Intro: The Door into the Cruise - 02
ウェールズでの一件で契約を交わしたレイたちは、互いに相手に利用されることが定められている。クロフォードがレイを守る代わりに、レイは魔術的な未熟さを利用し、認識阻害や暗示といった隠蔽工作をわざと受ける。それらの効かないクロフォードは、犯人が隠したかったものを知る。
利害の一致で成り立っている師弟関係であると言えるだろう。これが適用されるのはクロフォードがレイを求めている期間のみなので、レイが事件への同行を断れば、暗示や認識阻害を受けることはない。
しかし、レイは学ばなければならないのだ。クロフォードの弟子として、彼が使う魔術を間近で観察し、自分のものにしたり、学びに活かしたりしなければならない。それが、彼女との約束なのだから。
「十六日から一週間、全学派の研究者が集まる学術発表会が行われるんだ。その会場で、警備を頼まれた」
「それ、僕に関係あるのか?」
単なる警備であれば、認識阻害を受けることもないだろう。そうなればクロフォードにとってレイは不要だ。そして、クロフォードが魔術を使わないのなら、レイがついていく理由もない。実践的な魔術を学ぶために、事件に同行しているのだから。
「あるとも。前回は主に攻性魔術を使っていたが、今回は防性魔術を使う。それに、会場では私のほかにも執行者が警備に当たっている。学びの場には最適だろう」
どうやら、彼なりにレイのことを考えてくれているらしい。そう言われても反骨と反発、そして疑念は消えなかった。レイはあの春の裏切りを、まだ根に持っている。クロフォードは平気で嘘をつく最低の人間である、という認識が、まだ心の奥底に澱んでいる。
「君が警戒するのもわかる。だが今回は、君を騙すような真似はしていない」
レイの刺々しい視線を察してか、彼は肩をすくめた。「信じてくれ」
信じてやることは簡単だ。また裏切られたら、今度こそ殴ってやればいいし——何より、今の我々のあいだには契約がある。嘘をつかないこと、とは書かれていないが、契約を交わすような相手に不誠実な態度を取るとは考えにくい。クロフォードは必要に応じて嘘をつき、真実を隠匿するが、基本的には誠実で真摯だ。
「……つぎ嘘ついたら、ぶん殴ってやるからな」
「もちろん。殴られたら、左の頬も向けるさ」
クロフォードは笑って言った。『マタイによる福音書』五章三十九節だった。
彼は魔法使いで、今は世界最大の魔術結社・術識学会の学術院で教授をしているけれども、以前はC3という教会の部署でエクソシストをしていた人間である。強い信仰心がなければ扱えない、聖句を用いる魔術の使用者でもあった。
春の事件でもその魔術を使用していたので、まだ神に身を捧げるほどの信仰心を持っているのだろう。レイは多数の魔術師の例に漏れず信徒ではないものの、聖書の知識くらいはあった。
「というか、発表会って一週間もあるのか。長くないか?」
「懇親会を兼ねているんだ。ロンドンからモナコまで、七泊八日のクルーズだよ」
「はあ?」クルーズ、という言葉に眉が上がる。
「それほど大きくない船だが、ランドリーはある。着替えもそう多くなくて構わない、が——立食パーティーが企画されているので、ジャケットは持ってきてくれ」
言って、クロフォードは紅茶を啜った。懇親会を兼ねた立食パーティーならば、ドレスコードはスマートカジュアルくらいだろうか。クローゼットの中身をぼんやりと思い出しながら、レイは頷いた。「わかった」
「出航は十六日だったよな? どこに行けばいい?」
「ロンドン港に、朝八時。少し早いが、我慢してくれ」
八時を早いと言う彼の体内時計がどうなっているか、気になる。「七時には起きてる。お前ぐらいだろ、寝てるのなんて」尋ねる代わりに、レイは憤りを込めて鼻で笑った。
クロフォードは魔法使いなので、魔術師であるレイたちと違い、移動手段の一つに魔法が入り込んでくる。扉や門、境界とみなされるものがあれば、どこにでも空間を繋げることができる、ということだ。
空間歪曲は実体のないものに干渉する『量子』魔術の範疇だが、概念のほとんどは式核で構成されているため、実質的に魔法使いにしか扱えないのである。
この世界に存在するすべては、
構成式は式核、式幹、式海の三層で形成されており、式核を描き出せる魔法使いだけが、式核に触れることができる。
つまり、魔術師はほとんど普通の人間と変わらないのだ。移動には交通機関を使うし、日常生活に魔術を活用できるほどの魔力を生成できる魔術師はごく稀なので、紅茶だって手ずから淹れる。
火、水、風、土、虚数、量子の六つの属性のうち、量子属性は『概念』が持つ構成式の性質——ほとんどが式核で形成されており、魔術師には触れられない部分が多いという性質——上、魔術師に適合することは滅多にない。量子魔術の使い手は学会によって徹底的に管理・監視されている。
レイが所属する基礎学派の賢者は量子属性の魔法使いで、運命に干渉するという規格外の能力を誇る。その能力を使って、レイが学会に接触する機会を創り出したのだという。
レイはプレッセを飲み干し、片づいたらしい用件を脳内で反芻しながら、腹の前で指を絡めた。クロフォードのやわらかな視線が注がれている感覚がある。
また子ども扱いされているな、と思ったけれども、それをいちいち咎めても無駄骨にすぎないということを、レイは既に嫌というほど理解させられていた。
「では、明後日の朝八時、ロンドン港で。君のような新入生が最前線の学術発表を聞く機会など、そうないだろう。しっかりメモを取って、学びに役立てなさい」
「言われなくてもわかってる」黙って退室するべきだとは思ったが、レイは反論しないと気が済まなかった。「明後日、八時だな。寝坊するなよ」
クロフォードは意味ありげな微笑みを口元に乗せて、マグに口をつける。寝坊されたら実際に困るのはレイであることを、どうやら知っているらしかった。クロフォードが寝過ごしたら、レイは乗る船がわからない——どころか、どうして助手としてクロフォードを叩き起こしてこなかったのか、となじられる可能性すらある。
舌打ちを我慢して、レイはファトラ館を後にした。アダムのエスコートはムカつくくらい完璧で、丁寧なもてなしを受けてもなお苛立っている自分の狭量さを、自覚させられるようだった。ほんのわずかに頬が熱くなって、額に手を当てて顔を覆う。情けない。
外に出ていちばんに網膜を焼く陽射しは、とうに夏の始まりを告げていた。
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