まだ彼女には言わない

鐘町文華

まだ彼女には言わない

「そうじゃない、って言ってるじゃん!」


 私の声と、椅子が倒れるガタン、という音が、静かな教室に響いた。


 目の前に座る少女は、顔を歪ませた。


「どうして、そんなこと言うの」


その声には、怒りというより、悲しみ――そして、哀れみが混じっているようだった。なんだかそれに苛立って、私は声を荒らげた。


「もう、いい。私帰る」


「待ってよ、リホちゃん!」


 カバンを乱暴に取り、駆け出す。途中ですれ違った先生に声をかけられた気がするけど、そんなのどうでもいい。


 息を切らせて、駅のホームにたどり着く。腕時計は17時40分を指していた。あと数分で、電車が来る。運動神経の悪い彼女では、とうてい追いつけないだろう。


 いきなり走ったせいで、汗が湧き出ていた。髪が乱れ、汗でうなじに張り付いている感じがする。気持ちが悪い。それに、ヤバい見た目になっているだろうな。


 でも、もういいや。あの子――真由子と離れられるなら。


 私と真由子は、保育園からの幼なじみ。そして最近――恋人になった。


 真由子は、本当に良い子だ。優しくて、頭が良くて、勇気があって。


 取り柄がなくて、バカにされて、いじめられていた私を救ってくれたのは彼女だ。


「リホちゃんをいじめるな!」


「リホちゃんが頑張ってるの、私は知ってるよ」


「取り柄ない、なんてことないよ。リホちゃんは、素直だもん。」


「私は、なにか言う時、いろいろ考えちゃうから。正直なリホちゃんのことが、好き」


 いつも、そんな言葉をかけてくれて。私を好きって言ってくれる人。中学に上がってからは私のあの子への想いは、友達としての感情だけじゃなく、――恋になっていた。


 だから、半年前、彼女に告白した。怖かった。嫌われてしまうかもしれないって。でも、この気持ちを抑えているのは、真由子が「好き」って言ってくれた私じゃない気がしたから。だから伝えた。


「ずっと好きだったよ、私も」


 そう言ってもらえた時、思わず涙がこぼれたのを覚えている。


 赤く染った彼女の頬を引き寄せて、キスした。それから、私たちは付き合い始めた。


 幸せだった。好きな人に好きって言えて、相手も、それを返してくれる。ずっと思い描いていたことが、現実になっている。夢見心地だった。


 だけど最近は、なんでも肯定してくれる彼女に、苛立ちを覚えてしまっていた。


私が失敗しても、「大丈夫」って、「私は分かってる」って、いつも言う。


 それでさっき、あんなことを言ってしまったのだ。


「もう、別れるしかないのかな」


 私の小さな声は、電車の走行音にかき消された。


 電車のドアが開き、乗客が次々と乗り込んでいく。私も乗ろう。足を進めたその時。


「リホちゃん!」


 声に振り向くと、そこには肩で息をしている真由子の姿があった。


「真由子!? あんた、どうやってここまで来たの!?」


「走ってきたよ。火事場の馬鹿力、ってやつかも……」


 額に張り付いた前髪をどかしながら、彼女は言う。


「なんで、そこまでして」


「だって、カバン。間違えてる」


「え……」


 なんということだろう。やはり私はそそっかしい。


「でも、もちろんそれだけじゃないよ。リホちゃんに謝りたくて。私が……言い方悪かったせい、だよね。ごめん」


 真由子が謝ることじゃない。謝ることじゃ、ないんだけど――。


「そうやって、良い子ちゃんぶって!」


 ――また、やってしまった。こんな言葉を、好きな人に投げつけてしまうなんて。やっぱり、もう、この関係は壊れてしまう。


「……私、良い子じゃないよ」


 静かな声だった。


 彼女は、ふぅ、と息をついてから、口を開いた。


「じゃあ、はっきり言うけど。私はね、リホちゃんの悪いところも、好きなんだよ。素直すぎるっていうか、感情をコントロールできてないっていうか。……リホちゃんは、そこを自分の悪いところだと思ってるんだよね」


 図星だった。彼女はさらに続ける。


「でもね、私は、そこが好きなんだ。私が、自分の気持ちを言えない人だから。リホちゃんにしか、本当の気持ち言えないから」


 真由子は、私の頬に手を添える。


「私に無い物を持ってる。だからリホちゃんが好き。そんな魅力的な貴女が、私の虜になってるって。それにすごく――ゾクゾクしてるの」


 彼女の目が、薄暗い駅のホームで、ギラギラと光っていた。私の知ってる真由子じゃ、なかった。


「例えばね、この前リホちゃんがテストで悪い点とっちゃった時。あの時はドキドキしたなぁ。私に泣きついてきたでしょ。その表情が、声が、とっても可愛かった。ああ、この子は私がいないとダメなんだなって。興奮したよ、すっごく」


 聞いたこともないような、声色。酔っているようで、そして甘くて。


「ずーっと昔から、そうだったんだよ? ちっちゃいころから、私にベッタリだったよね。それでさぁ、なんでも、真由子、真由子って。それがあんまり可愛いかったからさ。だから私、こんなになっちゃった。――ねぇ。あなたのせいでもあるんだからね?」


 リホちゃん、と真由子は続ける。


「これが、私の、心の底の感情。――嫌いになっちゃった?」


 夕焼けに照らされながら、目を細める彼女。それを見た私の胸は、ザワリ、と揺れた。いままで感じたことのない、感情。


 そんなこと、ない。むしろ、本当の気持ちを言ってくれて――。


「もっと好きになったよ」


 真由子はにっこりと笑った。


 もしかしたら、これさえも、真由子の想定通りなのかもしれない。でも。


 優しく、賢く、女神のような少女。そんな彼女が、こんな熱い気持ちを向けている。他でもない私に。そう思ったら、熱いものが込み上げてくる。いままでのキラキラしたものと違う、仄暗い興奮。衝動。――もしかしてこれが、真由子の気持ちなのかも。


 だから、それでもいいや。全部が真由子の考えたシナリオでも。私は真由子が好きで、真由子も私が好き。それは真実なのだから。


 でもこれは、まだ彼女には言わないでおこう。

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まだ彼女には言わない 鐘町文華 @fumika_kanenone

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