第二章 殉死命令 ③

 柿色に菊花の刺繍は渋くて落ち着きがあり、芍妃が好んで着ていた着物だ。初めて直視する顔は丸顔におちょぼ口で、いつものおっとりした雰囲気は消え失せ、目を三角にしている。


「落ち着きなさい、芍妃。御仏の前ですよ」


 喧噪の中、皇太后は祭壇の前で静かに祈りを捧げていた。


「これが落ち着いていられましょうか! こ、こんなことは聞いておりませぬ!」


 声を張り上げる芍妃に、皇太后が祈祷をあきらめて立ち上がり、ゆっくりと向き直る。


「芍妃よ。それからみなの者もよく聞きなさい」


 皇太后の凜とした声に、堂内の女たちが慌ててひざまずき、花菫も碧玉と如意とともに膝を折って言葉を待つ。


 たくさんの頭越しに、皇太后の顔が見える。菩薩を思わせる細い目は少し垂れ気味で、素の顔でも笑っているよう。上がった口角とくっきりと刻まれた笑い皺が、温厚な人柄をよく表していた。羽を広げた孔雀を象った金細工の額飾りをしていて、額がどうなっているかはわからない。


「陛下が亡くなったことは、誠に言葉に尽くせぬ悲しみです。天も地も、万民もまた、ともに偲んでおりましょう。ただ……陛下が遺命を発令するなどということはありえません」


 なにかを決心したかのように、皇太后が大きく肩を上下させる。


「……陛下は生まれつき、耳が聞こえないのです。そのため、お言葉を発することも叶いません」


 耳が聞こえない。想定外の言葉に、波のようにざわめきが起きて、また静まっていく。


「陛下が幼き頃より離宮で育ったのは、民に不安を与えぬよう、このことを隠すためです。即位されてからは、政務を行うこともありませんでした。耳も聞こえず、言葉も話せず、政にも参加していない陛下が、どうして死に際に聖詔を書きましょうか」


 ああ、と花菫は腑に落ちた。あの、陛下の美しいけれども感情のない表情。あれは、周囲の声が聞こえていなかったからだ。


「この殉死命令は、陛下の崩御を利用した何者かの陰謀にほかならぬ。このような悪逆が許されるわけがありません。我が一族が、必ずや助けにきます。今は落ち着いて、そのときを待ちなさい」


 そう言うと、皇太后はまた祈祷に戻った。

 帝の事実は衝撃的だったが、殉死命令は誰かの陰謀で、いずれ助けがくると言われ、安堵が静かに広がっていく。


「よかった……花菫様、きっと大丈夫です、私たち!」


 碧玉がホッとして涙ぐむ。


(助かる……)


 小さな希望を見出したところに、ギイイと音がして、扉がきしみながら開いた。


 期待をこめて差しこむ光を見つめていると、日を後ろから受けた影のような男が一歩、足を踏み入れた。二歩目で顔が見え、堂内から落胆の声がいくつももれる。

 ゆるくうねった黒髪を後ろで束ね、力強く上がった眉の下には、海のような紺碧の瞳。大男といっていいほどのたくましい体躯で、麻衣の上からもじゅうぶんに鍛えられているのがわかる。頭には弔意を表す白い布を巻き、腰には長剣。その長剣で、水月宮で聖詔を読んだ太監、青藤だとわかる。


 続いて、盆を持った太監たちがぞろぞろと入ってきた。みな白装束で、黒い瓜皮帽には白い布を巻き、盆の上にも白い布。そこに黒釉磁器の杯が十ほども載せられていた。太監たちが並ぶのを待って、青藤が宦官とは思えない太い声で告げた。


「これより毒酒を賜る。謹んで受けよ」


 さっきまでの安堵が一瞬にして絶望に変わる。


「バカを申すな、この宦官風情が」


 白い紗の被帛を翻し、赤い着物の妃が青藤の前に進み出た。


(麗妃様……)


 巨大な真珠の耳飾りをつけ、高く結い上げられた髪には板状の歩揺。歩揺は金板で堂内のわずかな光を反射し、きらりと輝いている。額には華麗な蝶を象った繊細な蝶鈿を貼っていて、肝心の額は見えない。


「答えよ青藤。おぬしは誰の命で動いている?」


 青藤は表情一つ変えずに対峙している。

 麗妃がゆっくりと、青藤の横に立つ太監の方へ、体の向きを変えた。と、いきなり太監が持つ盆を毒杯ごと叩き落とした。杯の割れる激しい音が耳を刺す。


「聞け、青藤。帝亡きあと、超親王が国をおさめるのは自明。超親王と我が兄が義兄弟の契りを交わしていることを知らぬわけではあるまい」


 お世継ぎがいないのだから、皇位継承権は先帝の弟である超親王が第一位。そして今の軍機処大臣は麗妃の兄・曹剛毅で、二人が金蘭之交と言われるほど親密な関係であることは、花菫ですら知っている。


「わらわになにかあれば、おぬしの命はないぞ」

「……私は帝に仕える身。遺命を果たすのが役目である」


 麗妃の脅しにも、青藤はなんの動揺も示さない。


「……たわけが!」


 いらだった麗妃が青藤の頬を平手で打ち、派手な音が高い天井に響く。

 それでも青藤は微動だにしない。


「陛下の命にて毒酒を賜る」


 なにごともなかったように、前を見据えて命を伝える。


 一縷の望みが消え、堂内のすすり泣きが嗚咽に変わった。

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