LoLs

中庸

LoLs

あいが欲しい。

 それは、ただ寂しいからとか、人恋しいとかそういうレベルの話ではなく、今この世界でとても生きづらいことになるからだ。

「またあなたですか。本当に治療する気はあるのですか」

 このように、病院に行けば医者から罵られることになるのだ。

「愛染伊織さん、でしたっけ? こんなに『愛』に溢れたような名前してながら、どうしていつまで経ってもLoLsから抜け出せないんですかねえ。いくら国から補助金が出ているとはいえ、ここまでずっと通い詰めじゃ、お金のやりくりも大変でしょうに」

 この医者の言うことを理解するには、二十一世紀の終わり、二十二世紀の始まりに起こった、後に世界の転換期とも言われるある出来事を説明する必要がある。

 今から数十年前の二一〇〇年の大晦日、ローマ法王が、翌年の一月の初めに国際連合特別会議を開いてほしい旨を、国連加盟国の首脳に直筆の手紙で申請した。その時代には世界のキリスト教人口は五十三・四%を占めており、日本でも二十一世紀後半には人口の実に三十二・二%と言う驚異的な数字を叩き出した。これにより、各国の首脳はこの申請を無視することはできず、二一〇一年の一月十日、特別会議を招集した。本来ならば申請から会議までがこれほど短時間になることなどあり得ないのだが、各国の首脳は予定されていた全ての予定をキャンセルし、この会議に臨んだ。しかし、内容に関しては手紙では明記されておらず、その場での発表を待つばかりであった。

 会議の冒頭では法王の新年の挨拶から始まり、常任理事国、非常任理事国の挨拶が終わると、法王が演説を開始した。

「ついに二十二世紀を迎えることとなったが、未だに新興国経済は状況が芳しくなく、飢餓問題、環境問題、内紛など、想像するのも憚られるような出来事が起こり続けている。私は神に仕える者として、この状況を改善し、神の愛によって世界を救わなくてはならないと考え続けていた。そして、この世界に決定的に足りないものの存在に、ようやく気づくことができた。それは『愛』だ。新約聖書の有名な一節、隣人愛に真理が説かれているのだ。ここに私はブータンの友人に倣い、新しい基準を設けようと思う。世界中の国々が最も重きを置くべき基準として、国民総愛情量、Gross National Affection(GNA)を提唱する」

各国はこの提唱に驚きはしたものの、経済政策や環境問題対策の新しい制約が定められた訳でも無いため、特に反発するものはいなかった。その後は質疑応答に入り、いくつかの愛情基準が定められたものの、特に制約等が定められることもなく、キリスト教に対する国の信用を得る目的もあり、ローマ法王の案は国連会議を易々と通過した。

 愛情基準は主に既婚者率や虐待事件の件数等によって定められた。世界中の国々は、国民の支持を得るため、GNAの上昇に自主的に努めた。中でも日本はキリスト教ブームにあやかり、積極的にGNAの向上を推し進めた。

 その中でも一番の功績とされるのは、独自に愛情の基準を定め、それに満たないもの、または適合しないものを精神病患者として、国が補助金を出して治療を支援することに決めたのだ。

 愛情基準不適合者の病名は愛情欠乏症候群、LoLs(Lack of Love syndrome)と呼ばれ、恋愛や結婚にはもちろんのこと、進学や就職にも影響を及ぼした。僕は今回、大学での定期健診で初めてLoLsテストを受けたのだが、見事に引っかかり、こうしてほぼ毎週通院しているのだ。

「それくらい僕にも分かってますよ。大体この名前だって、先生から言われる前から同じことを言われ続けてますし、もっと言えば僕のイニシャルはA・Iで『愛』なんですから、とんだ皮肉だと、いつもからかわれ続けてますよ」

 事実、今回のテストで僕にLoLsが発覚してからというもの、風当たりは強くなる一方だ。このままでは、本当にクビになるかもしれないと、肝を冷やしているところだ。まあ、新しく法律でLoLs患者を治療に専念させるために、衣食住や仕事の保障はされているから、特に問題はないのかもしれないけれど。

「それもそうでしょうね。それにしても、あなたほど面倒な患者には中々お目に掛かれないよ。最初のテストで既に?度まで進行しているし、投薬治療も効かない。一体どうすればあなたは人を愛せるようになるんですか」

「それをなんとかするのが、心理療法士の先生の仕事じゃないのですか」

 医者は僕を一瞥すると、不快そうにカルテを見つめ始めた。

 ちなみにこのLoLsには段階が設けられていて、?度から?度までがあり、僕は最も酷い位置にランクインしている。医者の話によると、?度の患者は世界でも十人以上は確認されておらず、その患者に対しての治療法も確立していないとのことだった。

 また、投薬治療とは、LoLsに対する唯一の化学的治療法のことで、簡単に言えば、抗LoLs剤を服用することである。とは言っても、実態は殆どプラシーボ効果を狙った、一種の思い込み用の道具でしかなく、そこまで治療に対する効果は期待されていない。僕みたいなやつには特にすることもないから、とりあえずやれることはやっておけ、という意識なのだろう。

「とりあえずお薬はだしておきますから、また明後日辺り来てください。経過観察しておきたいので。ああ、あと、もし女性に対して欲情したり、触れてみたいというような気持になったのであれば、すぐに来てください。それを追及することが治療の糸口になるかもしれないので」

 なんとなく「欲情」という言葉が気に食わなかった、もっと直接的に言えば嫌悪感を持った僕は、隠そうともせずこう言った。

「男や野良の動物に欲情した時は来なくてもいいですか」

 これには流石の医者も面食らったようだが、

「その時にも来てよ。それはそれで面白そうだし、なによりもあなたに変化があったことが大事なんだから」

と言い放った。

 これまたなんとなく腹立たしく、なんとなく悔しかったため、返事もせずにその場を後にした。



 病院を出ると、外は憎いぐらいに晴れ晴れとしていた。天候で気持ちを喩える人は沢山いるが、彼らの気持ちは僕にはきっと分からないだろう。僕は雨と曇りの日は出かけたくてたまらなくなるし、晴れの日は屋内にいる事しか考えられなくなる。理由は一切わからないし、どっちでも良いのであまり気にしていない。

 そういうわけで僕の暗い気持ちと、程度で言えば同じくらい快晴の空のもと、さっさと家に帰ろうと思っていると、突然背後から声を掛けられた。

「おい、ゴドじゃないか。性懲りもなくまた来たのかよ」

「サンドさん、お久しぶりです」

 振り返ると、病院の待合室で知り合った、四〇代後半に見えるよれよれのパジャマを着たサンドさんがいた。もちろん、本名ではない。お互いにLoLsの治療に同じ病院に通っていて、診察室から出てきたところで話しかけられたのがきっかけで、名前よりも症状の報告を先にしたため、そのままレベルで呼び合うようになった。未だに彼の本名は知らないし、僕も本名を明かしていない。

「飽きもせずに、毎週ご苦労なこった。どうせ何言われるか分かったうえで来てるんだろ? とんでもない物好きだな」

「それを言うなら、サンドさんも毎週来てるから僕に会うんでしょ。僕ほどじゃないとはいえ、とんでもない物好きですよ」

 それを聞いてサンドさんは快活そうに笑い飛ばす。同じ病気だとは思えないほどのこの大笑いは、何だか暖かく、僕はひそかに彼と会うのを楽しみにしていた。

「それで、今日はどうだった。あのヤブ医者になんて能書きを聞かされたんだ? お前は毎回とんでもないことを言われるから楽しみで仕方ないんだよ」

「いつも通りですよ。またですか、から始まり、お薬出しておきますね、までの一セットです。あれなら機械でもできますよ」

「それは俺も同じだな。いつも同じことを同じ表情で言い、同じ診断書を書いて同じ薬を出してる。もしかしたらサイボーグなんじゃないのか、あいつ」

「あ、いえ、多分サイボーグではないですよ。だって彼、今日別れ際に『男でも野良の動物でも、何でもいいから欲情したら教えてくれ』って言い放ちましたから。性癖をこよなく愛する性癖の持ち主かもしれません」

 ここでサンドさんの大笑い。良かった、ウケた。

「なるほど、それならあいつがLoLs専門の医者になった説明がつくな。LoLsには大抵おかしな性癖を持つ老若男女が腐るほどいるからな。あいつの欲求を満たすに最高の職場というわけだ」

 こんな風に、毎度毎度医者の文句を言い合っては笑いあっている。この瞬間は自分が社会不適合者だと否定されていない気がして、とても好きだ。確か笑いが難病の治療に役立つ、という記事を見たことがある気がするが、それはおそらく事実だ。心から笑っている間は嫌なことを忘れられるし、なにより楽しい状態が持続する。国は僕みたいな人間を病人扱いすることに精を出さず、「笑学部」でも設立して、真剣に研究に取り組むべきだ。

「さて、お前これからどうするんだ。まさか今から仕事ってわけでもないだろうよ」

「そうですね。今日はお休みを頂いているので、買い物して帰る程度ですかね」

「じゃあよ、今からどっか飯でも行かねえか。ちょうど昼時だしな。近くにうまいラーメン屋があんだよ。どうだ」

 サンドさんから食事の誘いを受けるのは初めてだったが、いつか自分から誘おうと思っていたので、二つ返事でお誘いを受けた。



 サンドさんが連れてきてくれたラーメン屋は、かなり昔の風情を残した、老舗、といった感じのある店だった。調理場の真正面にカウンター席があり、四人座れるテーブル席が二つほどある。カウンター席には十人程度しか座れない。店内はそれだけで、あとは大人一人がやっと通れるか通れないか程度の通路が開けてあるだけだ。壁にはビールの宣伝広告が所狭しと敷き詰められえている。水着姿の女性が笑顔でこちらを見ている広告なのだが、やはり僕は特に何も感じない。強いて言えば、季節を問わず水着を着なくてはならない彼女たちの職業は、ある意味過酷な肉体労働だよな、とは思った。

 時間が時間だっただけに店内は沢山の人がいたが、奇跡的にテーブル席が一つ空いていたので、そこに座ることにした。水はセルフサービスだったので、サンドさんに先に座ってもらって僕は座る前に水を二つ取って席に着いた。

「この店は今時には珍しく、福岡発の豚骨ラーメン、ってやつを、何の化学調味料も入れずに出してくれるんだよ」

「え、それっていいんですか?確か豚骨ラーメン、って少し前にあまりにも脂だらけで健康に良くないから、脂肪の吸収を抑える薬品を調理に使わない限りは売っちゃいけないんじゃなかったですっけ」

 僕もあまり詳しくは無いのだが、この前何となく付けたテレビ番組の題材だった気がする。最近人気の女性アイドルが、「昔はこんなものを美味しいって言って食べてたんですよね?信じられない、私なら吐き出しますよ」と騒いでいた気がする。

「まあ、そうだな。一応、条例では罰則が設けられているな。しかも、東京都の条例だ」

「え、あれって法律じゃ無かったんですか」

「当り前だろうが。『体に悪いもの禁止法』でも作られたと思ったのか。大体な、テレビで流れてる情報の断片だけを信じ込んで、堂々と人に発表するなんて、恥ずかしくないのか。これだから最近の若者は…」

「え、あの、何か、ごめんなさい」

「まあ勿論冗談なんだけどな」

 あ、そうなんだ。良かった。

「若者に限ったことじゃねえよ。老若男女、皆が皆情報に踊らされてるんだよな、今は。もっと情報を恐れなくちゃいけねえんだよ。慎重に考えて、常に疑うくらいの気概が無いと。情報は人を殺すからな」

 唐突に物騒な言葉が出てきたことに僕は驚いてしまう。と言うか、全然冗談じゃなかったじゃないか。本気で意見してるじゃないか。

「まあいいさ。折角ラーメン屋に来たのにラーメン注文しないんじゃ話になんねえからな。ちなみに俺のお勧めは煮玉子ラーメンだ。お前はどうする」

「じゃあ、僕も煮玉子ラーメンにします」

「そうか。良いぞ、賢い選択だ。初めて来たときには、初めてじゃない人に聞くのが一番良いからな」

 当り前のことをすごく大事そうに言うのが、癖なのかな。

「じゃ、ちょっとトイレ行ってくるから代わりに注文しといてくれ。あ、麺の固さはバリカタで頼むわ」

「あ、はい、分かりました」

 てっきり常連のサンドさんが親しげに店主に注文するものだと思っていたので、少し戸惑った。実際注文するだけなんだから、別に誰がしても良いんだけどね。

「あ、それと、さっきの訂正な」

「麺の固さですか?」

「いや、そっちじゃなくてさ」

と無駄に間をあけて

「お花摘みに行ってきますわ」

 ごゆっくりどうぞ。


 サンドさんが席を立ったので、店員さんを呼んで注文することにした。

「ご注文をどうぞ」

「煮玉子ラーメン、バリカタ二つお願いします」

と言っただけなのに、店員は少し不思議な表情を浮かべる。

「お二つ、ですか」

「お二つ、ですね」

「…かしこまりました。煮玉子ラーメン、バリカタで、お二つ、ですね。少々お待ちください」

 店員は僕たちの座ったテーブルを一瞥すると、首を傾げながら厨房に戻っていった。何かおかしかったのだろうか、不安になってきた。もしかしてこの店では常連とそうでない人を見分ける何らかの注文方法があるのではないか。やはり、サンドさんに注文してもらった方が良かったんじゃないか。

「よう、注文できたか。って、こんな聞き方じゃあまるで子供に初めてのことを体験させる父親みたいだよな」

「注文はもう終えましたよ。でも、店員さんが凄く訝しげに注文取ったんですよ。もしかして、この店にしかない注文方法とかあるんですか」

「そんなもんねえよ。単純に注文したのがお前ひとりの時だったから、不思議だったんじゃねえのか?こんだけ忙しかったら一々店内を見て回ることもできねえだろ」

「そうなんですかね」

「そうなんだよ。とにかく、一々細かいことを気にし過ぎるな。そんなんじゃ、どんだけ旨い飯でもまずくなるんだからよ」

そういわれたのであまり気にしないことにした。しばらくすると、店員が二つのラーメンを持ってきた。気にしないようにするため、意識的に運ばれてきたラーメンを凝視してみた。なるほど、確かに美味しそうなラーメンだ。この状態なら店員が僕を訝しげに見てきても気にならない。というか、むしろ納得できるから問題ない。

「な?旨そうだろ?このラーメンを食べに全国から客が来るくらいだからな。味は日本のお墨付き、ってやつだ」

 確かに、サンドさんがここまで褒め称えるのも分かる見た目だ。スープは丁度良く脂の浮いた、正に豚骨スープといった感じ。焼豚も分厚い。そして、肝心の煮玉子だが、白身部分は見事な褐色、黄身の部分は見事な黄金色をしており、食べる前からこの煮玉子からくる『俺はかなり旨いぜ』、という自己主張を感じる。

「冷める前にさっさと食おうぜ。いただきます」

「そうですね。いただきます」

 出されたラーメンも内装と同じく昔ながらといった感じでとても美味しかった。

「な、旨いだろ?来て良かっただろ?」

「はい、本当に美味しいですね。これはいくら不健康だって言われても食べたくなりますよ」

 そうこうしているうちにすっかり食べ終わってしまった。昼時のピークを過ぎたのか、客は減ってきていて、店内は大分余裕が出てきた。

「さて、飯も食ったことだし、今日はお前と少し話がしたかったんだ。付き合ってくれるか」

と、今まで見たことの無い真剣な顔つきでサンドさんが話し始めてきた。そうか、今日はそういう日なのか、と僕も姿勢を正す。

「まどろっこしいのは嫌いだからな、単刀直入に聞くぞ。お前、今のこの状況をどう思う」

「こうして僕がサンドさんとラーメンを啜ってる状況のことですか」

「違えよ。GNAやらLoLsやらが蔓延ってるこの状況だよ」

 蔓延ってる、という表現から、あまり望ましくない状況だと言いたいのだな、と分かる。

「でも、実際に効果は出ているんですよね。以前に比べて犯罪数もかなり減少したみたいですし、少子化も止まり始めてる、という話も聞きます。まあこうしてLoLsの診断受けた僕が言うのもおかしい気がしますが、これはこれで良いんじゃないんですかね」

と言ううちに、サンドさんの表情が曇り続けていることに気が付いた。何かまずいことを言ったのかもしれない。

「データとか効果とかは抜きにしてさ、お前は何も問題ないと思うのか?ローマ教皇が打ち出した政策は素晴らしくて、世の人々を余すことなく、完璧に幸せに導いたと?」

「そういわれると、そうでは無い気もしてきますが」

「どっちなんだよ」

 サンドさんは苛立っているようにも、楽しんでいるようにも、呆れているようにも見えた。

「あ、でもあれですね。何となくですけど、愛、に関してあまりにも執着しすぎてるような気はしますね。何というか、愛さえあれば他には何もいらない、命が無くとも構いません、みたいな」

「ほお、どういうことだよ。詳しく」

「いや、何となくですよ。ですけど、なんか気持ち悪いですよね。生きていて、満たされているからこそ愛やらなんやらの本来は気にしなくても良いようなことに目を向けることができるわけで、まずはそこを疎かにしちゃったら意味がないような気がしますね」

 サンドさんは少し片眉をあげた。

「面白い考えだな。参考になったよ。聞きたかったのはそれだけだ、ありがとな。ちょっと電話掛けてくるから、これで払っといてくれ。今日は俺のおごりだ」

 そう言ってお金を渡し、サンドさんは出ていった。レジに行くと、店員は未だに不思議なものを見たような表情を浮かべている。気にせずサンドさんから受け取ったお金を店員に渡した。少しの間の後、店員の表情が明らかに曇った。

「お客様、申し訳ありませんが、代金が足りません」



 食事の後はサンドさんが「また病院で会おうぜ」という不謹慎な待ち合わせをしてきた程度で、特に何も無かった。

 次の日は仕事に行った。勤め先は海外に拠点を置いている保険会社で、一昨年前には「未来は、何が起こるか分からない」という宣伝文句を当時大人気だった女優に言わせたコマーシャルで話題になった。

 他社と一線を画するのはそのユニークな商品の数々で、僕もその多様性に興味を持ち、自分も新しいものを作ってみたい、という一心で入社試験を受け、見事合格した。もちろん希望したのは企画部で、見事希望通りの部署に所属することになった。個性的な保険の例を挙げると、受験に失敗した後の予備校選びに対するアドバイスや、一か月間慰める役のスタッフを付けたり、一緒に残念会を開いてくれたりする「また頑張ろうぜ保険」や、交際を申し込んだ際に断られたり、突然交際相手から別れを告げられた時に、ずっと愚痴を聞いてくれる者を派遣したり、手当てを与えたりする「失恋保険」、終いには仕事で失敗したり、何もないところでつまずいたりした時に少額の手当てと励ましの言葉を与えてくれる「明日があるさ保険」などがある。

 とにかくどんなに些細な「哀しいこと」や「残念なこと」に対してもフォローをする会社だ。たまに僕の出した企画が商品化するとやりがいを感じるし、かなりの売り上げを記録した時はとても嬉しい。何より、深刻なLoLs患者である僕を雇ってくれた時点で、すごく優良な企業だ。

 そんな僕の会社に少し変化が起きたのは今朝の朝礼の時間に起きた。

「みんな、良い知らせだ。伊織が頻繁に休むせいでうちの部署が大変なことを人事に訴え続けた結果、新しく仲間が増えることとなった。井上朱里さんだ」

 僕ほからかうことで少し笑いを取った熱血漢で有名な僕の上司、真田将幸さんは、わざわざ「仲間」という言葉を選んで小柄な女性を紹介した。

「ただいまご紹介にあずかりました、井上朱里です。以前は広告会社に勤めていたので、その経験を生かして皆さんのお役に立てれば、と思います。よろしくお願いします」

 盛大な歓迎の拍手の中、僕は一目見てかわいらしい女性だな、とは思った。他の社員も同じことを考えているようで、井上さんをじろじろと見ている。僕はあくまで一般的にかわいらしいな、と感じただけだったので、拍手を終えるとすぐに自分の席に戻った。職場は男性対女性が四対六くらいの比率だが、男性にとっては見慣れていない女性の登場が喜ばしいらしく、わらわらと井上さんのもとに集まって質問攻めにしていた。

「ちなみに今日の夜は早速彼女の歓迎会を開こうと思う。そのため、今日は終業時間を早めてやる。だから今は彼女への質問を堪え、仕事に専念してくれ、いいな」

 真田さんの言葉に部署内は歓喜の嵐だ。小学生のように各所で良い返事が飛び交っている。

「井上は伊織の隣の机が開いてるから、そこを使ってくれ。必要なものは揃えてあるから、何かわからないことがあれば伊織に聞いてくれ。頼んだぞ、伊織」

 社内でも僕を名前で呼ぶのは熱血系の真田さんただ一人だが、僕はその呼び名に慣れないながらも「はい」と返事をし、仕事を始める。

「よろしくお願いしますね、伊織さん」

「ええ、よろしくお願いします。何か分からないことがあれば、すぐに知らせてください。僕が作業中でも大丈夫なので、気兼ねなく来てくださいね」

「ありがとうございます。そう言っていただけると心強いです」

 にこやかな笑顔は彼女の茶色のボブとかいう髪型ににとてもよく似合っていて、こちらまで笑顔になった。周りの男性社員からの羨望と嫉妬のまなざしが痛みを感じる錯覚すら覚えるほど刺さっているが、気にしないことにした。また、彼女はとても仕事ができる人んの様で、何の問題も無く仕事は進み、あっという間に男性社員が街に待ったであろう歓迎会の時間となった。



 歓迎会は近くの有名な居酒屋チェーンで開かれた。焼き鳥がおいしいことで有名なお店で、近く、海外にも出店する計画があるらしい。

「このように彼女と出会えたことは偶然では無いように思う。なぜなら私の人事部への懇願が通ったのとほぼ同じタイミングで、井上朱里という優秀な方を我が部署に迎えることができたのだからな。もう余計な言葉は必要ないはずだ。彼女を迎えたこの運命と、また、共に仕事ができる喜びに、乾杯!」

 とんでもなく恥ずかしい真田さんの音頭に照れながら、周りの皆に合わせて乾杯!と控えめに言った。正直酒は得意ではない。のんびりとこの会を楽しみ、明日の仕事に備えようと思った。

「愛染伊織君、だよね?」

 突然声を掛けられた方に顔を向けると、そこには井上朱里の顔があった。

「え、ああ、そうだよ。今朝隣の机に座っていた、愛染です。改めて、よろしく」

「あ、いや、そうじゃなくてさ、私のこと、覚えてない?」

 そこまで言われて、以前僕は井上さんと交流したのだろうと思った。しかし、人の顔を覚えるのは苦手だったし、またそんなに社交的な人間でもないので、ちゃんとした交流があるのなら覚えているはずだった。

「ごめん、全く覚えていない。どこで会ったんだっけ」

「いや、いいよ、謝らなくても。中学の時、一度同じクラスになったことがあるくらいだし、ほとんど喋ったこともないしね。気にしないで」

 少し寂しそうな表情を浮かべたので、少しばかり申し訳ない気持ちになった。だが、交友関係が広くない僕ならば仕方ないだろうし、また井上さんも、地味な僕をよく覚えていたな、と思った。

「にしてもよく僕のことを覚えていたね。結構地味な方だった自信があるのだけれど」

「それはさ、愛染君よく花の水やりとか、ゴミ拾いとか、誰から言われるでもなくやってたでしょ。あれがなんかよくてさ、良い人なんだろうな、話してみたいな、とか思ってたんだ。まあ結局話しかける勇気も無かったんだけどね。ところがこんな形で再会できたわけだし、折角だから仲良くしたいんだ。だから、中学の時の同級生としても、改めてよろしくね」

「ああ、うん、こちらこそ、よろしく、お願いします」

 突然話しかけられて褒め殺しに繋がり、最終的に仲良くしたいとまでいわれてしまい、ついついおかしな返事をしてしまった。そうか、ああいうのは全部見られてたのか、なんか恥ずかしいな。

 そうこうしているうちに井上さんは他の女子社員に連れ去られた。その先では今まで付き合った数は、とか、初恋はいつだ、とかありきたりな会話が繰り広げられていた。僕はそれが苦手だったので、少しだけその席から離れた。

 その後は他の男性社員と共に日頃のうっぷんを晴らすかのように愚痴を言い、または将来についての話や次のアイデアの話もしたが、最終的には最も魅力的だと感じる女性についての話と、女性社員の評価合戦にもつれ込むという、いつものパターンになった。わざわざ言うべきことは特に生まれなかったが、強いて言えば井上さんが我が部署の魅力的な女性ランキングの上位に食い込んだことくらいで、理由は初々しいから、だった。新入社員が来るたびに変動するこのランキングは全く信用ならない。

 ちなみにいつものパターンとは、この後ランキングのことが女性社員に知れ渡って男性社員全員で謝罪するまでがセットだ。



「で、その後どうです。何か心境的な変化はありましたか?」

 歓迎会の翌日、いつも通りの不愛想さを隠そうともしない医者は、カルテを眺めながら面倒そうに聞いてきた。

「それはつまり、野犬や野良ネコに欲情したか、という意味ですか」

「ええ、まあ変化があったのならそれでもいいのですよ。?度の方の中には無機物愛好家や、廃棄物愛好家なんてのもいるくらいですから、むしろ大歓迎です」

 いつも通り冗談のような内容を真顔で話す医者の態度にも最近は大分慣れてきたが、やはり癇に障ることをさらっと言い放つのには未だ慣れない。と言うか、多分ずっと慣れることはないだろう。

「言うまでもないかもしれませんが、何もありませんよ。いつも通り出勤し、仕事をして、家に帰って寝ていますから」

「そうですか、残念です」 

 ならばもう少し残念そうな表情をしてもらいたいものだ。

「ああ、心境的な変化はなくても、職場に変化はありましたよ。新人が入ったのですが、それが僕の中学生時代の同級生の女性で、こんな偶然もあるのだな、って感じでしたね」

「ほお、同級生ですか。それで、どう思いました?」

「え、どう、とはどうですか」 

「つまり、彼女の印象ですよ。何か思いませんでしたか」

「かわいらしい女性だな、とは思いましとよ。あと、笑顔が似合うな、とかですかね」

 医者はしばらく考え込み、今までとは違い、少し興味深そうに私を見つめてきた。

「それが、どうかしましたか」

「いえ、あなたの口からかわいらしい、なんて言葉が出てきたのが意外で、しばらく言葉も出ませんでした」

 余計なお世話だ。

「いずれにせよ、そのような感情を抱いたのは良い傾向でしょう。その女性が、もしかしたらあなたの求めていた相手なのかもしれませんね。少し様子を見ましょう。また何かあれば来てください。今までのように、一日置きに来なくても大丈夫ですよ。あと、お薬の服用も止めていただいて結構ですよ」

 まさか僕が医者側から来なくてもいい、と言われるとは思っていなかったので、少し驚いた。同時に、このことは嬉しいことなのだろうが、今までこの病院で一番の常連だという謎の自負もあったので、少し寂しくもあった。

「分かりました。また、何かあれば来ます。ありがとうございました」

 病室を出る際に改めて医者の方を向き、頭を下げたが、一瞬だけ見た医者の表情が、どこか怖かった。何か意味ありげな微笑をたたえていた医者は僕に見られていることにも気づかず、「お大事に」と言っただけであった。

 今日の病院にはサンドさんの姿は見当たらなかった。そもそもが僕が来ている頻度が高すぎるからサンドさんと会うこともあるというだけで、少し残念だったが、そのまま病院を後にした。

 それからは病院に通う必要がなくなったからか、今までよりも順調な日々が過ごせた。職場に行って、となりの井上朱里と会話をし、休み時間には一緒に社員食堂に行き、そこに他の社員も加わって大団円で昼食をとる。午後は会議や取材をして、終業時間になればさっさと家に帰り、明日に備えて寝る。そんな普通の日々を毎日遅れていることに感動しながら、いつも通りの生活を続けた。

 だが、事件と言うのは突然やってくるもので、何の前触れもなく、唐突に平和は終わりを告げた。



 ある日、いつも通りに出勤すると、いつも僕より早く来ている井上朱里がいなかった。そんなこともあるだろうな、と言うことで特に何も考えず、仕事の準備を進めた。だが、始業時間になっても来ず、昼休みも姿をあらわさなかったので、流石に心配になった。

「真田さん、井上さんから何か連絡はありませんか」

 他の社員も気になっていたようで、昼食に向かっていた社員たちも真田さんのもとに集まってきた。

「それが、何の連絡も受けていない。始業時間が過ぎたあたりで電話を掛けてみたんだが、出なかった。何かの事件に巻き込まれていなければ良いのだが」

 彼女の性格から考えても、無断欠勤するような人間ではないことは社員みんなが心得ていることであり、周りも少しざわついてきた。

「まあ、一日ぐらい何か急用ができて、連絡も取れないようなこともあるだろう。そこまで気にすることはない。また明日になれば元気な顔で出勤してくるさ。さあ、今は昼休みだ。しっかり休んで、また午後からの仕事に精を出してくれよ」

 真田さんは少し無理して作った笑顔でみんなにそう語りかけると、やはり不安そうな顔で座りなおした。僕も不安ではあったが、ひとまず昼食を食べ、午後の仕事を済まし、帰宅した。

自宅は会社から車で二十分ほどの場所にあるアパートだ。一回と二階に分かれ、全部で六部屋ある。チラシなどは入り口に設置されているポストに入っているが、たまに見る程度だった。しかし、今日は少し不安なことがあったからか、何となく確認してみた。見るとそこには一枚の真っ白な封筒が置いてあった。差出人は書いていない。ひとまず部屋に戻り、封を開けてみる。中には一枚の写真があるだけだった。手紙のようなものは入っていない。写真には近くの海沿いにある倉庫群が写しだされていた。特にこれと言った特徴も無い、普通の倉庫、といった写真だ。いたずらの可能性もあったが、思い当たる節もあった。だが、その日は結論を出すのは尚早に思え、深く考えることはしなかった。





 その後も四日続けて彼女は出勤しなかった。彼女が来なくなって五日目、不安を紛らわせる意味もあって、病院に行くことにした。家を出る前に井上朱里が出社していないか確認の電話を入れたが、やはり来ていないとのことだった。

「わざわざ来られた、と言うことは何かありましたね。どうされました?」

 診察室に入ると、いつものように仏頂面をした医者がこちらを見ることも無くつぶやいた。

「今まで真面目に職場に来ていた同僚が急に来なくなりまして、不安なんですよ。それで、先生に聞けば、何か分かるかもしれないと思い、伺いました」

「つまり、あなた個人のご相談ではないのですね」

「ええ、そうなります」

「ですが、なぜ私なのですか。そういうことは警察に相談された方が良いのでは」

もちろんそれは考えた。しかし、何もなかった場合、色々と都合の悪いことが起きるだろうし、何より事を大きくしたくはなかった。他の社員の不安をあおることになるかもしれない、とも思った。

「警察に出すべきことかまだわかりませんし、それよりは人の心が分かる先生に聞いた方が良いかと思いまして。それで質問なんですが、傾向として、真面目な女性は突然消息を絶ったりすることはあるんですか」

 医者はしばらく考えたのち、ゆっくりと口を開いた。

「可能性が無いとは言い切れませんが、ほぼあり得ないでしょうね。特に会社に不満があるというわけでもないのであれば、尚更です。彼女はどういった人でしたか」

「とても真面目で、きちんと仕事をするタイプの人間でした。休む前には必ず連絡を入れるはずです。周りともうまくやっていた様子でしたし、不満も無かったと思います」

「それなら、物騒なことに巻き込まれた可能性の方が高いでしょうね」

「物騒なこと、ですか」

「簡単に言えば、誘拐、拉致、殺人などのことです」

 その言葉を聞いた瞬間、僕は思わず床に倒れ込みそうになってしまった。専門家がそう言っているのだ、恐らく本当に大変な事になっているんだろう。

「勿論、あくまで可能性の話です。もしかしたら突然思い立って一人旅に出掛けたのかもしれませんし、もしくは失恋した、なんてこともあり得ますね」

「失恋、ですか」

「ええ、そうです。思ったよりも人は他人から断られることに弱いみたいで、特に珍しい事でもありませんよ」

 しかし、職場では基本的に僕と行動していた筈だし、周りの同僚とそういう話になった場合も、かわいらしいと言うだけで、男女の仲になりたい、と言う声は聞かなかった。

「私としては彼女のことより、あなたがそこまで心配することの方が驚きですがね。今までとは随分違うようだ。彼女はやはり、特別でしたか」

 こちらがかなり焦っていることは十分伝わっているとは思うが、それを気にもしないような態度に、少し腹が立った。だが、ここで声を荒らげれば騒ぎになるかもしれないため、我慢した。

「同僚の事を心配するのは、人として当然のことです。貴重なお話をありがとうございました。またお伺いします」

「ああ、その前に、最後に一つだけお伝えしたいのですが」

「何ですか」

「後悔先に立たず、ですよ」

「はあ」

「お大事に」

 そう言って医者はまた机に設置してあるタブレット型端末に目を向けた。僕は突然のことに少し動揺したが、特に気にも留めずに病室を後にした。



「よお、最近見なかったが、特に変わった様子も無いな。もしかして、ついにお前にも愛情とやらが芽生えだしたか」

 待合室の椅子に腰掛けていると、サンドさんから声を掛けられた。確かに、ここ一週間ぱったりと来なくなっていたので、今までを思うと、久し振りの再会だった。

「お久しぶりです。よく分かりませんが、勤め先に新入社員が来てからというもの、調子が良くてですね。とりあえず様子を見ることになったんですよ」

「そうか、そいつは良かったな。にしては浮かない顔をしてるが、何かあったのか」

 サンドさんは勘が鋭いようで、以前も何度かこのように気持ちを見抜かれたことがあった。

「ここではなんですから、外に行って話しましょう。少し待ってて下さい。そろそろ呼ばれると思うので」

 そう言ってサンドさんには先に中庭に出てもらうことにした。名前を呼ばれ、会計を済ませた後、サンドさんのもとに行ってここ最近のことを話した。具体的には、井上朱里が会社に来てから、突然来なくなり、ここに相談しに来ていることを話した。

「なるほど、確かに大変な事になってるみたいだな。それで、お前はどう思う」

「彼女の性格上、無断欠勤はあり得ないと思うんです。しかも、もう五日目ですし。何かの事件に巻き込まれたと考える方が自然な気がするんですよ。勿論、失恋の慰安旅行とかの方が良いんですが、そういう話を聞いたことも無かったですし、考えにくいんですよね」

 へーそうか、とサンドさんは言った後、少し考えこんでいた。

「サンドさんはどう思われますか」

「どうもこうも、見た事も無い奴のことを何とも言えねえよ。俺はあいつと違って心の専門家でも無いしな」

「そうですよね。変なこと聞いて、すみません」

 サンドさんなら答えになるようなことを言ってくれるかもしれない、と期待したが、確かに知らない人が今どうしているか、など予測できるはずもない。

「ただ、一つだけ言えるのは、後悔しないようにしろ、だな」

「え」

 思わず耳を疑った。どうしてサンドさんも医者と同じことを言うのだろうか。つまり、確実に後悔するようなことが起きる、とでも言いたいのだろうか。

「もしその女にに何かあったとしたら、どうせお前は自分を責めるだろうからな。そうならないように、出来ることは全部やっとけ。多分、そんなに間違ったことは起きねえよ」

 サンドさんは僕を励ましてくれているのだ、と感じた。もしかしたら、あの医者も井上朱里を心配する僕を心配していたのかもしれない。今までの長い付き合いがあることだし、不器用な彼なりの表現だったのだろう。そう思うと、やらなくてはならないことがはっきりしてきた。

「ありがとうございます。その言葉で、やるべき事が見えてきました。またいつか、飯でも行きましょう」

「おう、楽しみにしてるぜ。丁度最近いい定食屋見つけたんだよ」

 軽く頭を下げ、僕はひとまず家に向かった。もしかしたら取り越し苦労かもしれない。杞憂に終わるかもしれない。それでも、杞憂に終わらないことの方が嫌だ。

空はどんよりと曇っている。運動会も遠足も曇り空の中執り行われた僕の人生にとっては、むしろいい兆候なのかもしれない。



海沿いのある倉庫の中には、様々な物資と共に、一人の女性が椅子に座らされ、両手と両足を椅子に縛り付けられていた。下を向いてうなだれていて、一見生きているかどうかすら把握できない。椅子の周りは不自然に空いていて、天窓から差し込む月明かりが彼女を照らし出している。ひょっとするとそこはある一種の舞台の上では無いのか、という錯覚にすら襲われる。倉庫の近くにはクレーンやコンテナが配置されており、夜更け近くのこの時間帯には、人の気配はまず無い。近くには繁華街があるため、そこは墓地の様な静けさと薄気味悪さを備えていた。

倉庫の重い扉が、錆びた金属の擦れる音を響かせながら、徐々に開いていく。女性はその音に反応し、首を上げる。久しぶりに目を開けたからか、ぼんやりとした輪郭だけが浮かび上がる。目が慣れてくると、そこには中学時代に憧れていた同級生の姿があった。

「愛染君」

 その男は次第に女性に近づいて行く。辺りを警戒しているからか、ゆっくり、怯えるように歩いて来る。

愛染と呼ばれた男と、縛り付けられた女性の距離が約十メートルほどになった頃、不意に女から程近い小さな扉が開かれた。

「まさかこんなところで会うとは、驚きですね.ですが、予想通りともいえる。あの写真の意味も伝わっていたようで、安心しました」

男はこれでもか、と言うほどに目を瞠り、硬直した。



「先生、どうしてこんなところに」

 僕はきっと見間違えたのだろう、と思ったが、口はその考えに反し、率直な感想を出していた。

 そこにはいつも見慣れた顔があった。決して見間違えることの無い、以前はほぼ毎日目にした顔だった。

「私はあなたの掛かりつけの医者ですからね。これも治療の一環ですよ」

医者は井上朱里の側へ行き、彼女の頭の上に肘を置いた。

「でも、この前、と言うか午前中お会いした時は、普通に相談に乗ってくれたじゃないですか。それなのに、なんで」

 疑問は尽きなかったが、それよりも状況を整理するのに頭が追い付いていなかった。先生が井上朱里を拉致、監禁したのか?

「人間の心理に詳しい私が言ったのだから、あなたは信じたでしょう?そういうものなんですよ。人間はある点で自分よりも上である人間の言うことを無条件に信じるのです。テレビでもよく専門家の意見を取り上げるでしょう。洗脳するのは意外と簡単なんですよ」

「ど、どこからですか。どこから先生の計画通りなんですか」

 自分でも驚くほどに裏返った声が出てしまう。

「どこからも何も、あなたが新入社員が入ってきた、と言ってからですよ。あの後、興信所を使ってその女性について調べ上げ、帰宅途中の人気のないところで襲いかかり、車に乗せ、こうして連れてきた、と言うことです。会社に突然来なくなればあなたは心配し、大事にしたくないあなたの性格上、警察よりもまず私に聞きに来ると思いました。そこで彼女が誘拐されたことをほのめかすことで、こうしてここに来てくれると思ったのです。どうです、その通りでしょう」

 スタンガンをバチバチ鳴らしながら、医者は得意げに説明してきた。簡単な説明だったが、見事に当たっていた。ここまで見事だと、もはや言葉すら出なかった。

「さて、あなたがここに来た時点である程度目的は達成しました。?度のLoLsであるあなたが、一人の女性の為にここまで動いたのです。これは大きな進歩と言える。では、これが

どういった感情に基づくのか。今はこれが気になっています。なので」

 そこで医者は井上朱里から少し離れ、懐から医療用のメスを取り出した。

「あなたの感情がどこまで動くかを調べます。この実験に対するあなたの反応によって、あなたがこの女性に抱く感情がどのようなものか、分かるというものです。どうです、シンプルでしょう」

「と言うか医者は医者でもあなたは、心理療法士でしょう。その道具を使うことはないはずだ、どこから拾ってきた」

「そんなこと、今はどうでも良いでしょう」

 本当にどうでも良いことを突っ込んでしまった。頭が混乱しすぎて、普段は気にならないことまで気になり、指摘してしまう。いや、落ち着いて冷静になるんだ。何とかしなくては、恐らく彼は彼女を傷つけることに何のためらい無い。

「ちょっと待ってください。そんなこと言うならあなたの方がLoLs患者でしょう。人の痛みを理解しようともしない、愛情を感じ取れない人間の考え方だ、そうでしょう?」

 その言葉に医者が少し頬をひきつらせた。今までで初めて彼の表情に明確な変化が現れたように思う。

「いえ、私は研究が好きです。研究を進め、人の心を真に理解することが、私にとっての愛情です。決して、あなたとは違います」

「いや、違いませんよ。人の心を理解するために人を気づ付けても良いというのは、理屈としておかしい。生きているからこそ人は感情を持ち、物事に感動し、道徳や倫理を理解することができるのです。あなたの考えはあまりにも独りよがりだ。それでいて自覚がないのだから、僕よりも質が悪いのは明らかです」

「ですが、私の研究は、きっと将来多くの人を救います。それに比べれば、たった一人の犠牲など、あってないようなものです。良いですか、大義の為に、小さな犠牲など見てはいられません」

 ああ、なるほど、この人はそういう考え方で生きてきたんだな。これはどうしようもない。この年までそんな考え方だったのだ、もう変わらないし、変えられないし、恐らく変わることを望まないだろう。

「私はあなたのことをよく知らないけれど、何だかかわいそうですね」

 そう言ったのは、さっきまで生きているのかさえ不安な状態だった井上朱里だった。

「だって、そんな風にずっと考えて生きてきたんでしょう?それはとても辛かっただろうし、幸せなんて全く感じられなかったんじゃないかな」

 医者の表情がはっきり変わった。特に、『幸せ』と言う言葉を口にした瞬間、明らかに苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

「あなたに何が分かるのですか。あなたはただの実験用の道具ですよ。一々口を挟まないでください」

 僕はもう言葉も出なかった。それは井上朱里も同じだったようで、恐怖に怯えた目をしたまま、俯いてしまった。彼には人間として、大切なものが抜けている。倫理観とかじゃなく、単純に命の尊さとか、尊厳とか、そういうものが無い。研究者として彼がどのような成績を残したのかは知らないが、人としてここまで道徳が破綻している以上、彼女の言う通り、彼は人としての幸せなど分からないままだろう。

「もういいです。本来はどの部位を傷つければ彼の感情が動くかを見たかったのですが、あなたが死んでも実験自体にはさしたる支障はないでしょう。何より、不愉快だ。もう用済みですから、死んでください」

 そう言って医者はメスを振りかぶった。彼女はその言葉を聞いた瞬間、首を上に向け、メスを直視したまま硬直した。

 まずい、間に合わない。周りの景色がスローモーションのようにゆっくりと変化していった。医者は少し口角を上げ、メスを持った右手には力が込められているのが分かる。井上朱里の眼は恐怖の色で塗りつぶされている。

 そして、景色全体が揺らいだ。最初は僕の絶望によって生じた眩暈かと思ったが、倉庫内の物資も揺れている。医者は手を止め揺れに耐えようとし、井上朱里は何が起こったか分からない、と言った様子だった。

 地震だ。ギリギリのタイミングで地震が起こり、医者はメスを突き立てることよりも揺れに耐えることに集中したため、彼女を殺すことができなかった。僕はその隙をつき、医者を突き飛ばした。特に考えもせず、ただただ井上朱里との距離を取りたかったために突き飛ばした。その、考えもしなかったのがまずかったのかもしれない。もしくは、ただ運が悪かっただけなのかもしれない。医者が突き飛ばされた先には丁度高く積み上げられた木箱が置いてあり、地震でぐらついていた。医者がぶつかった衝撃で木箱は彼の上に倒れ掛かり、悲鳴お響かせる暇も与えないほど、一瞬にして彼を下敷きにした。あっけないな、そう思った。彼が死んだかどうかは分からないが、きっと彼は死後の方が多くの事に気づけるはずだ。死後の世界でくらい、彼がうまくやっていけることを願うばかりだ。



しばらく呆然としてしまった。そして冷静になって、彼は私が殺したのではないか、という気持ちが湧き上がってきた。

「気にするな、それがそいつの運命だったんだよ」

 聞きなれた声に振り向くと、そこにはまた見慣れた顔があった。

「サンドさん、なんでこんなとこにいるんですか」

 見るとそこには珍しく寂しそうな表情をしたサンドさんが経っていた。

「サンドさんって誰?そこに誰かいるの?」

 井上朱里は訝しげに僕を見てきた。その表情から、僕の中で引っかかっていた何かが解かれた気がした。

「ああ、うん。大事な人なんだ。きっと、僕にとっても、君にとっても」

 サンドさんは「ようやく気づいたか」とでも言いたげな笑顔を見せた。

「警察を呼んどいた。そろそろ来るだろう。落ち着いたら、また飯でも行こうぜ。今度はちゃんとおごってやるからよ」

 僕はただうなずいた。それだけで良いと思ったし、それ以上は不要だと思った。サンドさんはニヤッとして、振り返って去って行った。去り際に落としたメモには、近くにあるそこそこ人気のある定食屋の名前が示してあった。僕は少しほっとして、思わず全身の力が抜けそうになった。

「それにしても、よく来てくれたね。嬉しいよ、ありがとう」

 そう言われて、僕がここに来たのは彼女の救出が目的だったことを思い出した。そうか、彼女は無事だったんだ。それなら、良かったな。

「ねえ、大丈夫?愛染君」

その言葉を最後に、僕は倒れこんでしまった。遠くからはパトカーの音が聞こえてくる。その音が子守歌のように聞こえ、少しづつ、瞼を下していった。



 その後、二人そろって事情聴取を受けた。医者が彼女を拉致、監禁したこと、僕のかかりつけの医者だったこと、地震によって下敷きにになってしまったことなどを話した。聞いてみると、医者はどうやら死んでいるらしい。警察にその事情も説明したが、彼らは正当防衛だということで、特に罪には問われなかった。僕が重度のLoLs患者だということが発覚すると、あまりいい顔はされなかったが、井上朱里が強く訴えてくれたのだろう。結果、二人そろって次の日には解放された。

 解放された次の日には出勤した。上司と同僚からはよくやった、後輩からは凄いです、と言われ、悪い気はしなかった。真田さんもいつもよりもさらに高いテンションで「お前は社員の鑑だ、流石俺が見込んだ男なだけはあるな」と言い放った。認められたことがあるとは知らなかったが、少し嬉しかった。その後はいつも通りの仕事をした。だが、しばらくは井上朱里の仕事も少し負担していたので、とても忙しい日々を送っていた。

 落ち着いてきたころ、サンドさんが指定した定食屋にふらっと足を向けた。もちろん連絡をして待ち合わせをした訳でも無ければ、そういう約束をした覚えも無かった。だが、確実にその店にいることは分かっていた。いつ行っても、その時に彼がいることは分かりきっていた。

 店の前には映像で料理が映し出され、映像に触れば値段が出てくるものだった。店内ににカウンター席は無く、四人用の席と二人用の席がそれぞれ三つずつ置かれていた。そのうちの一つ。二人用の席の、入り口から一番遠いところにサンドさんは座っていた。そして、メニューを眺めながら、あれやこれやと悩んでいた。

「サンドさん、お久しぶりです」

「おお、来たか。まあ座れよ」

 いつも通りの口調ながら、僕は少し緊張していた。彼のことが分かったのだから仕方がない。彼は本当に会いたい人は会うことができるらしいが、人によってはそれを病気だとなづけてしまう、そんな微妙でよくわからない存在だった。

「ここはさ、から揚げ定食が絶品なんだよ。だが、この映像に出てくるサバの煮つけ定食も捨てがたいんだよ。なあ、俺はどうすべきなんだ」

「じゃあ僕がから揚げ定食頼みますから、サバの煮つけを注文したらどうですか」

「お前頭いいな。そうするわ」

 お互いのメニューが決まったところで注文した。店員は前のラーメン屋と同じく、少し怪訝な目をしていた。しかし前と違い、今はその理由も分かるため、特に気にすることは無かった。

「さて、本題に入りましょうか。僕がなぜ今日来たか、もうご存知でしょう」

「ああ、そうだな。だから、お前と俺は今日ここに来た。それだけで、お前が何が分かったか、よく分かるよ」

 そうこうしているうちに、定食が運ばれてきた。僕はから揚げを二つサンドさんの皿に入れ、サンドさんはサバの煮つけを一切れ僕に渡した。僕たちは食事をしながら話すことにした。

「では、率直に聞きます。あなた、僕以外の人に見えていないでしょう」

「ああ、そうだな。どこで気づいた」

「きっかけはラーメン屋でしたよ。終始変な顔されるんですから、流石に覚えますよ。で、監禁された後の井上朱里の発言で確信しました。あんな状況でも、流石に見えない、はありえませんからね」

 サンドさんは少し笑った。柔らかい印象を受ける笑顔だった。

「じゃあよ、お前、俺の正体が分かるんだろ」

「ええ、分かりますよ。ありきたりな言葉しか思いつきませんが、簡単に言えば、神様、でしょうね」

 そこまで言って、目の前のサンドさんは大声で笑った。

「神様、か。確かにな。最近は自分でも忘れてたが、そういえばそうだったな」

「きっと、あの不自然な地震もあなたが起こしたものでしょう。ニュースサイトを見ても、何も起こっていない様子でしたからねありがとうございました」

 そこで神様は照れ臭そうにした。普段利用されたり、頼みごとをされることはあれど、あまり感謝されないから慣れていないらしい。

「神様ってお礼言われるのに慣れていないんですね。勉強になりました」

「ほお、言うようになったじゃねえか。嬉しいぜ」

 特に深い意味はないが、お互いの拳を突き合わせた。

「だがよ、なんで俺がお前にだけ見えるのか、考えたことあるか」

「そこなんですよ。なんで、よりによって僕に良くしてくれるんですか。自分で言うのもなんですが、あまり有益な男ではないと思いますよ」

 サンドさんは前と同じ、少し意味ありげな笑顔を見せた。この状況を楽しんでいるのだろう。

「それはな、お前の視点がお前たちの言葉で言う神様、ってやつに近いからだ。LoLs?度、なんて言われてるがな、お前は何も愛せないんじゃなくて、何もかも愛しているんだよ。だから、一般的な目線からじゃその愛は認識できない。ゆえに、結局は愛情が持てないやつ、と勘違いされるんだ」

 かなり衝撃的な内容だった。僕が、何もかもを愛している?この僕が?

「ピンと来ていないようだがな、それでいいんだよ。それでこそ神様とやらに近い証拠だ。神様側も、わざわざみんなに平等に愛を!なんて考えちゃいねえからな。それに、大きすぎる愛情は、時に見えなくなるんだよ。だからお前は間違っていないんだよ。分かったか

「具体的には、僕のどの辺が愛に該当するんですか」

「そんなもん自分で考えろよ。まだ若いだろ?これから先は長いんだ。俺が正解発表しちゃったら、何も考えなくなるだろうからな。そして、答えなんか存在しないのが人生ってもんだ。自分なりに答えを見つけ出せばいいんだよ。そしてお前のそれは基本的に間違っていない。何せ俺が言ってるんだ、外れるわけがない」

 そこまで言われると、元気が出てきた。そうか、僕は間違っていなかったのか。倉庫で先生を図らずも殺す形になってしまったことだけでなく、今までの人生で苦労したこと、つらかったことが頭の中に大量に流れ込んで来て、そのまま外まで流れていく。晴れ晴れとした気持ちの中、僕は定食を食べ終えた。と同時に、サンドさんも食べ終えたようだった。

「にしても、気づくのに大分時間かかったよな。あんなに分かりやすいヒントだしてたのによ」

「え」

 どんなヒントだろうか。全く思いつかない。

「お前のあだなだよ。ゴド、だろ?英語で神はゴッドだ。ゴッド、ゴド。ゴッド、ゴド。な?分かりやすいだろ?」

 からからと笑うサンドさんを見て、僕も笑った。今までもこうやって笑いながらやってきたわけだし、今までと変わらない。そんなに深く考えるよりも、人生を楽しもう、そう思った。

「そういや、おごるって話だったな。金は渡すからさ、払っといてくれ」

 そう言ってサンドさんは僕にお金を渡してきた。しかし、今回は店員に出す前に気づいた。僕は苦笑しながら、こう伝えた。

「神様、残念ながら、代金が足りておりません」

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LoLs 中庸 @Vagabond_Rogue

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