第七章:そのプロジェクトは、闇の深度から始まった。

 百物語、当日。


 海善寺の本堂は、異様な熱気に包まれていた。三百人の観客が、固唾を飲んで、中央に円形に並べられた、百本の和蝋燭を見つめている。午後八時、きっかり。古賀の合図で、全ての蝋燭に、火が灯された。


 ゆらり、と。百の炎が、巨大な生き物のように、本堂の闇を揺らした。


 最初の語り手は、有名な怪談作家だった。彼の巧みな話術に、会場は引き込まれる。一話目が終わり、彼自身の手で、一本の蝋燭が、ふっと、吹き消された。闇が、百分の一、その深度を増す。


 二人目、三人目。民俗学の教授、怪談好きの落語家、曰く付きの事故物件に住む主婦。用意された語り手たちが、次々と、珠玉の怪談を披露していく。


 真央は、進行管理席で、ストップウォッチを片手に、必死にタイムキーパーを務めていた。古賀は、会場の隅で、消火器を抱え、鬼のような形相で、蝋燭の火と、観客の顔を、交互に睨んでいる。


 全ては、計画通りだった。完璧な、プロジェクト進行。


 異変が起き始めたのは、休憩を挟み、後半の部。残りの蝋燭が、三十本を切ったあたりからだった。


「……なんか、寒くないか?」


 インカムから、音響スタッフの、震える声が聞こえた。


 本堂の中は、蝋燭の熱で、むしろ暑いくらいのはずだった。だが、肌を刺すような、冷たい空気が、床下から這い上がってくる。空調は、とっくに切ってある。


 二十本。影が、おかしい。


 蝋燭の炎が揺れるたびに、壁や柱に映る影が、炎の動きとは、明らかに違う、独自の意思を持ったかのように、蠢く。


 十本。声が、混ざる。


 語り手の、朗々とした声に、混じって、マイクが拾うはずのない、微かな、女の囁き声のようなものが、聞こえ始める。


「……ノイズか?」「……いや、違う……なんだ、これ……」


 音響スタッフが、パニックに陥り始める。真央は、背筋を、冷たい汗が伝うのを感じた。これは、演出じゃない。古賀の言っていた、「本物」だ。


 そして、残りの蝋燭が、二本になった。九十九話目。


 語り手は、白髪の、老民俗学者だった。彼は、この地方に古くから伝わる、「朧様(おぼろさま)」と呼ばれる、怪異の話を始めた。


「……朧様は、人の形をしておるが、人ではない。それは、百の物語を喰らい、人の想念を糧として、この世に、姿を現す……」


 老学者の声が、震えている。彼は、目の前の闇の中に、「何か」を見ていた。


「その姿を見たものは……決して……」


 その瞬間。老学者は、言葉を詰まらせ、「ひっ」と、短い悲鳴を上げた。


 彼の口から、ふわり、と。黒い、蝶のようなものが、飛び出した。それは、音もなく、最後の二本の蝋燭のうち、一本の炎を、かすめて消した。


 老学者は、白目を剥き、その場に、崩れ落ちた。


 残る蝋燭は、一本。


 残る物語は、一つ。会場が、パニックで、爆発した。悲鳴と、怒号。真央は、真っ白になった頭で、進行表を握りしめていた。そこには、こう書かれている。


『20. 100話目語り手、スタンバイ』


 プロジェクトを、完遂させなければ。


 会社員として、担当者として、最後のキューを、出さなければ。


 真央が、インカムのマイクに、手をかけた、その時だった。


「――遂に、時が来た」


 静まり返った本堂に、凛とした、声が響いた。


 いつの間にか、最後の蝋燭の隣に、一人の男が、立っていた。


 このプロジェクトの、企画者。


 部長、その人だった。


 彼は、恍惚とした表情で、最後の蝋燭が揺らめく闇を、見つめていた。


「我が一族の悲願、江戸の残光、ここに蘇らん。来たれ、朧様。今こそ、この穢れた世を、あなたの御力で……」


部長の言葉は、狂気に満ちていた。


 この百物語は、イベントではなかった。江戸時代から続く、秘密結社「朧会」が、怪異を呼び覚ますための、壮大な「儀式」だったのだ。


「さあ、桜味くん。最後の物語を、始めるのだ。君が、この儀式の、最後の巫女となれ」


 部長が、真央に向かって、手を差し伸べる。


 もう、駄目だ。終わった。


 そう、真央が、全てを諦めかけた、その時。


「――させっかよ、バーカ」


 部長の前に、古賀が、立ちはだかった。その手には、消火器が、固く、握りしめられていた。

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