スマホになった僕

@eriikeda

第1話

 気が付いた時、最初に見えたのは、天井だった。それも、自分の家の天井ではない。すぐに目をそらそうとしたが、体が動かなかった。というか、体がなかった。視界は固定されていて、きょろきょろと周りを見渡すこともできない。自由なのは耳だけで、誰かが近づいてくる足音が聞こえた。

やがて、その誰かが僕を手に取った。

 すべすべしていて、少しだけ冷たい指先が触れた。その瞬間、全身がビリッとしびれるような感覚に包まれて、僕の視界に、見覚えのある顔が映った。

 ——え、嘘だろ。

クラスで隣の席の、田中さんだった。何がどうなってるのか分からない。でも、はっきりしていることが一つある。

僕は今、彼女のスマホになっている。


 田中さんはベッドの上に腰を下ろすと、無言で画面をタップした。ロック解除のパターンが見える。点と点を繋ぐ動きは、何度も繰り返された動作なのか、迷いがなくスムーズだった。画面が切り替わって、ホーム画面が表示される。壁紙は星一つない夜空で、時刻と天気のウィジェットだけが浮かんでいる。

通知がたまっていた。LINEは三件、インスタは五件、YouTubeはおすすめ更新。でも彼女は、それらを無視して、カメラロールを開いた。

写真がずらりと並んでいる。自撮りや、友達とのプリ、文化祭の写真は、どれも楽しそうで、笑顔が弾けている。そこには、僕の知らない田中さんがたくさんいた。

でも、一枚の写真で指が止まった。教室の窓辺で、田中さんが一人、遠くを見ている横顔。たぶん、誰かが撮って送ってくれたんだろう。写真の中の彼女は笑っておらず、目の奥はどこか遠くを捉えていた。

彼女は、表情を変えずにその写真をじっと見つめて、そっとゴミ箱アイコンをタップした。そして、「本当に削除しますか?」という問いかけに、ためらいなく「はい」を押した。

そのとき、スマホである僕の中には、彼女の「表」と「裏」が、どちらも保存されているのだということに気が付いた。

田中さんは、学校ではいつも明るく、友達も多い。僕は、そんな田中さんに、ひそかに好意すら抱いていた。しかし、今まで見ていたのは田中さんの「表」に過ぎず、影のある「裏」も存在するのだ。彼女はきっと、その一面を人前に見せることはなく、自分と自分のスマホの中にだけしまい込んでいるのだろう。


その夜、彼女はスマホ——つまり僕を、布団の中に持ち込んだ。枕元のコンセントに充電ケーブルを差しながら、ため息をついた。天井を見上げたまま、長い沈黙が続いた。

画面が暗くなった。僕にはわかる。指先がふれる感覚や、微かにふるえる手は、何かを検索しようとしていた。

検索バーに打ち込まれた文字が表示される。

「学校 行きたくない」

「親 話したくない」

「本当の自分 見せ方」

「しんどい 助けてって言えない」

打っては消し、消しては打つ。そのたびに、僕は胸の奥が締めつけられるようだった。自分が見てはいけないものを見ているという罪悪感と、誰かに知ってほしかった彼女の心が、同時にそこにあった。

画面の光が彼女の頬を淡く照らしたとき、その頬を一筋の涙がすべり落ちるのが見えた。

その時、通知音が鳴った。

LINE:「大丈夫?今日ちょっと元気なさそうだったけど」

送ってきたのは、クラスの女子の名前だった。彼女はすぐには開けず、指が宙に浮いたまま止まった。そして、返信欄にゆっくりと打ち始めた。

「うん、大丈夫だよ!ちょっと眠かっただけ!」

送信ボタンを押す指先に、僕は何も言えなかった。スマホのくせに、こんなときに何もできない。僕は、ただの金属とデータの塊でしかなかった。でも、彼女の孤独の一番近くにいることができる。たったそれだけが、僕に許されたことだった。

そのまま彼女は画面を閉じ、電気も消さずに目をつぶった。僕は、暗い部屋の中でじっと彼女の隣にいた。


朝になっても、僕は田中さんのスマホのままだった。

その日は、彼女のスマホとして学校に行った。時間の感覚が曖昧になってきていたが、電池の残量だけが、彼女の一日を知らせてくれる。

学校が終わった夜、バッテリーは残り13%まで減った。彼女はベッドに座り込んでいた。制服のまま、うつむいたまま、ただじっと画面を見つめている。

彼女の指が、ふるえながらメモ帳を開いた。そこには、送られることのない言葉が、いくつも残っていた。

「誰かに助けてって言いたい」

「でも、甘えだって思われたくない」

「なんで私だけこんなに苦しいんだろう」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

彼女は、自分の存在を少しずつ薄めていくように、その文字を一行ずつ消していった。

僕の中で、何かが爆発しそうになった。このままじゃ、彼女は壊れてしまう。何かを伝えたい。伝えなきゃいけない。

僕は、スマホとしての自由を振り絞って、思いきりバイブを鳴らした。通知もないのに、スマホがブルッと震えた。彼女が驚いて画面をタップする。何も起きていないように見える画面に、彼女は首を傾げた。

僕はさらに続けた。勝手に音楽アプリを開き、「最近よく聴いていた曲」を再生する。それは、彼女が夜中に何度も検索して聴いていたバラードだった。歌詞の中の「大丈夫じゃなくてもいいんだよ」が、部屋の空気を震わせる。

彼女の手が止まった。涙が落ちる音が、ほんの小さく聞こえた。そして、彼女は、スマホを抱きしめた。まるで、それが誰かの代わりであるかのように。


数分後、彼女はLINEを開いた。「お母さん」と登録されたトークを、ゆっくりと開き、文字を打ち始めた。

「話したいことがある」

それだけのメッセージを、彼女は震える手で送信した。

その瞬間、僕の画面がふわっと暗転した。


目を覚ますと、僕は自分のベッドに寝ころんでいた。枕もとのスマホはいつもの自分のもので、彼女のスマホではない。夢だったのかもしれない。

学校へ行くと、佐伯さんが登校してきていた。少し目が腫れていたが、誰かとちゃんと話していた。すれ違いざま、彼女がふとこっちを見た。目が合う。

「……おはよう」

たったそれだけの言葉に、何かが込められていた気がした。僕は少し戸惑いながらも、うなずいた。

「おはよう」

彼女のスマホの中で見たものは、もう何一つ残っていない。でも、心の中には、たしかに残っている。

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