終電のダイアローグ
みそ
終電のダイアローグ
ガタンゴトンガタンゴトン。
音を立てて走っていく電車の音。私はそれを黄色い線のギリギリに立って聞いていた。
飛び出してはいけない線。点字ブロックになったその上に乗って、はみ出さないギリギリに立っていた。
脳裏に蘇ってくるのは今日一日分の嫌なこと。
朝から満員電車に押し潰され、部下の仕事のミスを上司からお前の監督不行き届きだと叱責され、その上司から食事のお誘い付きのお詫びメールが届いて、得意先周りでは部下の無遠慮な態度のせいで土下座するハメになり、止めにお誘いを丁重に断った上司から残業を押し付けられた。
なにこの、厄年が今日一日に収束したのかってくらいの不幸の密集具合は。
これで終電乗って深夜に家に帰り着いて、コンビニ飯と発泡酒を胃に収めて、疲れ果ててるけどシャワー浴びて化粧落として、やっと眠れるのは丑三つ時近く。
それなのに翌朝も六時半に起きてしたくもない化粧をして、また朝の満員電車に押し潰されなきゃならない。
あれ、これ、私なんのために生きてんの。自分の時間はほとんどなくて、土日なんて寝てるだけであっという間に終わっちゃう。
私は仕事のために、いったいいくつの自分の楽しみを犠牲にしてきただろうか。そしてこんなに自分を犠牲にしているのに、どうして預金残高はあんまり増えないのだろうか。
今の苦労で将来の安心と安定を買えるのならば、それに耐える苦痛は少しは軽減される。だけど絶対に、私が得ている給料は業務の実態に見合っていない。許容できるストレスを遥かに超えている。
割に合わない。間尺に合わない。道理が通らない。納得できっこない。
おかしい、おかしい、絶対におかしい。
目の前のホームを通過していく電車の音が響き渡る。
ガタンゴトンガタンゴトン。
クソ上司は今日も言っていた、お前のかわりなんていくらでもいる、この損失の責任誰が取んだ、仕事ができねえやつは死んで詫びろ、生きてる価値ねえよ、って。
ストレスをぶつけるように、いつも部下達を叱責するクソ上司。
それなら私は、死んでしまっても問題ないのだろう。かわりはいるし責任なんて取れないし仕事はできないし生きてる価値なんて、私にはないし。
迫ってくる終電のライト。あの目の前に、飛び出したのなら。
ふと目の端にくたびれた感じのパンプスが見えて、ふらふらと黄色い線を越えていき、さらに一歩二歩と進んでいった。
その先は無機質な灯りに照らし出された、死出の旅路。
「ちょ、ちょっと!?」
気がつくと手を握って引き戻していた。電車の風圧を感じながら、黄色い線の内側に自分もろとも下がっていた。
驚いたように見開かれた目が私を見つめる。
「バカッ!何やってんの!あんた死ぬ気!?」
あれ、さっきまで自分がそうしようとしていたのに、私は何を言っているんだろう。まるで自分に言い聞かせているみたいに。
「あれっ、すいません、わたしっ!あの、そんなつもりじゃなくって…あれ、なんでだろ…」
困惑したような顔でポロポロと涙を流す、私より少し年下に見える女の子。格好も似たようなパンツスーツで、シワの寄ったブラウスや化粧でも隠しきれない濃いクマから私と同種の疲労感が滲み出ていた。
それはいいのだけど、電車を乗り降りする人たちから好奇の目や鬱陶しそうな目を向けられまくって恥ずかしい。とりあえず邪魔にならず目立たない場所まで下がらないと。
「うん、わかる、わかるよ。わかるから落ち着いて。ねっ、ちょっと下がろっか。ほら、ここにいると邪魔みたいだし、ねっ」
「わたし、わたしぃ、あああぁぁうあああぁぁぁ」
子どものように泣き出してしまった彼女を誘導してベンチのあるところまで下がった。幸いなことに空いていたので、二人並んで腰掛けることができた。
「よしよし、あーもう、そんなに泣かないでよ」
前のめりになり顔を覆って泣き続ける背中をさすってあげても泣き止んでくれなくて、私まで泣きそうになってしまう。
困り果てているとプシューと音を立てて電車のドアが閉まり、ガタンゴトンガタンゴトンと走り去っていった。
「あっ、しまった、終電」
「へっ?」
ズズッと鼻をすする自殺志願者と顔を見合わせて、私は深々とため息をついた。
「ほっ、本当に申し訳ありません。わたしのせいでとんだご迷惑をおかけしてしまいまして…」
終電も通り過ぎてほとんど人気のないホーム。泣き止んだ彼女は私にペコペコと頭を下げていた。
「ああっ、気にしないで。タクシー捕まえればいいから」
とは言ったもののため息が漏れてしまう。間違いなく余計な出費だ。
「あああ、ごめんなさいぃ。タクシー代出させていただきますからぁ」
「そんな、いいですよ」
あんまり良くない。でも見栄っ張りな私はそう言ってしまう。
「それより、もう大丈夫?」
「えっ?」
「その、もう電車に飛び込もうとしたりしない?」
「あぁ…」
しまった、踏み込んだことを聞いちゃったかもしれない。彼女はぎゅっと手を握り、大きなカバンの上に置いてうつむき加減になってしまった。
「ごめんなさい、答えたくないなら」
「いえ、あの、聞いてもらっても、いいですか?」
心細く揺れ動く目を前にして思う。鏡で毎日見る目によく似ていると。だからニコリと笑顔を返してあげた。
「ええ、もちろん」
どうせもう電車はないんだ、いくら遅くなっても大して変わらない。こっちをチラチラ見てくる清掃中の駅員さんには悪いけど、少し場所を貸してもらおう。
「ありがとうございます、助けていただいた上にこんなことまで…」
「気にしないで」
あなたが飛び込もうとしなかったら私が飛び込んでいたかもしれないし、とは言わないほうがいいだろうな。
「わたし、一年付き合ってた彼氏がいたんです」
えっ、まさかのリア充?いや違うか、過去形だもんな。
「でもその彼氏から今朝、もう別れようっていうラインが届いて」
「ほお」
それはまあ、お気の毒に。私が最後に誰かとそういう関係だったのっていつのことだっけ。あれは確か、コロナが出た頃だから四年前?いや五年前か。えっ、もうそんなに経つの、ヤバっ。
「通話かけたのにもうブロックされてたのか、何度かけても繋がらなくて。でも通勤時間は迫ってくるし、しょうがないから急いで準備してモヤモヤしたまま出社したんです」
「ええー、なにそれサイアクじゃん」
別れるときの作法とかがあるわけじゃないけど、それにしても一方的過ぎる。もしも恋人との別れ方専門のマナー講師がいるのなら、ホイッスルを吹くレベルで悪質だろう。
「ねっ、ほんとサイアクですよね。私の部屋にある荷物どーすんのって感じだし、そのくらいの後始末はしろよって」
「えっ、他に連絡手段ないの?ライン以外の」
「マッチングアプリで出会ってラインに移行したから、それ以外の連絡先は知らなくって。そのアプリもお互い退会しているから、そこからも辿れないです」
「インスタとかは?」
「わたしはしているけど、彼はそうゆうのしていないみたいで」
「はあー、なるほどねえ」
マチアプはしてるくせにSNS断ちしてるなんて、そんなチグハグなことあるのかな。ないとは言い切れないけど、どうも嘘くさいと感じてしまう。
「それで納得がいかないから仕事終わりに押しかけたんです、彼の部屋に」
「連絡手段がないならそうするしかないかあ」
「ええ、ないんです。でも彼はまだ帰ってきていないみたいで、ピンポンしても反応はありませんでした。じゃあいつまでも待つわと、わたしは部屋の前でドッシリと待ち構えまてやりました」
行動力と忍耐力の塊だ。
「でニ時間ほど待っていると、エレベーターが止まり、楽しそうな男女の声が聞こえてきました」
「えっ、やだ、嘘でしょ」
「嘘ならばどれほどよかったでしょう」
米津玄師かよ。
「エレベーターから降りてきたのは仲睦まじく腕を組む彼と見知らぬ女でした。見るからにわたしより年下の、若い女」
「うわあ、サイテー…」
「彼のキョドった顔ったらなかったですね。まるで幽霊でも見るような目をわたしに向けて、知り合い?って聞く女に知らないって答えて。秒でバレるウソつくなよって感じですよね」
自虐的に笑う顔がちょっと怖い。
「それであっ、こいつともう二度と関わりたくないわと思って、すれ違いざまに持ってたカバンで思いっきりガツンとやって、エレベーターに乗り込みました」
「かましてやったんだねえ」
そこそこの大きさのブリーフケースを持ち上げて、彼女はニヤリと笑った。パンパンになったカバンの重さはそれなりのものだろう。でもまあ、彼の自業自得だ。
「それでエレベーターに乗ったときはやったったぜってスッキリした気持ちになっていたんですけどねえ。でも降りて外に出たらふと、わたしこれでひとりぼっちだなあ、って思って」
「そこで実感が湧いたんだ」
「ええ、なんか空を見上げて、上の方が欠けた月とかキレイな星とかを見てたら実感しちゃいました」
へへっと笑って軽く鼻をすすっている。こっちまでちょっと切なくなってしまう。
「ほんとはね、わかってたのかもしれません。彼はわたしとは遊びで付き合っていたんだって」
声に湿っぽいものが混じり、小さく吐息をついた。
「教えてもらったのは職種だけで具体的な勤務先は教えてくれなかったし、部屋に荷物も置かせてくれなかったし、彼がスマホいじるのを覗き見してたときにインスタもティックトックもXのアプリまでホーム画面にあるの見つけちゃったし、もしものときのためにって聞いても電話番号とメールアドレス教えてくれなかったし。そういう小さな疑惑の種に目をつむってきた結果がこれです」
さみしそうな顔で笑って、手をぎゅっと握りしめている。
「でも部屋は教えてくれたんだね」
「彼はケチでしたから、ホテル代を節約したかったんだと思います」
「あっ、サイテーな理由…」
「ほんとに、何から何までサイテーでサイアクでした」
ついたため息の深さがもうブラジルまで届くんじゃないかってレベルだ。
「でもしょうがないじゃないですか。働いても働いても仕事は減らないし、仕事にやり甲斐や楽しみなんて見つけらんないし、我慢してヤなこと飲み込んで、ストレス溜まるだけでいいことなんかひとっつもないし。だからせめて、日々の潤いになるようなことがあればなあって思って、いろいろ目をつむって、ワラを掴むようにすがっちゃったんです。見事に裏切られちゃいましたけど」
彼女の気持ちが痛いほどよくわかった。
私も彼女と同じ選択を迫られたら、目をつむってしまうと思う。変だな、おかしいな、本当かな、って思っても、でも好きなんだからって自分を誤魔化してひとときの潤いに浸ってしまう。
それほどまでに、ひたすら働いてストレスに耐えてただ生きてゆくだけのこの日々は、何もかもが乾いてゆく。
乾きに耐えるために目をつむって哀れな潤いを貪る選択を、愚かだとか馬鹿だとか弱いとか言える人は、よっぽどメンタルが強いかよっぽど想像力がないかよっぽど幸せに囲まれている人だ。
私はハハっとから元気で笑う彼女の肩を引き寄せて、頭をぽんぽんとしてあげた。自分自身を労うような気持ちで。
「わかるよ、私もそう。毎日毎日、嫌なことの連続で死にたくなるよ」
「えっ、そうなんですか?」
あまりにもキョトンとした目で見られて、ちょっと笑ってしまう。
「なんだか意外です。お姉さんバリバリ仕事できて、自信ありますって感じするのに」
「そんなことないって。毎朝死にそうな顔で満員電車乗ってるし、上司からウンザリするほど怒られてるよ。あとたぶん、お姉さんってほど歳離れてないから」
「えっ、そうなんですか!?わたし二十六です」
「私二十八だよ」
「あれっ、てっきりもっと」
「もっと、何?」
「いっ、いえ、なんでもないですっ!」
わざと強めににらむと彼女は慌てたように手を振り、どちらからともなく吹き出した。
「ねえ、どうせもう終電行っちゃったんだからさ、ちょっと飲んでいかない?まだやってるイイ感じのお店知ってるんだ」
笑った勢いのまま誘ってみた。もう少し話していなと思ってしまったから。
「あっ、いいですね!お供させてもらいます姉さんっ!」
「こらっ」
軽く頭を小突くとお調子者はえへへと笑った。全然悪びれてないな、こいつ。
ふと思い立ったように彼女はカバンに手を突っ込んでゴソゴソやると、スマホを取り出した。そしておずおずと聞いてくる。
「あの、連絡先交換してもらってもいいですか?」
「もちろん。ラインもインスタも、電話番号もメアドもいいよ」
「やった!個人情報のフルコースですね!」
「フルコース」
妙な言い回しに笑ってしまう。まったく、思わぬ出会いをしちゃったなあ。
「なんならティックトックとXのアカウントもつけてあげようか?」
「いいんですか!?デザートつきですね!」
「デザートってフルコースに含まれてるもんじゃないの」
「あっそっか。じゃあおまけのデザート付きですね!」
「なにそれ、ティックトックとXはおまけのデザートなんだ」
二人して終電を過ぎた駅のホームで大声で笑った。周りの目なんか気にせず、久しぶりに思いっきり大きな声で笑うと、なんだかやけに晴れやかな気持ちになれた。
この出会いはきっと、私たちの日々の潤いになってくれる。もう終電に飛び込まなくてもいいような、乾いたものに染み込んでいく潤いに。
終電のダイアローグ みそ @miso1213
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