　高野山――和歌山の山の奥にある有名な聖地だ。

　その一番奥に「奥の院」と呼ばれる場所がある。

　そこには、今も空海がいらっしゃると伝えられる御廟（ごびょう）が静かに立っている。

　御廟へと続く道の途中には「水かけ地蔵」があり、参拝者が水をかけて願いごとをする。

　そのすぐ横には小さな橋があり、下には澄んだ川が流れていた。

　私の父は、今はお寺の住職だけれど、もとは普通の人だった。

　ある日、急に仏門に入る決心をし、高野山で修行を始めたのだ。

　当時の私はまだ小学生。夏休みの間、家族で高野山に滞在していた。

　修行僧たちは仏教を学ぶだけでなく、泊まりに来る人のお世話をするのも修行のひとつだった。

　夏になると小学生の団体が合宿にやってきて、夜には恒例の「肝試し」が行われた。

　ある晩、父に連れられ、私と弟、ほかの小学生二人で肝試しに行った。

　目的地は水かけ地蔵の横を通り、御廟橋の下にある川だった。

　橋は小さく、川も浅い。

　それなのに、そこにはなぜかピンと張りつめた空気があった。

　父が川辺に置かれたろうそくに火をつけた。

「それじゃあ、川に足を入れてみましょう」

　父に言われ、ひとりの男の子が川に足をふみ入れようとした、そのときだった。

　ボォッ！

　炎が音を立てて燃え上がり、ろうそくの火が一気に高く伸びた。

　10センチほどにも。

　私たちは声も出せず、一歩、後ずさった。

　しばらくの沈黙のあと、父が小さな声で言った。

「……帰ろうか」

　誰も逆らわなかった。

　あの場所は、空海さまがおられる特別な聖地。

　子どもの肝試しなんかで入っていい場所ではなかったのだろう。

　私たちは――きっと「見られて」いたのだ。

　そして今も、あの橋の下には、静かに。

　だが、たしかに――“何か”がいる。

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