第4部-第28章 母の退院と新しい影

入院から九日目、病院から「明日退院できます」と連絡があった。

 浩一は思わず「よかった」と声を漏らした。

 久しぶりに家の中が明るくなる気がした。


 翌日、病院の玄関で母を迎えると、彼女は少し痩せて見えた。

 笑顔を作っていたが、歩くスピードは以前よりゆっくりで、荷物を持たせると明らかに重そうにしていた。

 「おかえり」と言いながら、浩一は荷物を受け取り、タクシーに二人で乗り込んだ。


 家に着くと、母はまず仏壇に手を合わせ、その後ソファに腰を下ろした。

 「やっぱり家が一番ね」と言ったが、その声には疲労が滲んでいた。

 浩一はお茶を入れながら、病院での話を聞いた。

 検査結果は大きな異常ではなかったが、医者から「これからは無理をしない生活を」と釘を刺されたという。


 それでも、母は翌日から台所に立とうとした。

 「まだ休んでろよ」と浩一が言うと、「寝てばかりじゃ体が鈍るわ」と返す。

 しかし、包丁を握る手の力は弱く、野菜を切るスピードは以前の半分ほどになっていた。


 数日後、電気代と水道代の請求書が届いた。

 母が入院中、暖房をつけっぱなしにしていたせいで、いつもより高額になっていた。

 加えて、病院への支払いも重なり、通帳の残高は目に見えて減っていく。


 夜、二人でこたつに入ってテレビを見ていると、母がぽつりと言った。

 「もしものときのために、少しずつお金を用意しておかないとね」

 浩一は「そうだな」と答えたが、心の中では別の言葉が渦巻いていた。

 ――用意できる余裕なんて、もうない。


 母が退院しても、家の空気は完全には元に戻らなかった。

 むしろ、これから先に何が起こるか分からない不安だけが、じわじわと部屋に染み込んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る