第2話
その日の朝陽はいつもとなんだか違うような気がして、素敵だった。
まだまだ暑いのだけれど、夏の茹だるような熱気はどこか影を潜めて、木陰で猫が一匹、背を伸ばしているのが見えた。
通勤ラッシュの時間帯に電車に乗るのは本当に――本当に久しぶりで、世の中の人はこんなにも早く、多くの人が働いているんだって、当たり前の事を思ったりした。
俺も今日からその一人だ。
暑さと初出勤の緊張とで、ぐちゃぐちゃになった頭を俺は、そう意識的に鼓舞する。
都市型駅ターミナルのごった返しは圧巻の一言だった。標識が5メートル毎にあるのに、降り慣れていない駅は直ぐに迷いそうになる。
本当にすごく多くの、雑踏。
街行く人々はすごく綺麗な服を着ていて、輝いて見える。俺はそんな人たちを相手に、洋服を販売するんだ。茹だった頭でそんな間抜けな感想を思い描いた。
店長との待ち合わせは駅を降りて直ぐのコンビニの前だった。なんでも、オープン前の時間に商業施設に入るには従業員通路で入館するらしい。幾分、面接の時に比べて砕けた格好をした店長を見つけるのに、そう時間はかからなかった。
「おはよう。改めて今日からよろしく」
言葉は少なかったが店長は笑って俺を見ていて、それだけで自然と背筋が伸びた。
――――
開店前にレジの前で朝礼。
誰かが紙を読み上げてて、売上のこととか数字とか、よくわからないことをすごいスピードで言っていた。昨日の各セクションの売上に、店舗の売上。販売単価、セット率、客単価。全体共有事項に、お客様との約束の内容。キャンペーンの内容?に昨日レジ差違が発生しました。あわてて全てメモるけど、全部今はわからない。汚い文字の羅列が左から右に伸びるだけ。
ただ、最後に皆さんが声出して言った言葉だけ、妙に耳に残った。
「すべての仕事は、お客様のためにある」
なんか、シンプルで。
よくわからないけど、そうなんだなって思った。
でも正直、それ以上はわからなかった。
朝礼が終わってからは、店長とレクリエーション。面接の時にも行ったカフェで色んなことの説明。出退勤のやり方に休日日数、有休の使い方。品番の見方、色番の見方。店舗用スマホでの在庫検索の方法。その他細かいことまで、全部を一気に詰め込まれた。メモだけで専門学校受験した時より字を書いたんじゃないだろうか。
店に戻ってお畳の練習。シャツ、ボトムスの畳み方。ジャケットをハンガーにかける方法。備品の保存場所。
覚えることが多すぎて、メモの羅列がさらに伸びていく。
「水嶋くんの姿勢はいい。初日にメモ持参はそれだけで評価だ」
正直教えてもらった事はなに一つ覚えてないけれど。――その一言だけはメモらずとも覚えられた。
休憩に行って、戻ると店頭に出てって。早くないか。もっとこう雑用とかやって、一日の感じを覚えていくもんじゃないのか。店の中は広くて、服がいっぱいで、動きも早くて。
挨拶して、掃除して、畳んで、商品直して。
なんか全部、あっという間に終わった。
気づいたら一日が終わってて、頭の中にはっきり残ってる場面なんてほとんどなかった。
帰り際に店の奥で一足の靴が目に止まった。
そいつは、なんというか、俺を見てるような気がした。
黒い革靴。靴の事は何一つわからないし、革靴なんて成人式で履いた一回の経験だけ。でも、なんか、気になった。
分厚い靴底、ソールというんだっけ。それに適度に角張ってもいるし、流線型にも見えるフォルム。これを綺麗な形というのだろうか。
全体には無骨な印象なのに、品があるというかなんというか。自分の語彙の少なさに腹が立つ。
タグ見て、値段見て、思わず「うぉ…」って小声が出た。98600円。店長がレクリエーションで社割がきくと言っていたから大体6万強ぐらい?なのか?
給料入ったらこれ買おうって、心の中で決めた。いや、理由はうまく言えないけど、買わなきゃならない。
これ履いて店頭立つと「ちゃんと販売員になった」って思えそうだから。
――――
初めての給料日。幾分か涼しくなった昼下がり、ATMの前で少し深呼吸。大丈夫、わけわかんなかった一ヶ月だけど、俺は社会人として働いたんだ。今から見る数字はその証。俺には見る資格があるはずだ。
通帳見たとき、正直「うわ、こんなもらえるんだ」ってちょっと感動した。でも同時に「え、これで家賃払って、飯食って、残るのかな」ってすぐ不安になった。
それでも一番に浮かんだのは――あの靴だった。
次の日の仕事終わり、閉店間際。
靴の棚の前に立って、何回も値札を見ては嘆息した。
やっぱ高い。けど、欲しい。
いや、欲しいじゃなくて、必要だ。フラフラしていた俺が変わるために、俺にはこいつがいなきゃダメなんだ。
これ履いて店に立ったら、俺も“ちゃんとした販売員”になれる気がするんだ。
試着してみた。
革は硬いけど、なんか頼もしい感じがした。思った程は重くなくって、でも重量は感じる絶妙なバランス。靴底が高くて、目線が少し上がったのを自覚できる。物理的高くなるだけじゃない。靴裏と革が固くって、ガッチリを足をホールドしている感じ、自然と背中と腹に力が入る。胸張って、というか、そんな感じ。こんな靴、履いたことない。
鏡に映った自分は、少しだけ背伸びしてる気がした。
でも悪くない。むしろ、それでいい。
レジに持って行ったら、店長が立ってた。
ちょっとドキドキした。
「お。これにしたんだな」
「はい。…一番、欲しかったんで」
袋に包んでくれる店長の手元を見ながら、俺は黙ってた。すると店長が言った。
「いい選択だ。カッコいい靴だよ、俺も持ってる。これを履いて店に立つとき、それが水嶋くんが販売員としての一歩を踏み出したってことじゃないかな」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなった。
俺はただ「ありがとうございます」ってしか言えなかった。
でも、靴を抱えて帰る道は、妙に誇らしかった。一緒に買ったシューキーパーと合わせると随分と重かったのに、足取りは随分と軽かったのは、錯覚でもかまわないと思ってる。
――――
始めてこいつを履いて店頭にたった時の事を、俺はたぶん一生忘れないと思う。
お辞儀をした時の景色。店内の床を掴む時に鳴る、パラテックスソールのキュッキュッって音。踏み出す度にコツコツとなる踵。帰るころには足が、痛くなったことも含めて。
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