第3話
働き出してからの一ヶ月を振り返っても、怒涛の記憶の本流というだけで、確かな実感がない。知識として得ているのに経験として積んでいない、そんな毎日を過ごしている。
接客も毎日行っている。
最初はあのフラフラしてる時に対応してもらった販売員をイメージしながら、見様見真似で。やっててもずっとしっくりこなくって、途中から意識するのはやめたけど、割と対応できたりできなかったり。そんな感じが続いている。
入社してから一ヶ月が経った林店長とのミーティングは大体そんな内容を話していた。
「まぁ悪くない。水嶋くんの姿勢は真面目だし、そう焦らなくてもいい」
もはやお馴染みになったカフェのコーヒーを飲みながら、林店長はそう言った。
「君には目指すべき販売員像がある。こうなりたい、あれを出来るようになる、そう言った理想が高ければ高い程、現在とのギャップが明確になる」
手元のメモに過去、現在、未来と横軸の表を描きながら、林店長は続ける。この人、妙に字が綺麗なんだよな。そこがまたデキる感じがするというか。
「未来の姿とのギャップこそが君の課題だ。それを積み重ねていくこと、優先順位をつけること、それだけでいい。接客販売の本質に気づいている君なら、遠回りをすることはあっても寄り道をする事はないはず」
なるほど、あのおっさん販売員が理想で、今の自分とのギャップ。それを埋めるための順序を立てて、それを行っていく、か。わかる。わかるんだけど、何をしていいものか。
「何をするか、何に気づきどう行動を変えるかは、水嶋くん次第だ。俺はこれに気づきなさい、と指示することはない。なりたい姿を、現状足りないものを整理して、それを気づけるサポートをさせてもらう。
だから君は、上手に店長や先輩を使いなさい」
店長や先輩を――使う。
その言葉が耳に焼きついたまま、その日のミーティングは終わった。
モチベーションは高いと思う。仕事を覚えるのは楽しいし、お客様に洋服を買って頂くのは嬉しい。でも自分の接客を通して、俺が経験したような購入体験を提供はできていないように思う。
そんなある日のこと。
その日は雨が降っていたこともあって入店も少なく、自分ができる事が少ないから一日掃除をする日だ。5つのS、って習った。メモを見直しながら、整理、整頓、清潔、清掃、習慣と口にする。ダスターで棚を往復する度に、俺はその言葉を小さく復習する。
「水嶋くん、5つのS活動ありがとう!ちょっと閑散としてるから、ロープレやろっか」
掃除がのってきて、このまま新品の状態まで隅から隅までピカピカに磨いてやるぜ!って変なテンションになった時に、そう高嶋先輩から声がかかった。
内心、げぇって思った。
高嶋先輩は所謂売れる販売員。面接の時に林店長が言っていた理想のGA梅田店の販売員を、現在進行形で体現する人だ。ただ俺と同期入社の穂高から「ロープレおばけ」って呼ばれてる。
ロールプレイングトレーニング。
実際のお客様との応対を想定して行う、接客トレーニングのことで、短くしてロープレって呼ばれるこれが、俺は大の苦手であった。
先輩や同僚がお客様役になって、俺の接客を受けたフィードバックを行うことがで気づきを得る、というのがこれの趣旨なのだが、お客様にもしどろもどろな俺に対して先輩に綺麗な接客を見せれるはずもなく、毎回大量のフィードバックをメモるイベントに変わってしまう。
「ウォッチング、アプローチ」がどうとか、「プロポーザル」がどうとか。
――――
みっちり1時間程しごかれた後、休暇いってもどってきてからも店は閑散としていた。旗艦店っていっても雨降ってる平日には盛況する訳もなく。
俺は高嶋先輩にまた目をつけられないよう、メンズフロアの掃除にとりかかるのだった。
そんなおり、キョロキョロと何かを探す男性のお客様の来店。そうだ、ウォッチング――お客様の見た目や行動からお客様を知る。さっきやったロープレを思い出しながら、俺はそのお客様を観察する。30代、身なりは整っている。足取りはしっかりしていて、何かを探す素振り。あっ、そっちは――
「お客さま、いらっしゃいませ」
思いがけず、でもぎこちなく声をかけていた。
男性のお客様が向かったのは革靴のコーナー。さっきも言われた、「アプローチがどう」「プロポーザルがどう」って行ったロープレを反芻するけれど、お客さまの顔を見ても、何を言えばいいのか、まったく浮かばない。
お客の目線を追うと――俺の足元。
返す刀で手に取った商品も、あのシャンボードだった。
気づいたら口が動いてた。
「あの…俺も、これ履いてるんです」
お客さまが顔を上げた。
「そうですよね。履いてらっしゃるなって思ってました」
手に持ってらっしゃるお客様から商品を受け取りながら、俺は必死に説明していた。手に持つと、その重さが感じられる。硬く、重い。
「はい。給料入って…ちょっと無理して買いました。でも、買ってよかったって思ってます。
最初硬いんですけど、だんだん馴染んできて。
あと、甲がちょっと高めだから、自分はハーフサイズ下げた方が合いました」
言葉は拙かった。
けど、俺の体験そのままだった。
お客さまはまた靴を手に取って、笑った。
「実際に履いてる人の声、助かりますね。ネットで調べてた気になってたんですけど、見てみたくて」
「実際に履いてみられますか」って試着を勧めたら、履いた瞬間に顔がぱっと明るくなった。
おぉって漏れる声に――誇らしくなる。
「確かにいいですね。高いけど…欲しくなります」
俺は思わずうなずいた。
「わかります。俺もめっちゃ迷いました。でも、履いてみたら“これでいい”って思えたんです。なんか、言葉にするとチープですけど」
わかりますって一言から、少し沈黙。
でも、そのあと――お客さまは「じゃあ、これください」って言ってくれた。
⸻
レジに通すと、いつのまにか店長が横に立っていた。98600円。俺も買ったシューキーパーも入れて、10万以上の会計。正直、手が震える。
俺とお客さまのやり取りを見てたらしい。
「いい接客だったな」
「え…でも、俺、なんもちゃんと説明できなくて」
「いや。あの時の経験が、お客さまの満足につながったんだ。接客は知識だけじゃない。自分の体験を伝えるのも立派な提案だよ」
その言葉を聞いて、ドクンって胸が鳴った気がした。ああ、これが“接客”なんだって、初めて思った。
――洋服を売る。経験を売る。
98600円の価値の中にあるもの。俺が経験したことや、物の価値。それらをひっくるめた、お客様の対価。
「1万円の物を売るだけなら、ネット通販にもできる。1万円の物を1万1円の価値を与えて買って頂くのが、販売員の意味だ」
――――
帰る時も、雨が降っていた。
靴の重みが、急に“責任”みたいに感じられた。
俺次第で、この靴の価値はかわる。
水溜まりを踏み締める相棒を見下ろしながら、俺はそんなふうな事を考えていた。
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