて、昔は突飛に過ぎると自分でも思っていたけれど、気がついたら今じゃホントに凡庸だ。
「セフレみたいな感じなわけ?」
それはイエスともノーとも言い難いところだよねえ。傍目から見たらそうでしかないだろうし、関係なんて常に傍目からどう見えるかということでしかない問題だからね。
どこからどう見ても愛としか言い表せない関係性も、別れた後ではその想いが綺麗になくなってしまうなんてこともよくある。眉をひそめるような間柄でも生涯想いが棚引き続くこともある。少なくとも、そっちを信じて造形したんだよね。まあお子様時代の作品だったから、それは実感でも予測でもなく夢や願望、祈りだったのかもしれないけれど。
「その時の祈りが、私と出会ってホントになっちゃったってこと?」
そうかもなあ。もちろん君との間柄は不思議であってもただれてはいない。それでも、想いが棚引き続けているというのは確かにそうだ。ホントになった。それが今のこれにつながっている。リアルとか幻想とか境界線なんてどうでもよくて、ただその棚引いた想いが時間になって折り重なったものが確かにある。
君の存在は奇跡だった。そして悪いことに、その歳月が終わってしまってそれが確かになった。理屈からすれば、確かになるってことは終わってしまったものの産物だ。それは私にだってわかっている。でも、終わってしまったからこそ、何も終わっていないのだということもわかるようになる。私がこの作品を書き、書き終え、それによってこの作品の中の世界が、何も終えられていないことを悟るようにして。それに導かれるようにして君と出会う歳月を手にできたということを悟るようにして。
祈りは途絶えない。祈りは途絶えさせない。こうやって、書くことで扉を開けた自分の世界に、歳月が育み培った君の声が宿り、満ちている。
それはどんな世界。どんな言葉。
世界は言葉で組みあがり、言葉は人の意思が宿され、別の意思の別の言葉と結びつく。私は書くことで、自分の意思と誰かの意思とをないまぜにしながら、そのひとつとつに魅かれ拒絶し文章を編み、作品という純粋な嘘を組みあげる。その中に君の声がやって来る。
「名前のない女の子って、私のことなの?」
そうではなく、そしてそうだ。少なくとも今、君との歳月よりもはるか昔に手がけた作品に、今の息吹を注いでしまえば、そこには息吹の分だけの君が宿る。耳はその息吹の息遣いと君の声色を再現し、心の躍動もあの日々の律動に和してくる。表面とか、かたちとか、そんなものはどうでもよく、私の息吹の君の粒子がかそけくも透徹な和音を奏でて、私の世界に住まっている。
君は消えた。だけれども歳月が豊かに命を吹き込んでくれた私の中の君の姿は、失せたわけでも黒く塗りつぶされたわけでもない。その後の時間の流れが緩やかで散漫であるせいで、或いは君を留めるそのためにこそ時間は緩やかで散漫なものにしかならず、私の中の君は生き続けている。きっと、私も死に呼ばれるときに、私の中の君の姿を連れて、君の待つ向こう側へと歩んでいくのだろう。その景色は、私がかつて思い描いた三月の雪景色の蒼く深い空の様子に似通っているのかもしれない。
今私は過去の私の世界を君の力を借りてなぞり、まるで雪解けにならなかったあの世界に生命力を宿らせているのかもしれない。全ては終わって、そして何も終わっていない。全ては途絶えて、そして何も途絶えてなどいない。だから私があの時に描いた名前のないあの子の空疎な墓地というものは、空疎でありながらまるで空疎ではないのだと思う。
そこは、海辺だ。
三月の奇妙な、雪で洗われたような青空の下、それより前までは吹雪の中、氷の中、ただ黒いものとしか認識することができなかった松の林が、やはり何物でもないやむを得ない黒という印象を完全に払拭できていないにせよ、長らくの強風の反復ですっかり傾いでしまいながらも、異様な生命力で幹をむき出しにしている。風を止め、砂を防ぐ、人の手植えの松の林。その一隅に、ぽっかりと松を薙いで置いた公共墓地がある。名前のない子はそこに眠っている。彼女の親御さんがそう手紙で連絡してくれた。亡くなってから数年、遺品の整理の中で偶然僕の名前、僕の存在を知ったのだという。当時はまだ個人情報の管理というものが曖昧で緩かったから、断片的な情報であたりをつけて学校にでも照会すれば、調べようがあったのだろう。
それでも、僕にとって彼女はどこまでも名前のない子だった。彼女の名前が記された手紙で、差出人が彼女の父親の名前であるというその空疎さ、不確かさは、全くの虚偽、詐欺と疑ったわけではないにせよ、うまく実感という輪郭を結んでくれやしない話に終始した。それが精一杯の先方のご好意であったのだろう、名前のない子の生前のスナップ写真が一枚同封されていて、それを見るためのいくらかの勇気を引っ張り込んで、僕はそれを見た。面影はあの子のようだったけれど、おそらくは撮影したのが僕らが出会うより前のことで、記憶の中の彼女よりずっと幼く、印象も異なっていた。彼女に直接訪ねることができたならば、「わたしだけれど別人よ」 そう即答したかもしれない。過去の自分と今の自分が確実に連鎖しているかどうかなんてことは、本当に何とも言えない。彼女はそういうことを正気で考える子だったし、実際に彼女は僕らと出会う時は、それまでの彼女自身との断絶の意味合いで、おそらくきっと名前を持たなかったのだ。そしてそれはつまらない詭弁でもあって、連続して威容がしていまいが、この親御さんの娘は自ら命を絶ち、この世に二度と帰らず眠り続けることになったというのは重苦しいほどの事実だった。旅立つ瞬間の彼女の思いは断絶だったか、連続だったか、そんなことはどうでもよくなっていたのか、それもさっぱりわからない。ただ僕には、彼女とその人が同じ人間で、でもそれは僕には最後まで何の実感も伴わず、やはり僕が彼女を想い僕なりに悼み僕なりに弔うことができるのであれば、やはりそれはあの時の名前のない子としてそうするほかにないというのを痛切に思った。
だから、十数年も歳月を隔ててなお、毎年の墓参を欠かさない。正直なところ、年度末に休暇を取って出向くのは、しがない勤め人にとっては難儀な話ではあった。だけれども、それこそそんなものは過去の僕から断絶し、かりそめにやっていることで、いかにそのことで顰蹙を受けようと、白眼視されようと、僕にはそうするほかになかった。雪が降れば出向くこと自体がかなりの難事になる。海沿いの道路は吹きさらしの風の加護ですぐに凍結する。そうなってしまえばタイヤの溝なんてものも役立たずになって、踏ん張りきれずに滑ることになる。それでも墓参を続けてきた。それで死んだら、ちっとも死にたくはないが、きっと名前のないその子が自分の名前の記された墓の中で、僕を手招きした、ということと解釈されるんだろう。
そんな墓地に、そんな季節に、苦労をしてまでの参拝もなかろうと、墓地の駐車場の除雪も最小規模で、軒並み空いてはいても積雪具合の悪くない個所に駐車しなければならなかった。そもそも白線からして雪に埋もれているから、ブーツで雪を掻いて、路面の白線を確認してやらなければならなかった。墓地の中はもっとひどく、当然であるにしても除雪というものはまるで行われておらず、雪に足を交互に潜す作業を繰り返しながら、とぼとぼと歩んでいくほかに墓参はできなかった。
建立されて十数年を経て、なお真新しく見える黒御影の墓石。その半面は雪で覆われていた。難渋して墓地を歩いて歩いて、いくらか迷って、ようやくそこにたどり着いた。いい年をして花も持ってこない。線香の一本も携えない。数珠もない。ただ僕は墓石の雪を丹念に素手で払った。そして黒いモノリスのようなその墓石を青空にさらした。刻まれた名前は、やはり何の実感も浮かばず、ひたすらに空疎だった。それでも僕は、昔を思い出し、昔の時間に呆気ないほどにたやすく回帰して、かつて彼女をそう抱きしめたようにして、冷たく凍え鋭く、それゆえに痛い、その墓碑を腕の中で包むようにして抱きしめた。なお強く、なお痛く苦しく強く。
昔は三人で、彼女を抱擁した。今は僕ひとりしかいない。イイヤともアルとも、高校の卒業以来会っていない。電話を何度かしたが、会おうという気持ちがお互いに沸いては来なかったからそのままでいる。あの時は僕らは揺らめいていた。彼女自身も揺らめいていた。彼女は海の中の海藻のように波に揺れていた。僕ら三人は波そのものだった。不確かで、見えもしなくて、そのくせ執拗で、各々の唇で彼女のあちこちに口づけして。欲望でそうしたのではなかった。欲望はもっと別の、いくらでも吐き散らかすことができた。彼女がそれを受け止めていた。そんな彼女に対して今更以外の何物でもなかったが、でも、僕らにとってはそれがリアルだった。口づけは火照りの刻印だった。だけれども僕らは一人として彼女を貪りはしなかった。彼女自身、ひどく困惑していた。欲望の対象になるというのは、彼女は馴れていた。大事にされるという経験には縁の乏しい子だった。
十数年を経て、凍える墓碑相手に、たった一人で僕はそれをやった。
名前のない子は、僕らのその時期を極めて陳腐に示すのであれば、大学受験の年に現れた。もっとも、僕らは大学をモラトリアムの場としか思っていなかった。何かを学びたいわけでなく、何かに変貌したかったわけでもない。そして親や教師や学校や塾や世の中全般というものも、別に僕らに何かを本質的に学んでほしいとも望んでおらず、何かに変貌せよと命じていたわけでもなかった。受験に勝てば、数年のモラトリアムが得られる。その時間の中で次の自分を考え、次の自分を装えばいい。放埓でもいい。無軌道でもいい。東京に行けばいくらでもセックスがある。大学の中にだってそうだ。そのために模試を重ね、そのために効率よく学習し、模試の導きで身の程をわきまえ、判定に従って属する世界を定め、自分のカテゴリでより多くより一点でも。そういう歳月の中で、彼女は現れた。
「わたしの生息地はここなんよ」
それがチョコレートサンダーという名前のゲーセンだった。ゲーセンといっても、プリとクレーンが乱立して明るく小ぎれいになった今のゲーセンなんかじゃない。薄暗く、カツアゲなんぞもあって、ニキビ面が脱衣麻雀で車座になって大喜びし、格闘対戦と落ちものが全盛のころの、あの胡散臭いニセモノの世界として整えられたゲーセンだ。そこに彼女は生息していて、時々気まぐれにそこで出会ったやつと寝ていたらしい。
多分高校には通っていなかった。でも何もわからない。
出身中学は違っていたけれど、そう離れたところでもなさそうだった。でも何もわからない。
その薄暗い世界にはカジノを模したのか、大じかけの筐体のメダルゲームがいくつもあった。ルーレット、ポーカー、ブラックジャック、馬の模型がなんちゃってでしばき合う競馬のメダルゲームもあった。金を払ってそのメダルに兌換しても、メダルから金に兌換することはできない。この理不尽な、不公平な、インチキの世界に彼女は住まっていた。
僕らはそのインチキな世界に、インチキな世界から逃げ込んできた。インチキな世界をインチキじゃないものにするにはインチキじゃないと信じ込むしかない。他のやつらが信じ込めたのか、今でも信じ込めているのか、よくわからない。興味もない。僕らは逃げた。そのくせ要領よく逃げて、戻れるように逃げた。多少の不真面目さは、帰属するカテゴリを押し上げることにはならず、下がる方には滑るようにではあったけれど、どこにも帰属できなくなるというのとは異なっていた。そこはご都合主義で生きていた。行く先のモラトリアムのために今のモラトリアムを回避して、そのくせその回避がか国で別のモラトリアムのところにやけどしない程度に逃げ込んだら、そこには名前のない子がいた。
出会いは陳腐だった。彼女はメダルゲームの世界ですこぶる不調で、次から次へと手持ちのメダルを失って、すかんぴんが忍び寄ってきていた。そこに、イーヤだかが大勝ちしたものだから下心満載でメダルの無償譲渡の運びとなり、それで仲良くなった。そして寝た。イーヤだけでなくアルとも僕とも彼女は寝た。少なくとも僕は女の子と寝るのは初めてだった。何とも無様な、珍妙なことだった。
「ニセモノの世界から地続きだから。だからみんなニセモノなんだよ。だからニセモノじゃなかったら、こんなふうにしちゃうことはないし、しちゃわないということもない。そしてニセモノだろうと、別のニセモノだろうと、コーフンはしちゃうんだよ」
耳朶にささやいておいて、でも彼女自身は別に興奮しているわけでもなく、自分を見失っているという様子でもなかった。そのくせその名前のない子は、自分の希薄さにすがっているようなところもあったかもしれない。誰でもない、どこにも帰属しない、そのことによって自分を支えるというのは、単なる欺瞞だ。ただ、責められる話も出ない。僕らももっと正直に、名前のない子を迸るようにして愛すればよかった。寝て、欲望を遂げて、ますます彼女のことが分からなくなったけれど、彼女への好意が滲んできたのも本当の感情だった。
彼女は純粋だった。僕らはずっと功利的だった。だから時期が来て、自分の保身のために受験の方に顔を向けた。チョコレートサンダーから遠のいた。厄介な入試に始末をつけて、寝たくてチョコレートサンダーに飛び込んでいったら、彼女の姿は失せていた。雪はとうに消えていた。戸惑いと不安を抱えてチョコレートサンダーから出ていくと、むき出しの無機質のアスファルトが、嘲笑うように黒く広がっていた。
その後の、漫然と得たモラトリアムの歳月は、何かを懸命に行ったようで、いつもどこかが空疎だった。名前のない子がメダルゲームのところで笑っていた「ニセモノの世界だよ」という声色が、時として冷笑に上書きされ、記憶にこびりつくようになった。女の子に逃げたこともあったけれど、そんな恋愛を見透かされずに成就できるほど僕は狡猾にはなれなかったし、女の子たちも馬鹿ではなかった。そして悪いことに、何度か寝た機会で僕はいつも自分の内側に冷ややかさを抱えてしまうようになっていた。欲望は僕の望みのはずだったのに、セックスではその欲望が僕から遠ざかって、まるで僕を嘲笑っているようだった。そしてそのモラトリアムの終わりがあたりまえの顔でやってきた。時計の針はただ単に進む一方で、僕はその針に合わせて何かを解決することなどは何もできていなかった。その期間の終わりが近しいころに、名前のない女の子のご両親から、彼女が僕らの高校時代が終わり、僕らが受験を終えられたかどうかという頃に自ら命を絶ったという手紙がやってきた。ようやく遺品を整理できて、ようやく僕らの存在を知ったということで。その時には、大人が行う死の儀式というものは一通り終えられていて、僕らにできることの唯一として、彼女が眠る墓所の場を明かすという救済が示されていた。
イーヤとアルは目を背けた。それはそれで正しい選択だったと思うし、連中を責める気もない。ただ僕らはもう三人で会うことはなくなった。そして僕は、毎年命日、雪の中に墓参りをし、冷たく尖った墓碑を抱きしめ、肉身に凍えと痛みを刻印する。二度と同じことを繰り返さない、ということは多分異なる。もう二度とこんなことはないはずだから。忘れまいとしてそうすることも多分彼女にとっては不正解なのでないかと思う。もちろん自分の矜持だとか後悔のためでもない。ただただ、憑かれてそうしているだけかもしれないし、そうし続けるその意味が、答えが、死ぬまでのモラトリアムのあがきとして、死ぬ頃にぼんやり見えてくるかもしれないという淡い期待と、期待を抱える罪という自覚を曖昧に感じながら、また今年もそこへ行く。凍える墓碑を体に刻みつける。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます