最終章:そのプロジェクトの完了報告書は、提出されなかった。
「――させっかよ、バーカ」
古賀の、ドスの利いた声が、静まり返った本堂に響いた。
部長は、ゆっくりと、その声の主を振り返る。その目は、自らの神聖な儀式を邪魔されたことへの、冷たい怒りに燃えていた。
「……古賀くん。君も、我が『朧会』の、大いなる悲願の、邪魔をするかね」
「おぼろ……? ああ、あの古文書にあったやつか。知るか、そんなもん。俺は、大日本イベント第二企画営業部の、古賀耕助だ。俺の仕事はな、イベントを、無事に、終わらせることだ。客にも、スタッフにも、怪我人一人、出さずにな」
古賀は、消火器の安全ピンに、指をかけた。
「桜味! プロジェクトの責任者は、お前だ。どうする。決めろ。話者じゃない俺が消せば、それでおさまる。それがこの百物語のルールだ」
「わ、私……?」
真央は、震えながら、部長と、古賀を、交互に見た。
部長は、恍惚と、世界の変革を語る。
古賀は、面倒くさそうに、イベントの安全を語る。
会社員として、プロジェクト担当者として、完遂を命じられたこの「儀式」を、終わらせるべきか。
それとも、一人の人間として、この狂った状況を、終わらせるべきか。
彼女は、ボロボロになった進行表を、ぎゅっと握りしめた。そこには、彼女が、そして古賀が、奔走した日々の、汗と涙の跡が、染み付いている。寺の住職の、穏やかな顔。消防署の、七三分けの顔。蝋燭職人の、頑固な顔。
(――そうだ。これは、あたしの、プロジェクトだ)
真央は、顔を上げた。その目には、もう、怯えはなかった。
「部長。申し訳ありませんが、本日のイベントは、これにて中断とさせていただきます」
「……何?」
「危険が、発生しました。担当者として、お客様と、スタッフの、安全を、最優先します!」
「愚かな……!」
部長が、最後の蝋燭に向かって、駆け出した。自らが、百話目の語り部となり、儀式を完成させるつもりだ。
本堂が、激しく、揺れる。天井から、黒い煤のようなものが、ぱらぱらと、降り注ぐ。最後の蝋燭の炎が、人の背丈ほどに、燃え上がった。闇の奥で、名状しがたい「何か」が、産声を上げようとしている。
だが、古賀の方が、一瞬、早かった。
彼は、部長にタックルするでもなく、殴りかかるでもなく、ただ、極めて冷静に、業務を遂行するように、消火器のレバーを引いた。
ブシュウウウウウウッ!
白い消火剤の泡が、一直線に、最後の蝋燭へと、叩きつけられた。
最後の炎は、あっけないほど、簡単に、闇に飲まれた。
途端に、本堂の揺れが、ピタリと、止んだ。
天井からの煤も、止まっている。闇の奥で、何かが、心底残念そうに、ため息をついたような気がした。
後に残されたのは、完全な闇と、泡まみれの部長と、呆然とする観客、そして、消火器を構えたまま、仁王立ちする古賀の姿だけだった。
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