第56話 鋼鉄の獣
闇を裂くのは、鋼鉄の足音か、追いすがる怪物か。どちらにせよ、この夜、獣の名を持つのは人間ではなかった。
◇
電灯の消えた梅センター内
暗闇に沈んだ廊下。
余震で天井から落ちる小石の音だけが、やけに大きく響く。それ以外の全ての音が吸い取られたように、沈黙が支配していた。
「……静かすぎる」
祐也が小さくつぶやく。
空気が重く、湿っている。呼吸をすると肺の奥が詰まるような、化学物質のような瘴気が流れ込み、喉が塞がる感覚に襲われた。鉄と油の焦げた匂いが漂い、赤い非常灯の明滅に合わせて影が揺れる。
その時だった。
――カチ、カチ。
金属が擦れるような、微かな音。
規則的な足音ではない。滑るように、何かが“這って”いる。
アオイが震え声で呟く。
「……誰か、いる……」
闇の奥に、ふっと赤い点が灯った。
一つ、二つ、三つ……。
まるで獣の眼が、こちらをじっと見据えているかのように。
タケルが前に出る。
「……来るぞ」
祐也の心臓が大きく跳ねた。
次の瞬間、耳をつんざくような金属音が廊下に響き渡る──。
「逃げろ!」
不気味な影が映る。
タケルが瓦礫から鉄パイプを構え、戦闘体制になる。
「ダメだ、殺されるぞ!」
掴んでいるパイプを叩き落とされた瞬間、目の前に現れ、蹴りを喰らう。
「速い、人間じゃない!」
祐也が、足を蹴りで攫うが倒れない。
胸ぐらを掴まれ、身体が宙に浮く。
アオイとタケルでキャビネットを倒し、下敷きにする。
「今だ!走れ! こっちだ」
「窓が開いている!外に出れそうだ」
「ローンッ!!聞こえるか! ヤバい奴らに追い詰められてる!」
祐也が叫んだ。
「倉庫に競技用、CORLEAーF3があるわ! それで逃げなさい!」
紫音が起動させた。
「何だ?動物型ロボットか⁈ どうすればいい?」
「またがって走らせるの! 70kmがマックスよ。
振り落とされないように!」
「アオイ俺と乗れ!タケル!行くぞ!正面突破だ」
CORLEA-F3の関節が火花を散らし、瓦礫を蹴るたびに地面が震えた。四足の鋼鉄の獣が唸り声を上げて疾走する。祐也は怪我したアオイを胸に抱きかかえ、必死に体を支える。
「しっかり捕まってろ!」
「……祐也、初めて素敵だなって感じた」
「うるせぇ! 今は黙って運ばれとけ!」
背後ではサイバー兵士の金属音が迫る。ガシャン! と壁を突き破り、赤い非常灯に反射する黒い影が追いすがる。タケルが振り返り、叫んだ。
「やべぇ、囲まれるぞ! さすが、KAWASAKIだ!速いぜ!」
CORLEAの人工筋肉が張り詰め、鋭い駆動音とともに速度が跳ね上がる。
「70……80! まだ上がる!」紫音の声が通信に弾んだ。
瓦礫だらけの廊下を、CORLEAはまるで水面を駆けるかのように突き抜けていく。鉄骨が倒れ、ガラス片が舞い、赤い明滅の中で三人の影が揺れる。
前方――非常口の先、闇を切り裂くように車のヘッドライトが照らされた。
希望の光。
祐也はアオイを強く抱きしめ、胸の奥で小さく呟いた。
「……逃げ切ってやる」
タケルが吠える。
「行けぇぇぇ!」
CORLEAは最後の跳躍で光の中へ飛び込んだ。赤い非常灯の明滅も背後の金属音も、一瞬だけ置き去りになる。
だが、その出口の前に――
四体のサイバー兵士が立ちはだかった。
タケルがパイプを振り上げる。
「どけぇぇ!」
しかし鋼の体に歯は立たない。
「近づけ!今からパルスを流す!」紫音の声が弾む。
「飛びかかってすぐ逃げて!……今よ!」
兵士たちが一瞬フリーズする。だが再起動は早かった。金属音が再び響き、迫り来る。
「もうダメか――」祐也が歯を食いしばった、その時。
ドガァッ!
サイバー兵士の一体が、横から吹き飛ばされた。
「……なに、仲間割れ?」タケルが呆然と呟く。
だが祐也の目には、ただの誤作動ではなかった。
非常灯に照らされる黒い影。拳を繰り出す角度。
足の運び。間合いの詰め方。
――体が覚えている。何度も対戦したあの動き。
「……レン」
祐也の喉から熱を帯びた声が漏れた。
顔は見えない。声もない。
それでも、確信だけは揺るがない。
その瞬間、ジンの声が鋭く割り込む。
『祐也!今のうちに走れ!早く!』
祐也はアオイを抱え直し叫んだ。
「タケル、行くぞ!」
CORLEAが咆哮を上げ、三人を乗せて光の先へ突き抜けた。
アンドロイドが一体走ってくる。
「アキラだ!彼も車に乗せてやって」
――
長老たちは再びモニターを睨みつけていた。
「……逃げられたじゃないか」
「やはり前回の誘拐未遂も、彼ら自身の計画だったということか」
「追跡はどうなっている?」
「目標は横浜方面へ向かったのち、不明。……サイバー兵士の動きが一分ほど完全に停止しました」
会議の空気が凍りついた。
「やはり……完璧と思われた思考制御も、通信が途絶すれば脆い。改良が必要だ」
「現場から報告。異様な脳波を検知――その後、一体が味方に攻撃しました」
「味方に……? そんな馬鹿な」
オペレーターが声を震わせる。
「ΩNova……です」
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