ルカと魔法のガラス玉

はねず

ルカと魔法のガラス玉

 ひどい、ひどい!


 夕焼けチャイムはとっくに鳴り終わって、だんだんと空が暗い紫色に染まっていく頃。

 家を飛び出してからもうどのくらい走っただろう。息が上がって苦しくなってくるけれど、心の奥底から湧き上がる怒りをどうすることもできなくて、ただがむしゃらに走り続けている。


 放課後に友達の家で遊んでから帰ってきたら、久しぶりにお母さんが早く帰ってきていたから、おかえりって抱きつこうとしただけなのに。

 こんな時間まで何してたの!って、私の話も聞かずに怒鳴るばかり。お母さんこそいつもいつも遅くまで帰ってこないくせに。自分のことは棚に上げて私のことばっかり怒るんだ。


 むしゃくしゃして足元ばかり見ていたら、ふと、何もないところで転んでしまう。

 立ちあがろうとすると、膝がずきんと痛む。見てみると、やっぱり派手に擦りむいていた。

 ぽろ、と涙が一粒こぼれ落ちて、慌てて目を擦ってごまかす。膝はずきずきするけれど、それよりもよっぽど胸の奥が痛かった。


 あんまり知らないところまで来ちゃったな。

 周りを見渡すと、見慣れた商店街と似たようで違う景色がある。

 ぼーっと立っていると、一匹の黒猫が目の前を通り過ぎた。少し歩いては止まって、しっぽを揺らしてはまた歩く。


 私についてきてって言っているみたい。

 お母さんなんて知らない。どこまでだって行ってやる。


 私がついていこうとすると、黒猫はすいすいと人の間を抜けて行ってしまう。慌てて人の隙間を潜り抜けて追いかける。

 しっぽをまっすぐ上げて、その先をふわふわと右へ左へ揺らしながら、ご機嫌な様子で進んでいく黒猫。ずっとぎりぎり見えるくらいの距離で歩いていたが、狭く暗い路地の前で突然立ち止まった。こちらを見て、ついてきているのを確認するようにしてから、路地へ入っていく。

 私がギリギリ通れるくらいの幅を、妙な緊張と一緒に進む。

 ほんの五秒ほど進むと、前に明かりが見えた。早足で路地を抜けると、眩しさに一瞬目を閉じる。

 瞬きしながら、ふと、がやがやと賑わう声が聞こえて、おかしいな、と思う。


 私がいた商店街には、こんなにたくさんの人はいなかったはずなのに。


 目を開けて、びっくり。


 いや、びっくりなんてほどじゃない。見間違いじゃないかと何度も何度も瞬きをするけれど、見える景色は変わらない。

 テーマパークでしか見ないような、日本とはかけ離れた煉瓦造りの建物がならび、その前にはかなり大きな市場が開かれている。行き交う人々の顔立ちも、見慣れない彫りの深さだ。

 もう日も落ちかけて薄暗くなってきているのは同じだけれど、目の前の市場は大賑わいで、仲の良い様子で笑い合う親子や肩を組んで歩く大柄の男たちがよく目立つ。

 焼きたてのパンのいい香りや、鼻につんとくる香辛料の香り。

 遠くの方では、ピロポロと鳴る硬いピアノのような楽器の音や、なめらかでしっとりとした笛の音がする。

 もう訳がわからなかった。


 路地裏は知らない外国の街だった?いやいや、そんなわけない。どう考えたっておかしい!何を喋ってるのかもわからないし、来た道は……。


 通ってきたはずの路地の方を振り向くと、そこに道などなく、ただ前と同じように建物が続くだけ。夢でも見ている感覚で、頭がうまく働かない。

 とりあえずあたりをぐるりと見回してみると……あ、猫!


 知らない街とあまりの不思議に驚いて忘れていた黒猫が、少し遠くの店でしっぽを揺らしているのが見えた。


 あの子は確かに私と同じところから来た、頼りはあの黒猫だけだと思って、藁にもすがる思いで再び追いかけることに決めた。


 近づいて行くと、私が着いてくるのを待っていたかのようにひょいと走り出す。

 人混みを掻き分け、進んでいくと、更に暗がりへと誘われる。街灯が淡い光を落とす細い道に入って行くと、迷う様子もなく一つの扉の前で止まった。

 どこかのミステリー小説に出てくるような、煉瓦造りと所狭しと並ぶ様子が特徴的な建物で、重厚感のある扉には見たことのない文字で何か書いてある。


 黒猫が、扉の前でひとつ鳴き声をあげた。すると、扉が開いて、若い女の人が笑顔で何かを言いながら出てきて黒猫を持ち上げた。撫でられてリラックスした様子の黒猫は、ちらりとこちらに目線をよこして、もうひとつ鳴く。それを聞いて、女の人が少し驚いたようにしてこちらに気が付いた。

 一言、二言くらい何かを言うが、何を言っているのかわからず、何も反応できない。

 困ったようにあたふたとしていると、お姉さんはぱっと閃いたようにわかりやすく笑顔になって、すぐに少し困った様子で黒猫を見てから私に手招きをする。

 他にどうすることもできないので、誘われるがままに家の中に入れてもらう。

 お母さんに、知らない人には着いて行くなと言われたのを思い出して胸がちくりと痛んだけれど、そういえば怒っていたことを思い出して、痛みに見なかったふりをする。

 それに、少し落ち着いてみると、小説で読んだ不思議な冒険の始まりのような気持ちになってきてわくわくしていたのも確かだった。


 家に入ると、すぐに階段があって、のぼるよう促される。ぎしぎしと音を立てて上がって行くと、だんだんと上から様々な色の暖かい光が溢れてくる。


 のぼり切ると、思わずため息が溢れた。


 こじんまりとした部屋には、天井から色とりどりの光をまとうガラス玉がいくつも垂れ下がり、大きな作業台の上には設計図や石、宝石のようなものから、絵の具や本、花がたくさん散らばっている。

 部屋中が心躍るもので満ち溢れていた。


「どう?気に入った?」

「えっ?!」


 見惚れていると、後ろから声が聞こえてばっと振り向く。

 そこには、いたずらが成功した時のような顔をしたお姉さんが何か器を持って立っていた。


「言葉がわかる…。」

「その様子、やっぱり別の世界から連れてこられちゃったのね。まったく、ルーったらほんと気まぐれなんだから。」


 ルーと呼ばれた黒猫は、撫でられながら満足そうにごろごろと喉を鳴らしている。


「まぁ座ってよ。あたしのことはツィーって呼んで。」


 小さな木彫りの椅子を差し出され、それに腰掛けながら問いかける。


「その、ツィーさん、?ここは何?魔法としか思えないことばかりで、何が何だかわからなくて、夢なんじゃないのかなって、言葉も分からなかったのに、」


 話し出せば止まらない様子に、ツィーさんは楽しげに笑いながら手に持っていた器を私に差し出した。


「だって、魔法だもの。そうさ、ここは魔法の街。私は魔法使い。身に起こる全ての不思議はぜーんぶ魔法の仕業だよ。それ、スープ作ったから食べな。」


 手渡された器の中には煮込まれた野菜と豆がたくさん入っていて、スープでふやけたパンと甘いキャベツの素朴で優しい香りがした。

 

 「いただきます」


 正直とてもお腹がすいていたから、うれしくてすぐに口へと運ぶ。

 一口目には、食べたことのない独特な野菜の風味があって、ほっくりした豆の甘さがそれを柔らかく包み込む。パンはスープに溶け込んでいて、にんじんや玉ねぎの柔らかな甘みとほんのり香るハーブが後味に残る。


「おいしい」


 ほうっとため息をしたのと一緒に溢れた。

 ツィーさんは満足げに微笑むと、私に名前を聞いた。ルカ、そう答えると、舌の上で転がすようにルカ、ルカ、と呼んだ。


「暖かくていい名だ。ルカ、せっかく来たんだ、私の工房を見て行くかい?綺麗だろう」


 改めて見渡してみても、色をまとうガラス細工たちは見惚れるほど美しい。一つ一つ細かな飾りが違っていて、花や星、幾何学模様が散りばめられている。

 中は空洞になっていて、何か透明な煙のようなものがふわふわと漂っていた。


「ほんとうにきれい。これ、なに?」

「これはね、ルーチェメモリアといって、感情を閉じ込めておく魔道具なんだ。ルミナイト、この光を放つ鉱石が持つ力で、愛や喜び、寂しさ、つらさ、怒り、謝りたい気持ち、とにかく大きな感情をこの中に記録しておける。」

「すごい、これをツィーさんがつくったの?」

「そうさ、街の小さな魔法使いにはうってつけの仕事ってわけよ」


 楽しそうに、得意げに話すツィーさんは、天井にぶら下がっていたものを一つおろすと、私に渡した。

 壊さないようおそるおそる手のひらに乗せてみると、とても心が躍る。


「それはね、あたしが初めて完成させたルーチェメモリアなんだ。その時の喜びが入ってる。目を瞑って、そっと握って、意識をその玉に向けてごらん」


 言われた通りに、優しく手のひらに包んで目を瞑る。ゆっくり息をして、手のひらの中にあるものに全ての意識を向ける。

 すると、一瞬確かな感触があって、身体中を喜びが駆け抜ける。血液の中を温かくて優しいもので満たされた感覚。それでいて、弾けるような、飛び上がりたくなるような衝動も襲う。

 これが、ツィーさんの喜び。

 感動を伝えたくて目を開けると、高鳴りがぼんやりと引いて行くのがわかる。


「すごい、すごい!とってもとってもうれしかったんだね、こんなにすごいもの作ったんだもん、そりゃそうだよね!」

「そうでしょうそうでしょう、このルーチェメモリアはね、色んな時に使えるんだ。今みたいに、自分の感じた感動や喜びを残しておきたい時だけじゃなく、遠くにいる愛する人に愛情を贈ることもできるし、恋人と寂しさや会いたい気持ちを送り合うなんてこともある。怒りや辛さをわざと送りつけるようなことも、時に必要だったりもする。あとは、喧嘩をして謝りたいのに、うまく言葉が出てこない時とかも、ね。」


 私の目を見て、意味ありげに付け足した最後の言葉に、どきりとする。


 魔法使いは、心まで読めてしまうのだろうか。


 ツィーさんが語った使い方は、どれもとても魅力的だという気がして、こんなに素敵なものを作れる彼女を誇らしく思う。


 日々感じる寂しさや悲しさを閉じ込めておけたらどれだけいいだろうか。それをお母さんに渡せたら。


 ツィーさんは、作業台のたくさんの引き出しのうちの一つを開けると、中からシンプルな便箋と封筒を取り出した。


「言葉は、ガラスの器なんだ。中身が熱すぎれば割れてしまうし、多ければ溢れ出してしまう。だから、こうして全てを閉じ込めておけるようにそれを作ってる。」


 私が持っているガラス玉を指差し、持っていた便箋を机に広げて羽ペンにインクをつける。


「でもね、同時に、言葉もやっぱり大切だと思うんだ。割れようが溢れようが、その器の中に一生懸命考え、感じたものを入れて伝えようとするということは人間の泥臭くて素敵な部分だ」


 だから、ルーチェメモリアを買ってくれた人にはお手紙セットもおまけしちゃう!

 そう言って笑うと、羽ペンを私に差し出す。

 差し出されるまま受け取ると、さっき座っていた椅子を作業台の前に持ってきてくれて、座るよう手招きされる。


「さ、ルカも書いてごらんよ。大切な人に、自分の言葉でちゃんと思いを伝えてごらん」


 目の前にはまっさらな便箋。手には羽ペン。

 まるでこのためにここに呼ばれたかのように、そうしなければならないんだという気がした。

 手紙なんてもうしばらく書いていないけれど、不思議と何を書けばいいのかわかる気がする。思いが逃げないうちに、忘れてしまう前に全部。

 インクのシミや書き損じの黒い丸を増やしながら、夢中になってペンを走らせる。

 お母さんへ。普段は、いい子でいたくて、応えてくれないかもしれない怖さから目を逸らしたくて、伝えられない寂しさもたくさん書いたけれど、でも、それよりもっと、たくさん大好きだよって伝えたい。

 ありがとう、お母さん。いつも私のためにがんばってくれてありがとう。お母さんが私のことを大好きだから怒るのも、わかってる。ごめんね。ありがとう。


 時間が経つのも忘れて、一つもこぼさないように、できるだけこの手紙に閉じ込めるつもりで書き表す。とても気分が良かった。お母さんに渡すことを思うと、心が穏やかで、楽しみだった。


 書き終わって、何度も何度も見返して、よし、大丈夫だと封筒に入れる。

 隣を見ると、ツィーさんは、聞きなれないメロディの鼻歌を歌いながらガラス玉を加工していた。私が書き終わったことがわかると、慣れた手つきで封筒に封をしてくれる。


「ちょっぴり勇気が出る魔法をおまけしといたから、ちゃんと口でも伝えるんだよ」

「うん!そうする、ありがとう魔法使いのお姉ちゃん」


 少しわざとらしくそう呼ぶと、ツィーさんはにかっといたずらに笑って私の頭を撫でた。

 髪の毛がぐしゃぐしゃになるのがわかったけれど、少しも嫌じゃなかった。温かくて優しい手だった。


「これも、ルカとの出会いを記念して」


 手が退けられて顔を上げると、ツィーさんがガラス玉をひとつ、私の手に握らせてくれる。

 さっきまで隣で作っていたそれは、小さなお花と月の模様になっていて、長い紐が通されてペンダントのようになっていた。


「でもこれ、売り物なんでしょ?」

「いいんだよ、こういうのは出会いなんだからさ。でも、その中に何の感情を入れるのかはよく考えるんだよ。ま、ルカならきっと大丈夫だ」

「ありがとう、ありがとうツィーさん!」


 思わず、ぎゅっと抱きつく。嬉しそうな笑い声が聞こえて、力いっぱい抱きしめ返される。心地よくて、うれしくて、ずっとそうしていたかったけれど、それと同じくらい早く帰ってお母さんに会いたかった。


「さ、ルカ、そろそろ帰る時間だ。帰りもうちのルーが案内してくれる」


 ぎしぎしと鳴る階段を降りて、扉の前に立つ。全ての思いを込めて抱きしめたつもりではあったけれど、でもまだ足りない気がして、もう一度、ちゃんとツィーさんの目を見て言葉にする。


「ツィーさん、ごはんも、お話も、プレゼントも、全部ほんとうにありがとう、大好き!」


 ツィーさんは、一瞬びっくりしたようにして、すぐに大きな声で笑う。


「あたしも大好きだよ!」


 それを聞いて、とっても満たされた気分になったものだから、大好きってなんて素敵な言葉なんだろうと思った。

 ツィーさんが扉を開けてくれて、今度こそ手を振ってお別れをする。寂しい気持ちももちろんあったけれど、不思議と心はぽかぽかしていた。


 先を行くルーを見失わないように、急いで追いかける。

 相変わらずご機嫌な様子のルーにも、連れてきてくれてありがとうって呟いてみる。すると、返事の代わりだろうか、しっぽを振ってちらりとこちらを振り返った。

 笑みが溢れて、きっと、ルーが私とツィーさんを出会わせてくれたんだと確信する。


 路地を抜けて、元いた市場に戻ってくる。もうすっかり暗くなって、人通りも少ない。

 ルーはそのまま暗がりの中を進んで行くと、突然ひとつ鳴いて、暗闇に溶けるように消えた。

 私は、前に前にと進む。ルーが道案内はここまでだっていうんだから、もう着くはず。


 ほんの数秒歩くと、前に明かりが見えてくる。


 ぱぁっと視界が開けて、見慣れた日本の商店街が目に入った。店の光はまだついていて、まばらな人通りに帰ってきたんだと安心する。


 早く、お母さんに会いたい。


 家の方に走り出そうとしたその瞬間、後ろから大きな声が聞こえて抱きしめられる。


「あぁ、瑠夏、よかった。よかった、無事で。」

「お母さん」

「瑠夏、ごめんね、お母さんと一緒に帰ろう」


 ぎゅうぎゅうと抱きしめられて、思わずぼろぼろと涙が溢れる。

 

「私もごめんね、お母さん大好き」


 うれしくて、幸せで、閉じ込めるならこの感情がいいって強く思ったから、首にかけていたガラス玉を握りしめて、目を瞑る。

 ふわふわと胸の中のものがガラス玉の中に吸い込まれていくけれど、嫌な感じはしない。胸にあった幸せとガラス玉の中の幸せが一緒になってぐるぐると漂っている。


 抱きしめていた腕の力が弱められると、帰ろうか、と言って家の方へ二人並んで歩き出す。

 お母さんの手をとりぶんぶんと振りながら、この幸せがずっと続きますように、と強く願った。

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