第164話 ノルン、葛藤する

夜のニーベル村は驚くほど静かだった。

 精霊たちの淡い光が森の木々を照らし、遠くでは龍たちの低い呼吸音が微かに聞こえる。

 村人たちが灯す暖かなランプの光がところどころに揺れ、まるで星が地上に降りて来たような光景が広がっていた。


 そんな夜の空気に包まれた客間で、

ノルンは一人、机に向かっていた。

 昼間の笑顔とはまったく違う、どこか沈んだ表情で。


 窓の外では子どもたちの歌声が遠くで名残惜しそうに響き、龍たちの気配が穏やかに巡る。

 しかしノルンの胸は、静まるどころかずっと騒がしい。


「……どうして、こんな気持ちになるのかしら」


 ぽつりと呟き、ノルンは両手で胸元を押さえた。

 今日の出来事が何度も頭をよぎる――

 子どもに手を引かれたときのこと。

 村人が笑顔で感謝してくれたときのこと。

 そして……アルフと目が合ったときのこと。


 思い出すだけで、頬が熱くなる。


「任務、のはず……なんですのに」


 その言葉を口にすると、胸がちくりと痛んだ。


 ――伯爵家の命令。

 ――アルフに取り入り、ニーベル村を手に入れる。

 父からのその命令は、従うべき“家の方針”であり、令嬢としての役目だった。


(でも……)


 机に置かれたカップの水面が、微かに揺れている。

 ノルンの手が、震えているせいだ。


「どうして、あの人を見ると……胸が高鳴るの?」


 その答えは、まだ自分でも分からない。

 ただ、アルフの真っすぐな目を思い出すたびに、鼓動が速くなる。

 彼の村を歩く姿は自然体で、誰かのために働き、子どもに笑いかけ、精霊たちに囲まれ……

 そのどれもが、王都で見てきたどんな貴族よりも眩しく見えた。


 ノルンは立ち上がり、部屋の片隅にある鏡の前へと歩み寄る。


 鏡に映った自分の顔は、ほんのり赤い。

 昼間の鮮やかな笑顔とは違う、どこか揺れ動く少女の顔だった。


「私……どうしちゃったの?」


 指先で頬をつつき、首をかしげる。

 令嬢としての武装を外した自分は、驚くほど弱くて、脆い。

 でも、どこか心地よい。


 鏡の中の自分が微笑む。

 それに気づき、ノルンはあわてて顔をそむけた。


「いけませんわ……! これは任務で、仕事で、家のためで……」


 しかし言葉の先は、自然と萎んでしまう。


 その夜、ノルンはしばらく鏡の前から動けなかった。



 一方その頃、アルフはルカとルナを呼び、家の裏庭でひっそりと話し合っていた。

 夜風が心地よく、精霊の光が柔らかく揺れている。


「……で、アルフ。あの令嬢のこと、どう思ってるの?」


 腕を組んで尋ねてきたのはルカ。

 彼女の目は意外にも真剣だ。


「どう、って……普通の客人だ。

 特別扱いする気もないし、何かあれば守るのは村の一員として当然だろ」


「ふうん……本当にそうかねぇ」


「疑うなよ」


 ルカは唇を尖らせ、軽く肘でアルフを小突いた。


「アルフは優しすぎるんだよ。

 貴族の娘なんて、何を考えててもおかしくない。

 深入りすると、ろくなことにならないよ?」


 ルカの警告は、単なる嫉妬からではない。

 彼女はアルフがこれまで苦労してきたことを知っているし、村を守る責任があることも理解している。


「深入りするな、ってどういう意味だよ」


「つまりさ、あんまり距離を縮めすぎるなってこと。

 あの子がどういう意図で近づいてきたのか分からないでしょ?」


「……それは、たしかに」


 アルフは少し考える。

 たしかにノルンは気さくで、親しみやすい態度を取る。

 だがそれが本心からか、伯爵家の思惑か、判断が難しい。


 ルカはため息をついた。


「村を背負ってるアルフが、簡単に振り回されちゃ困るんだよ」


「……心配してくれてるのは分かる」


「分かればいいよ」



 その横でルナが控えめに口を開いた。


「でもね……姉さん」


「ん?」


「今日のあの人、すごく……“本気で”笑ってたよ」


 ルナは少し恥ずかしそうに言葉を続ける。


「作り笑いじゃないの。

 なんていうか……村の子たちと一緒で、心から楽しんでた。

 ああいう顔、嘘の人にはできないよ」


 ルカはむっとした顔をする。


「ルナ、甘いよ。貴族は笑顔を作るのが仕事みたいなもんだよ?」


「でも……見てて分かったの。

 あれは、飾ってない顔だった」


 アルフは息を呑んだ。

 ルナは感情に敏感で、人の表情をよく読む。

 だから彼女の言葉は、素直に胸に落ちるものがあった。


「……そうか」


 アルフの声は自然と柔らかくなる。


 ノルンが見せた笑顔。

 村で子どもと遊ぶ姿。

 夕暮れに語った「自由になれる」という言葉。


 それらが、じわりと胸の奥で広がっていく。


「アルフ、まさか……惚れた?」


「惚れてない!」


 即答。しかし、ルカはにやりと笑う。


「即答するところが怪しいねぇ~」


「違うって言ってるだろ!」


「ふふっ……」


 ルナは微笑むだけで何も言わない。

 彼女の穏やかな表情が、アルフの心をさらに揺らす。


(……いったい、どうしたらいいんだ)


 村の未来、伯爵家の思惑、教会の影。

 その中で、突然現れた令嬢――ノルン・ユルゲン。


 彼女の笑顔は、アルフにとって想定外すぎた。



 そのころノルンは、ベッドの上で膝を抱えていた。

 胸の鼓動はまだ落ち着かない。


「……アルフ、様……」


 その名前を口にした途端、また頬が赤くなる。


「どうして……どうして私は……」


 枕に顔を埋めたくなるほど、気持ちが揺れている。


(私は、伯爵家の娘。

 これは任務。

 それなのに――どうして)


 ノルンはぎゅっと胸元を掴んだ。


(どうして、あの人を見ると……“苦しく”なるの?)


 任務。

 義務。

 家の命令。

 肩書き。


 そのどれよりも、

 “アルフが笑うと嬉しい”という気持ちの方が――今は強かった。


「私……本当に、どうしちゃったの……?」


 夜は深まり、雨が降り始めた

雨音はノルンの高鳴る鼓動をかき消して

行った。

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