生贄
松明に灯された炎は煙を噴き上げながら激しく燃えている。
井坂が喉を震わせて吐き出す祝詞が耳を刺す。母音が濁り、子音が崩れ、理性では意味の取れない音列に化けて、まるで獣の遠吠えのように山々へ反響している。自分を囲むように踊る井坂が一周し、また一周する。そのたび鼻奥に腐肉が爛れたような匂いが強まっていく。、喉の奥に酸が込み上げる。
「来る、のか」
呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。思考に氷の欠片が刺さるように意識が揺らいでいく。井坂の影が火光に引き伸ばされ、壁一面を這い回る蜘蛛のように歪む。
「静かに。一人でやってるんだから集中させて」
井坂のささやくような警告を受けて、口を真一文字に結び、呼吸に集中する。二人でやると決める前、今回の儀式は霊媒師を何人も呼んで行うのだと井坂から聞いた。いくつもの役割を一人で受け持っているのは間違いない。集中させてやりたかった。
井坂がまた一周すると、脈が急降下し、四肢の感覚が遠のく。立て直そうとしたが身体に力が入らず、顔中にざらついた砂の感覚がぶつかってきた。そんな中でも井坂は脇目も振らず儀式を続ける。
「……カシコミカシコミ……モオス……」
井坂の祝詞は、自分たちの使っている日本語とは違う発音になって、ざわざわと音を立てているように空気が変わっていく。瘴気ともいえるほどの異様さを纏うにつれ、井坂の様子も変わっていく。祝詞は言語の体を離れていき、舞は乱舞とも言えるほどに激しくなっていく。
「……ナガスネヒ……コノシ」
闇の奥から、ひゅう、と風のない風が吹く。松明の炎がひときわ長く伸び、井坂の踊る軌跡が幽霊の尾のように空間へにじみ出す。その刹那、後頭部に鈍い圧がのしかかり、視界のふちが暗く染まった。感覚のない身体が狂ったように痙攣を始め、目蓋の向こう側に見える地面が、遠く映る。口腔に血と鉄錆の味が広がった。
ゆっくりと目蓋が降りていくのを見計らったかのように、井坂の舞がぷつりと切れた。踊りの余勢を殺さぬまま、懐にしまってある腰の短刀を抜き放つ。唸りを上げて迫ってくる白刃を、朦朧としたまま目で追った。
――介錯される覚悟より速く、刃が目の前に振り下ろされた。
深々となにかが突き刺さるような音がしたのに、不思議と痛みは来なかった。目を開くと、刃先は自分の鼻先をかすめ、虚空に食い込んでいる。
次いで、空気が呻くように重苦しく揺れて。脂と腐臭のまじり合ったような匂いが鼻腔に流れ来る。
「神殺しは無理でも。追い払うくらいなら、やらないと、でしょ」
井坂は刃を引き抜きざま、もう一度空を断つ。二閃、三閃、無形の敵を薙ぐたび、刃筋には返り血のように水滴がまとわりつき、切っ先から滴り落ちていく。この場を満たしていた瘴気が可視化されたかのように霧が立ちこめ、肺に入れた瞬間に爛れるような苦痛が全身を襲い、胃液を吐いた。
「もういい。やめろ。これ以上は――」
声は砂を噛むように掠れ、言い終わる前に胸を締め上げる冷気が襲った。体の芯が急速に凍り、心臓の鼓動が濁った水音へ変わる。
ぜえはあと肩でで息をしながらも井坂が刃を振るう速度はさらに加速していく。霧に押しつぶされるように松明の炎は消え、辺り一面が白い闇に包まれた。
手を伸ばせば届くほどの距離にいる井坂の輪郭すら曖昧になるほどの霧が立ちこめ、井坂の唱える祝詞は、もはや言語とは言いがたいほどのうめき声となってしまった。視界の端が黒く侵食され、世界が周辺から削り取られていく。耳鳴りは甲高い金属音から、砂を擦るような「ザザ――」という音に変わり、徐々に聞こえなくなっていく。井坂も膝をつき、うめき声も蚊の羽ばたきのようなか細いものへと変わっていく。
ゴトリ。と音を立てて井坂が落とした短刀が地面に転がっていく。――それは、呪われた二人が、同じ速さで蝕まれている証なのだと直感する。
霧の向こう側から井坂の片手が落ちるように現れた。白い指が小刻みに震え、爪の内側が紫に色に変色している。この儀式場に逃げ場はない。どちらが先に力尽きても、残った者も同じ速さで朽ちていく。助け合う手段すら呪いに絡め取られ、お互いの無事もわからない。
最悪の事態――二人まとめて呪いに蝕まれる状況が、目前に迫っていた。
腐臭の中に混ざる土の匂いで目を覚ました。前は見えないし、全身の感覚もない、が少なくとも生きてはいるらしい。うつ伏せになったまま瞬きを繰り返すと、いくぶん視界が晴れてきた。徐々に焦点が合ってきた視界の先では、井坂が地面を転がっていた。金髪は泥に塗れ、獣のような呻きが喉から洩れていた。それでも、苦しめるだけの余裕がある。
拍子木が割れるような声が聞こえる。遠いけれど、確かに近づいてくる。念仏とも祝詞ともつかぬ声が重層的に重なり、山間の夜気を震わせる。
「――ッ、っ……」
声にならない声が喉の奥からこみ上げてくる。霞んだ視界の端に、世にも不思議な光景が現れた。
御幣に巻かれた紙垂を燃えさかる炎のように揺らしながら、複数の影が斜面を下りてくる。巫女の緋袴、僧の墨染、山伏の
「来た、のか」
井坂の呟きが聞こえると同時に、爆ぜるように祈りの大音声が届いてきた。唱え、打ち鳴らし、鈴を転がし、舞い踊る。五、十、いや二十――数え切れないほどの祈祷師たちが、あっという間に自分と井坂を囲んで円陣を組んだ。
賑やかな太鼓の音が心拍と重なるたびに息が楽になっていく。祈りはうねり、呪詛は軋み、互いを塗り潰し合うかのように爽やかな空気と耐えがたい腐臭が交互に訪れてくる。
ひとりの僧が膝を折れば、代わるように山伏が前に出る。祈祷師が二人倒れば、巫女が三人進み出る。倒れれば前を進むものが現れ、疲れて座り込むものがいれば、既に休んだ者が立ち上がる。 途切れることのない声は勢いを増していき、円陣はさらに広がっていく。
私はその中心で、ただ息をすることしかできなかった。
「見てるか。井坂、これが田中角栄先生の力だ」
「スゴい人たちばっか。家一軒とかそんな額じゃないよ」
喉の奥に溜まった血の味を吐き捨て、拳を握り締める。爪の先が掌を破る痛みすら、生きている証だった。
立ち上がった井坂がもう一度白刃を取り、なにかへと振り下ろした瞬間、空が裂けた。
冷たい雨粒が硬貨のように頬を打ち、顔中にこびりついた泥と体液の膜を洗い流す。微かに体温を含んだ生暖い雨水が地面へ滴り落ちるたび、視界が明瞭になっていく。
呪いの澱は、まだ大地を舐めている。だが雨が、澱んでいる汚れを洗い流すかのように降り続ける。
祈祷師の円陣が、一拍ごとに狭まっては広まってを繰り返す。拍子木、鈴、読経。異なるリズムが合流し、一つの巨大な鼓動へと統合されていく。祈祷師たちの声が、呼応するように音程を上げる。巫女が空高く跳ね、山伏が錫杖を振り回す。
「ねえ、センセ」
井坂に呼ばれた瞬間、視界が稲光に満ちた。天地を揺るがす雷鳴が、辺り一面を震わせる。光の刃が大地を裂き、闇と雨の上に刻まれた一閃が、井坂と私の影を地面に焼き付けた。
叩きつけるような雨が止んだあと、空はさきほどまでが嘘のように晴れ上がっている。なにがあったのかさっぱりわからない。誰か事情を知ってそうなものは、と周囲を見回していると、輪を作っている中の一人が歓声を上げた。どういう意味なのか聞こうとした井坂も満面の笑みを浮かべていて、儀式は成功したのだと理解するころには、周りにいる全員が喜びを分かち合っていた。
先生、お願いします 柏望 @motimotikasiwa
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