Sec. 07: Nothing ventured, nothing gained - 01
なあなあになっていたカーリー・エディソンの現場検証のために、レイたちは彼女の部屋を訪れていた。かつてはエディソン夫妻が二人で使用していた場所で、レイと同じ通常ランクの部屋である。ツインベッド、ベランダとバスタブつき。夫のスチュアートは事件後、五階の空き部屋に移ることを余儀なくされた。
茶髪の執行者はクロフォードの顔を見るや否や、姿勢を正して手のひらを見せる敬礼をした。レイは自分のときとの差にうんざりしつつ、傍によけた彼の隣を通って中に入る。
室内は綺麗だった。シーツに不自然な乱れはなく、調度品も破損してはおらず、まるで今でも客が宿泊しているかのように、清潔に保たれている。争った形跡も全くない。
「ヘインズビー」クロフォードは入り口からこちらを窺っている茶髪の執行者に声をかけた。「解錠ログに不審な点は?」
「ありません」
「現場の保存は?」
「完璧です。ミス・カルヴェが協力してくださいました」
警備員の——ヘインズビーが言うところによれば、カルヴェが使う絵画魔術を応用し、ベッドに残された構成式の一部を保存しているという。絵画魔術は額縁に嵌め込むことで構成式を固定したり、人物画を描くことによって複製したりする魔術である。
レイは部屋を見渡した。やはり不審な点はないように見える。
ただ、チェンバーズの部屋にあった紅茶が、この部屋にはない。魔素変換で造れそうな物品が備品以上に増えている、ということもなさそうだ。
「魔素の濃度は計測したか?」
クロフォードが警備員に尋ねると、彼は軍人のように背筋を伸ばす。相手が主席執行者だから緊張しているのか、『死神』だから緊張しているのかは、レイには窺い知ることができなかった。どちらでも、関係のないことだ。
「計測済みです。異常はありませんでした」
クロフォードは、彼が差し出してきた用紙を一瞥もせずレイに回した。そこには、チェンバーズの部屋と同じ魔素濃度のパーセントが印字されている。通常の大気と変わりない。魔素の濃度に異変がなく、魔素を変換して造れそうな物もない——となれば、やはり誘拐事件なのではないか。式核が見えるクロフォードは殺人だと確信しているようだが、あらかじめ魔素が差し引かれた形跡がないのだから、魔素に変換されていないと考えるのが妥当だろう。となれば、殺人ではないのでは。
疑いが揺り戻されつつあるレイをよそに、クロフォードは部屋を歩き回ることもせず、入り口に立って中を見回している。
レイはベッドのそばに近寄り、シーツの上に目を凝らす。人体を構成する式の断片こそ見えはするものの、式核と思しいものは視界に映らない。本当に、殺人事件なのか。クロフォード一人の証言では、信憑性は薄いのではないか。
弟子である自分が最初に信じてやらないでどうする、と内なる声が囁く。
簡単に信じてまた裏切られたらどうするんだ、と別の声が怒鳴る。
信じたい。推理と事件に関しては、彼の言葉が間違っていたことはなかった。けれど、彼がレイを騙し嘘をついたのもまた、事件に関することだった。犯人の意図を知るために、暗示などの魔術をあえて受ける炭鉱のカナリア。レイの身を危険に晒すことはないからと、契約を結ばされた。それはいい。だが、また真相に近づくためにと嘘をつかれない道理はない。だから、信じたくない。裏切られたとき、ショックを受けたくないから。
「誘拐じゃないのか。だって、魔素濃度は……」
「それはありえない」
クロフォードは部屋の中に入ってくると、警備員の目から隠れるようにドアを閉めた。レイがいるベッドサイドを通り過ぎて、ソファが置かれたシーティングエリアへ向かう。窓辺に立つと、落ち着きはらった声でレイを呼ぶ。「おいで」
「内緒の話をしてあげよう」
「はあ?」
今はそんなことをしている場合ではない。とはいえ逆らうこともできず、レイはうんざりしながら彼の元へ歩み寄った。彼の黄金の瞳は、窓の外で揺れる海を見ている。
「ハウエルズは犯人ではない。彼女には、どうやっても犯行は不可能だ」
「けど、幻想域への接続ルートを持ってるのはハウエルズだけだろ」
「彼女の妖精は、幻想域に属していない」
その言葉は、レイに側頭部を思いきり殴られたような衝撃を与えた。
妖精は必ず幻想域に所属する。はぐれの妖精は存在せず、全ての妖精は領主となる妖精、精霊、神霊の庇護の元で暮らす。現実領域では妖精は存在できず、幻想域に入るには領主の許可が必要だからだ。多くの妖精は領主の許可を得て幻想域を行き来し、そこに棲む。
現代の現実領域に、妖精が生きられる余白はない——人間と契約した場合を除いては。しかし、人間と契約しても、幻想域とのつながりは続く。妖精はそもそも幻想域で生まれるから、真の意味でそこから自由になることはできない。
「そんな妖精が、存在するはず……」
レイが絞り出すように呟くと、クロフォードは小さく頷いた。
「彼女の妖精は人工物だ。私が造った」
「な……」
「故に、幻想域に所属せずとも存在できる。妖精と同じ機能を持った使い魔だからね」
「なんで言わなかったんだよ、今さら言われたって……」
それをもっと早くに言ってくれれば、ハウエルズを疑わずに済んだ。真相に近づくのも、もっと早かったかもしれない。レイは彼への不信感を強め、じとりと睨みつける。
「彼女のプライドを守るべきだと思った」彼は目を伏せた。「主任教授という立場にある彼女が、偽物の妖精と契約していることを公表したがると思うかい?」
「それは……」
ハウエルズがどのような人物か、レイも知っている。彼女がどんな立場にあり、どんな振る舞いを求められているのかも。それを考えれば、クロフォードの気遣いと決断も——それが間違っているかは別にして——納得できるものではあった。
レイはため息をついて、彼の意志を尊重してやることにした。すなわち、アデライン・ハウエルズを第一容疑者から外すということだ。
被害者を幻想域に誘拐することができるのはハウエルズのみ。
しかし、クロフォードは現場に残された式核を見て殺人事件であると断定している。
この事件が誘拐ではないのなら、ハウエルズを除いた魔術師にも殺害は可能だろう。
——つまり、捜査は完全に白紙に戻った。
「だから黙っていた。君に話したのは……なりふり構っていられなくなったからだ。もう時間が惜しい。なるべく、他の人間にはこの話をしないようにしてくれ」
「わかった」レイは頷いた。「お前は、どうしてトランクを開けなかったんだ? ミズ・ハウエルズは、犯人じゃないのにお前の調査を妨害してた。そっちのが、よっぽどタイムロスになってただろ?」
クロフォードがトランクを開け、中の幻想域にチェンバーズとカーリーがいないことを証明してやれば、ハウエルズはすぐさま調査妨害をやめただろう。妨害されることよりも、彼女のプライドを守ってやることを優先したのだとすれば——あまりに、お人好しだ。
「中のモノが侵入者を襲わないとも限らないから、開けられなかったんだ」
「中の……モノ?」
レイは鸚鵡返しにして眉をひそめた。
あのトランクには空間拡張とインベントリ系の魔術が使われており、思い浮かべたもの、必要とするものを取り出すことができる。幻想域に繋がっているという話は数日前に初めて聞いたものだったけれども、中に何かがいるなんていうのは、初めて聞いた。今まではその何かを必要としていなかったから、指先に触れなかっただけ、ということか。
「少し気難しくてね」
クロフォードはそう言って肩をすくめた。生物であるらしい。
ベストのポケットから懐中時計を取り出した彼は、羅針盤の彫り込みがされた蓋を開け、時刻を確認する。そうしてそれをしまい、レイに向き直った。
「そろそろいい時間だ。これ以上ここに見るべきものがないなら、ランチにしよう」
見るべきものと言われ、レイは彼に試されているのではないかと感じた。ここで何かを見落とせば、クロフォードからの評価は地に落ちてしまうのではないかと。
辺りを確認する。魔素の濃度に異常はなかった。ベッドの上に残った構成式の断片には式核が含まれており、誘拐ではなく殺人であると断定できる。ハウエルズが契約している妖精は人工物で、幻想域に属さず、ゲートをくぐる資格も有していない。
ここで得られる情報といえば、その程度だろうか。
「たぶん、大丈夫だと思う……けど、わからなくなってきた」
「何がだい?」
「ハウエルズが犯人じゃないなら、この船に乗ってる全員が容疑者みたいなものだろ」
「そうだね。だが、全員が犯行可能でも、犯行に至る動機を持つのは犯人だけだ」
クロフォードは窓の外で揺れる波を数秒眺め、踵を返した。レイもそれに続く。
なぜやったか。それが、事件を解く鍵になる。
「……お前は、もうわかってるのか?」
レイはドアノブに手をかけるクロフォードに、そう尋ねた。
春の事件では、この男はおそらく一番に犯人が誰かに気づき——そのうえで、レイには何も言わなかった。犯人の目的を知るためには続く惨劇を止めるべきではないと結論づけ、少数の犠牲の上に、世界を危機から守った。それが正しい結果だったのか、レイには判別できない。もう過ぎ去ったことだ。しかし今回も同じように、確実な逮捕のために犯人を泳がせているのだとすれば——それは間違っていると、改めて糾弾すべきだろう。レイのささやかな正義感は、そう叫んでいる。
クロフォードがわずかに振り返り、鋭い黄金の瞳を細めた。
「ああ。確信を得て逮捕するために証拠を集めている……と言ったら、君はどうする?」
今度こそ試されているのだと悟って、レイは顔を歪めた。
実行できる現実的な正義と、レイが掲げる理想論的な正義。それらが対立することは、ごく自然なことだ。理想だけでは正義をもたらせないことも、頭では理解している。
いくら魔法使いでも、法のもとに動いている以上、さまざまな制約がある。一般社会の警察と同じだ。犯行が確定していないのに犯人として処断したとなれば、大問題になってしまう。疑わしきは罰せず。それは、魔術師の社会でも同じことだった。
「お前が正しいってわかってるのに」レイはなおも叫ぶ自分の正義感を押し殺すように、かたく目を閉じる。「……犯人がわかってるなら、早く捕まえればいいって思う。僕は、お前を信じるって言ったし……お前が苦しんでることも、わかってるつもりなのに」
「君も正しいさ。その感覚は、失わないでくれ。私の代わりに」
ふ、と寂しげに微笑んで、クロフォードは部屋を出た。
扉の前に立っていた警備課の執行者は、聞き耳を立てていたのか慌てて姿勢を正す。
「引き続き警備を頼む、ヘインズビー。他でもない、君の仕事だ」
「はいっ」
クロフォードのシルクに包まれた白い手が、執行者の肩をぽんと叩く。激励を受けて、彼はいっそう背筋を伸ばした。やはり、クロフォードに憧れる執行者は多いらしい。
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