記憶の運び屋

紡月 巳希

第十ニ章

メメント・モリの作戦会議


薄暗い喫茶店「メメント・モリ」の空間は、つい先ほどまで死闘が繰り広げられていた地下施設とは打って変わって、穏やかな静寂に包まれていた。微かなコーヒーの香りが漂い、壁の古時計はカチコチと規則正しい音を刻んでいる。しかし、私たち二人の胸中には、先ほどの出来事の興奮と、これから始まる未知への緊張が渦巻いていた。

カイトはカウンターの中に入ると、いつものように淡々とコーヒーを淹れ始めた。その落ち着いた所作は、つい数分前まで命を懸けて戦っていた男とはとても思えない。私はカウンターの椅子に座り、自分の腕の中にある木箱を見つめた。琥珀色に輝く木箱からは、今も温かい脈動が伝わってくる。その中には、私の真実の記憶と、今引き込まれたばかりの無数の「盗まれた記憶」が詰まっているのだ。

「落ち着きましたか?」

カイトが、湯気の立つコーヒーカップを私の前に置いた。温かいカップの感触が、私の強張った心を少しだけ解きほぐす。

「はい…。でも…一体、あの男たちは何者なんですか?そして、あの木箱の中の記憶は…?」

カイトは、自分のカップをゆっくりと口に運び、深呼吸するように息を吐いた。

「彼らは『記憶操作協会』とでも呼べばいいでしょうか。彼らの目的は、都合の悪い記憶を消去し、有利な情報を拡散することで、歴史や社会の認識を意図的に歪めることです。そして、あの男は…協会の幹部、コードネーム『シャドウ』。記憶の操作に関しては、彼らの間でも随一の腕を持つ男です。」

「協会の幹部…。」私は驚きを隠せない。まるで、映画の世界の話のようだった。

「そして、あの『盗まれた記憶』は…彼らがこれまで奪い、改ざんしてきた膨大な記憶のエネルギーです。私が回収したのは、そのほんの一部に過ぎません。」

カイトは、私の腕の中の木箱を指差した。

「あなたの記憶は、彼らにとって最も危険な『真実の記憶』でした。それは、彼らの記憶操作の歴史そのものを暴きかねないものだった。だからこそ、君の母親はそれを守り、そして彼らはそれを消し去ろうとした。」

「私の母が…記憶操作協会のことを知っていたってことですか…?」

カイトはゆっくりと頷いた。

「あなたの母親は、生前、この喫茶店『メメント・モリ』を訪れていました。彼女は、記憶をデータとして扱う研究者でした。記憶を操作する協会の存在に気づき、彼らの非道な行為を食い止めるために、私に協力を求めていたのです。」

母が、この喫茶店を訪れていた。そして、カイトと協力して、記憶操作協会と戦っていた。私の失われた記憶の断片が、再びカイトの言葉によって繋がり始める。母は、研究者であり、同時に真実を守ろうとした戦士でもあったのだ。

「では、カイトさんは…『記憶の運び屋』として、彼らとずっと戦ってきたんですか?」

「私の役目は、歴史の歪みを正し、失われた真実の記憶を、必要とする者へと運ぶこと。あるいは、守ることです。君の母親もまた、その『必要とする者』の一人だった。」

カイトは、真剣な眼差しで私を見つめた。

「そして今、君もまた、その『必要とする者』となった。君の記憶は、この木箱の『鍵』となり、盗まれた記憶の全てを解き放つ力を持つ。」

「鍵…?」

「この木箱は、ただ記憶を保存するだけではない。真実の記憶と共鳴することで、盗まれた記憶の改ざんされた部分を修復し、本来の姿に戻すことができる。それが、君の母親が託し、君が手にした、本当の力だ。」

私の腕の中の木箱が、まるで返事をするかのように、強く脈動した。私の失われた記憶が、母の研究と繋がり、この世界に隠された真実を暴く鍵となる。

カイトはカップをカウンターに置き、静かに言った。

「だが、記憶操作協会は、君の存在を決して見過ごさないだろう。彼らは、あらゆる手段を使って、君と木箱を奪いに来る。」

「じゃあ、これからどうすればいいんですか…?」

私は、頼るようにカイトを見上げた。彼の灰色の瞳に、迷いはなかった。

「我々は、彼らの活動を阻止し、盗まれた記憶を本来の場所へと還す。そして、君の母親が果たせなかった使命を、今度こそ完遂する。」

カイトの言葉は、私に新たな目的を与えてくれた。私はただの、記憶を失った画家ではない。母から託された使命を背負い、真実を取り戻すための、記憶の運び屋の「鍵」なのだ。喫茶店「メメント・モリ」は、もはや安息の地ではない。それは、戦いの始まりを告げる、静かな前線基地へと姿を変えた。

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記憶の運び屋 紡月 巳希 @miki_novel

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