二人の物語~桜と磐に愛されし子ら~

蜜柑

二人の前世~彼らの過去~

 知られざる 彼らの記憶 語られて 二人は如何に 受け止めにけり


 縁莉はレポートの最終仕上げを終えると、夏休みの一週間を利用して、神社の仕事や奉仕などから神話とのつながりに触れる為、咲霧神社に泊まっていた。咲霧神社で過ごす五日目の夜、日中降っていた雨が嘘のように止み、空には満天の星空が広がっていた。だが、境内の空気にはまだ雨の余韻が残り、石畳がしっとりと照らされ、草木の匂いが夜気に溶け込む。

 その夜、縁莉は怜桜の夜の巡回に付き添っていた。手にした提灯が揺れ、淡い光が辺りを照らす。拝殿まで巡回を終えたとき、視界の端できらりと何かが光った。目を向けると、縁莉や怜桜の腰の高さほどの位置に空洞のある古木がひっそりと佇んでいた。

「なぁ怜桜、あっちの方に何か光を反射するものって置いてある?」

「あっちって……あんなところに空洞のある木なんてなかったと思うんだけど。あそこで何か光ったんだよね?」

「うん。なんか、鏡に反射したみたいな……そんな感じだった。」

「いたずらとかあっても厄介だし、確認しとくか。」

 怜桜は提灯の柄を持ち直しながら縁莉と並んで古木へと歩み寄った。二人の足音が石畳に反射し、境内に淡く響く。空洞の中に月光を反射する小さく円い鏡と文字の刻まれた石が入っていた。

「これは、鏡と……飾り石か? 装飾品に使われてたって感じの。」

 怜桜が提灯を少し傾け、二つを注意深く確認をした。

「なんか二つとも文字が刻まれてるっぽいよ。」

 縁莉の声に導かれるように、怜桜は鏡を手に取り目を凝らした。縁莉も飾り石を手にして文字の確認をした。鏡の縁には風化しかけた細かな刻印が並び、飾り石にも小さな文様がうねるように彫られている。

「……読めるかな、これ? 古い文字でそんなに長くないし、祝詞とかかな。」

「石の方は……〝岩魂たちよ〟かな。鏡の方も見せて……〝散りゆく桜の魂よ〟かな。」

 縁莉が文字の一節を読み上げると、胸の奥に懐かしさがこみ上げる。それと同時にこの言葉を〝読み上げなければならない〟という、抑えがたい衝動が湧き上がった。

 風がそっと境内を通り抜け、湿っていた空気が一瞬、カラリと乾いたように変わる。怜桜は鏡を顔の前に掲げ、その縁を指先でなぞる。縁莉も飾り石を両手で包み、静かに表面を撫ぜた。二人の声が重なるように震えながら祝詞を紡ぎ出す。

「散りゆく桜の魂よ、此処に咲き乱れ、敵を切り裂け 百桜繚乱ひゃくおうりょうらん

「大地の深奥より、岩魂たちよ、今ここに召喚せよ 巨岩降霊符きょがんこうれいふ

 言霊が夜気に融け、空気が揺らいだ。鏡と飾り石がほのかに輝き、そこから桜が舞い始めた。地面が微かに震え、円を描くように巨石が姿を現していく。その様子を見ながら二人の意識は微睡みに沈んでいった。


(……風が、違う)

 目を開ける前から、縁莉はそれを感じていた。肌を撫でる空気の手触り。石畳ではなく、踏みしめた地面の感触。ゆっくり瞼を開けると、夜の境内は消え去り、眼前には見知らぬ神社の風景が広がっていた。深紅の鳥居、満開の桜、左右に広がる社殿。

 縁莉は息を吸う。澄んだ空気なのに、胸の奥で細い棘のような違和感が揺れていた。視線を落とすと、自分の装束が変わっているのに気づく。肩を撫でる布の感触が柔らかく、それでいて重みがある。

(……あれ? これ、俺が着てたやつじゃない。)

 声に出そうとしても喉は拒み、意志に反して体は立ち上がり斜め後ろを振り返った。


 目を覚まし、怜桜は息を呑んだ。淡い藤色に染まりだした空、本殿を挟むように在る桜の大樹と大樹に負けないほどの巨岩。どちらも御神体とわかる風格を纏っている。

(知らないけど……知ってる。)

 声は出ることなく、桜を眺め続ける。後ろの気配が動いたことに気づいて振り返る。


 二人の視線が交差した。どこか懐かしいようで、でも確かに〝知らない人〟だった。怜桜は視線を逸らし、桜の大樹の根元へと歩み寄った。

(何か、やらないといけない。でも何だ?)

 そう思った次の瞬間、思考が霞み始める。代わりに、胸の奥から別の声が響きだす。

(……そうか、術の稽古を忘れていたか。魅せることを許されるには、まず技を磨かねばな。)

 そのまま印を組み、術の練習を始めた。


 一方、縁莉もすぐに視線を外して巨岩の前に立った。印を組み、地面に手を添える。足元の土がわずかに震えだす。

 (何、これ? 何を始めるんだっけ?)

 考えを巡らせ、状況の整理を始めた瞬間、思考が乱され、霞む。

(何を考えておったんだ、我は。今は術の練習中だったはずじゃろ。休憩中に居眠りでもして、まだ目が覚めきっておらんのか?)


 桜の花びらがふわりと舞い、怜桜の掌から淡い光が立ち上がる。

(……何をぼんやりと、心を遊ばせていたのだろうな。我が名は安倍桜凛あべのおうりん。それだけで、十分であろう?)

 同時に、縁莉の足元の土が波打ち、岩の気配が応えるように震える。

(はぁ……夢を見ていたとしても、引きずりすぎじゃ。我は陰山永世かげやまのえいせい、それ以外の何者でもない。)


 二人の元に社司しゃしが静かに歩み寄る。

「桜凛、永世、そこまでにいたせ。」

 社司の声は低く、瞬時に場を支配する力を持っていた。

「結界術の修練は、木花咲耶姫尊に仕える者、磐長姫尊に仕える者が、同時に行うべきではございませぬ。これは神々の御意に背かぬための掟。殊に、そなたら二人は、それぞれの神より加護を受けし身。個人での修練の際は、事前に申し出るよう伝えておいたはず。されど、そなたらよりの申し出は、未だ届いておらぬようでございますな。」

 永世はすぐに膝をつき、頭を垂れる。

「誠に申し訳ございませぬ。術の練習に熱を入れすぎ、つい無意識のうちに結界術・不動護結界ふどうごけっかいの稽古へと踏み込んでしまいました。陰山永世、この身に課される処罰がいかなるものであろうとも、甘んじてお受けいたす所存にございます。」

 桜凛もまた静かに頭を垂れる。

「誠に申し訳ございません。今ならば、過去最高の結界術・癒華浄守結界ゆかじょうしゅけっかかいを展開できると確信し、稽古に励んでおりました。この安倍桜凛、いかなる処罰も厳粛に受け止め、真摯にお受けする所存にございます。」

 社司は二人の姿をしばし見つめた。その眼差しは厳しくも、深い思慮を湛えていた。境内の空気が、わずかに揺れる。桜の大樹から一輪、風もないのに落ちて、永世の肩に触れる。同時に、巨岩の根元が微かに脈打ち、桜凛の足元に石の欠片が転がる。社司は目を細め、静かに口を開いた。

「……神々は、何かを示されておられる。桜凛、永世、そなたら二人に命ず。今ここにて、結界術を同時に発動してみせよ。術が互いを害することなく、調和を生むならば、それは、神々の御心が交わる兆しとなり得ましょう。」

 二人は顔を上げ、社司の言葉を待った。

「よって、今宵そなたらには〝共結の術きょうゆいのじゅつ〟を試していただきます。」

「共結の術……でございますか?」

「木花咲耶姫尊と磐長姫尊、それぞれの加護を受けし者が、術を同時に行使し、二つが交わりし結界を張る術、古より禁忌とされし術にございます。されど、神々がその兆しとして、そなたらに術を使わせようとしておられるのであれば、試す価値は、十分にございます。術が互いを害し、結界が崩れれば、神々の御心に背いた証として罰を受けていただきます。しかしながら、術が調和し、結界が安定したならば、そなたらには、古の術の行使を許される資格があるということ。」

 桜凛と永世は静かにうなずいた。それは、術者としての誇りと神々への敬意を込めた決意だった。

 夜、二人は静かな境内に立った。社殿の灯が遠くに揺れ、空には星が瞬いている。社司は一歩下がり、見守る姿勢を取った。

「浄い華よ 穢れを祓い 癒しの盾となれ 癒華浄守結界ゆかじょうしゅけっかかい

「岩窟の意思よ 悪を拒み 護りの壁となれ 不動護結界ふどうごけっかい

 二つの結界が同時に展開される。桜の花びらが舞い、淡い光が広がる。岩の気が地面から立ち上がり、重厚な波動が空気を震わせる。結界が重なった瞬間、光が爆ぜるように輝く。そのまま術はぶつかり合うことなく、ぐるぐると絡み合い融合していく。桜の渦が岩の紋様を包み込み、岩の線が桜の中心へと寄り添うように重なっていく。光が収まると一つの結界が完成した。結界の内にいた二人は、結界が出来上がるまで吸われ続けた霊力が戻ってくるのを感じた。それは神々が術を受け入れ、祝福を与えた証だった。

 社司は静かに歩み寄り、結界の縁に手をかざした。その掌に、桜の光と岩の気が淡く触れる。

「……見事にございます。二つの術が互いを拒むことなく、調和を生み出した。これは、神々の御心が交わった証。そなたらには、古の術を継ぐ資格があると、神々が示されたのでございましょう。」

 桜凛と永世は、深く頭を下げた。その姿は、術者としての誇りと、神々への敬意に満ちていた。

「次なる神事の折、そなたら二人には、再び術を行使していただきます。この社、櫻雲磐鏡社おううんばんきょうしゃを包む結界を、張り直す所存にございます。その術にて社を包みし時、神々の御意が顕れるやもしれませぬ。やっていただけますな?」

「承知いたしました。」「もちろんでございます。」

 二人は同時に受け入れた。


 神事の前夜、社の空気は張り詰めていた。社殿の灯はすべて消され、境内には静寂が満ちている。桜凛は社の奥にある御神木の前で、静かに祈りを捧げていた。永世は岩座の前に座し、地の気を感じながら精神を整えていた。

 社司は社殿の中で、古の巻物を広げていた。そこには「共結の術」が記された唯一の記録があり、最後の一文にはこう記されていた。

「此の術、神々の御心に触れし時、社を護る盾と成らん。されど御心に背けば、社を裂く刃と化すものなり。」

 社司は目を閉じ、静かに呟いた。

「神々よ……どうか、彼らを導きたまえ。その御心にままに、術が結ばれますよう……。」


 神事の夜、社の全ての灯が再び灯された。桜凛と永世は社殿の前に立ち、社司が静かに頷く。

「始めよ」

 二人は印を組み、詠唱を始める。

「浄い華よ 穢れを祓い 癒しの盾となれ 癒華浄守結界ゆかじょうしゅけっかかい

「岩窟の意思よ 悪を拒み 護りの壁となれ 不動護結界ふどうごけっかい

 術が発動されると、社の境内全体に桜の光と岩の気が広がっていく。社殿、御神木、岩座、すべてがその光に包まれ、空には星々が一層強く輝き始める。

 結界が完成した瞬間、社の空気が、静かに、確かに変わっていく。風が吹き抜け、桜の花びらが舞い、岩の地鳴りが静かに響く。社司はその中心に立ち、目を閉じて言った。

「これが……神々の御意か」

 社の上空に、淡い光の輪が浮かび上がる。それは、神々が社を見守っている証だった。


 結界を張り替えた神事から半年、櫻雲磐鏡社の境内に、桜が舞い始めた。風もないのに、薄紅色の花びらが空へと吸い上げられ、夜空に溶けていく。その光景は美しくもあり、どこか不穏でもあった。参道を流れる空気がふと歪んだ。石畳の隙間から立ち昇る靄が、鳥居の影を揺らす。社の奥にある鏡殿の結界が、微かに軋む音を立てた。

 境内の掃除をしていた桜凛と永世はそれにすぐ気付き、印を組みながら近づく。彼らの中には参拝客かもしれないという選択肢はとうに消えていた。なぜなら、相手に攻撃の意思がなければ結界が反応することはないから。

 鳥居の向こう、夜の闇に溶けていたひとつの影が三日月に照らされるように現れた。黒衣に身を包み、顔の半分を覆う布、額には陰陽寮の印。その者が一歩、また一歩と境内へ足を踏み入れるたびに、空気が冷えていく。桜凛は足を止め、指先に力を込める。永世もまた、無言のまま印を組み、地を踏みしめた。互いに言葉は交わさない。だが、術者としての気配が、すでに共鳴していた。結界が軋む音が、今度ははっきりと耳に届いた。それは、侵入者が術を帯びている証。そして、神社の結界が、敵意を感知した証でもある。桜凛の瞳に、桜の焔が灯る。永世の背後に、岩の気配が揺らぎ始める。その瞬間、二人は同時に詠唱を始めた。

「木花の息吹よ、炎の華となり舞い上がれ 燈華焔光とうかえんこう

「大地の深奥より、岩魂たちよ、今ここに召喚せよ 巨岩降霊符きょがんこうれいふ

 桜凛を囲うように、桜の花弁を模した焔が舞い上がる。その炎は彼の動きに呼応し、まるで意思を持つかのように刺客へと襲いかかる。刺客は身を翻し、黒衣の裾を翻して避けるが、焔は追いすがり、布の端を焦がした。同時に、永世の足元から地鳴りが響く。境内の石畳が割れ、巨石が唸りを上げて姿を現す。その岩には式神の気が宿り、淡く光る紋が浮かび上がる。

「逃がさん……」

 永世の声は低く、岩に命を吹き込む。巨石の式神は刺客の退路を塞ぎ、重々しく動き始める。その動きは遅いが、確実に捕らえる。刺客の足元に影が落ちるたび、地が軋み、逃げ場が狭まっていく。刺客は一瞬、動きを止めた。二つの術が交差し、境内の空気が震える。その瞬間を待ち構えるように刺客は上へと飛び、二人に攻撃を仕掛けた。刺客の身体が宙を舞う。黒衣が夜の闇に溶け、月光を背にしたその姿は、まるで影そのものだった。

「来るぞ!」

 永世が叫ぶと同時に、桜凛の焔が空へと伸びる。桜の花弁が尾を引くように舞い上がり、刺客の軌道を追う。だが、刺客は焔をすり抜け、刺客の指先が空を裂くように動き、印が組まれていく。その動きは滑らかで迷いがない。月光が刺客の指先に集まり、空が一瞬、銀色に染まる。空気が冷たく震え、刃の軌道が夜を裂いた。

「月よ、今宵の姿を刃と成せ、夜を裂き、敵を断て 月刃顕現げつじんけんげん

 三日月の刃が高速で式神を切り裂き、桜の焔を散らせる。刺客は二人を追い詰めるため、さらに印を組み、術を展開する。刺客から紫雲が溢れ出す。

「瘴気舞え、微細なる針と為り その身を貫き、息絶えよ 瘴霧の鎖よ 瘴霧針舞しょうむしんぶ

 紫雲が緑黒色りょくこくしょくに染まり、腐葉のような匂いを放ちながら境内を覆う。空気が粘りつくように重く、肌に刺すような冷気が走る。目に見えないほど細い毒針が二人を襲う。桜凛は残っていた焔で焼き払い、永世はぎりぎりで形を保っていた式神で砕いたが、毒気はなおも迫る。そのとき、二人の手首に生まれつき刻まれた文様が淡く光り始めた。桜凛の桜紋が脈打ち、永世の岩紋が震える。桜凛の体から桜色の光が溢れる。右目の瞳に時の文様が、左目の瞳に桜の文様が現れる。消えかけていた焔が燃え盛る。永世の体に鉱石が現れ、左目の瞳に時の文様が浮かび、右目が宝石眼となる。崩れかけていた式神が姿を取り戻した。

「加護が顕現した……。これで、決定が覆ることはあるまい。」

 桜凛よりも近くにいた永世は刺客の言葉に反応した。

「その〝決定〟とやら、何を意味しておる! 事と次第によっては、この場で縛り上げることも厭わぬぞ!」

 刺客は永世の言葉に反応せず、ただ静かに視線を向けた。その瞳には、怒りも焦りもない。ただ、淡々とした確信だけが宿っていた。

「加護が顕現した以上、均衡は崩れた。都も動こう。陰陽寮が、均衡の乱れを見過ごすはずもない。」

 桜凛は一歩踏み出す。彼の動きに合わせて桜が舞い、より強く焔が揺らめく。

「均衡、だと? 二柱の神が並び立ち、加護を授けることが神々の御心であろう。ならば、我らが術もまた、正しき流れの中にあるはずだ! なぜ、均衡を乱すと申すか!」

 刺客は答えない。代わりに、空気が震えた。

「風よ、渦となりて視を奪え、我が姿を隠し、退ける道を開け 風隠のかざいんのじん

 風が巻き上がり、葉が舞う。風が、葉が、完全に刺客を隠す前に吐き捨てるように言った。

「我は命を果たした。加護の顕現も確かに見届けた。それで十分。神の加護がもたらす力を知らぬのなら、黙って従っておくことだ。」

 言い終わると同時に消え去った。結界の軋みも直りきって、刺客がいなくなったことを二人に知らせた。

「急なことじゃったのに、よう合わせてくれたな。ひとりでは、式神をあれほど長く保たせるのは難しかったと思う。」

「こちらこそ礼を言わせてほしい。君の守りがあったからこそ、我が術も存分に魅せることができた。」

「とりあえず、社司殿に報告せねばな。あの刺客の言葉、気になることが多すぎる。」

「では、報告へ向かおう。戦の余韻に浸るのは後にしてな。」


 ――数日前。都・陰陽寮。

「櫻雲磐鏡社の二柱、術が混ざり始めたようです。」

「加護が顕現すれば、都の術体系に干渉しかねん!」

「今のうちに、二柱を分けよ。」

「神社の者には〝勅使〟を送る。応じぬなら、刺客を向かわせよ。」

 帝は目を閉じ、静かに頷いた。香炉の煙が、静かに揺れていた。


 ――現在。都・陰陽寮。

「加護が顕現したらしい。」

「術が完全に融合した。もはや分離は困難だ。」

「これ以上強くなる前に、強引でも分けねばならぬ。」

「再び勅令を出し、最後通告とす。神社へと届けよ。」

 帝は沈黙のまま、香炉の煙を見つめていた。


 ――現在。櫻雲磐鏡社・本殿。

 刺客が去った後、社司へ報告に来ていた二人。

「社司殿、ご報告がございまする。我ら二人、先ほど境内の清掃を致しておりましたところ、突如として陰陽寮の印を掲げし刺客が現れたのでございます。」

「社司殿、先ほど現れた刺客が、次のように申しておりました。『加護が顕現したのであれば、もはや決定は覆らぬ。均衡は崩れ、都も陰陽寮も動く。加護の力を知らぬのであれば、大人しく従え。』と。」

「強硬手段……やはり、動きましたか。そなたらにはまだ伝えておりませなんだが、数日前、都より勅令が届いておりまする。内容は、二柱を分かち、加護を持つ者を一社に留めるな、とのこと。」

「都は二柱を分けろと申すのか! 半年前に行われた神事で、二柱は共に在ることを願われている。それが何故わからなんだ!」

「永世殿の言う通りにございます。都は力が一か所に、しかも都ではないところに集まるのが嫌なだけ。そんなっ、そんなことで神の御意思を無視するなど言語道断です!」

「勿論分かっております。都側にも話が来たその場で神の意思に背くようなことは出来ないと既にお断りをしております。」

 社司が言葉を断ち切ったその瞬間、本殿の入り口に低く響く声が届いた。

「そうですか……では、今回の〝最後通告〟も黙殺なさるおつもりで?」

「何奴じゃ、貴様。名を名乗れ!」

「都・帝の勅令を伝えるため、陰陽寮より参上しました。掟により名乗ることは叶いませんが、どうかご容赦を。……念のため申し上げますが、先の刺客とは別人です。」

「そんなこと今は関係ありません。勅令は社司殿がお断りしたそうじゃないですか。そのうえで聞きますが〝最後通告〟とやらは一体何なのですか?」

「『櫻雲磐鏡社は木花咲耶姫尊、磐長姫尊の二柱を分け、二社を遠く離れた土地に置き加護を受ける者はそれぞれの社に分かれよ。今回の勅令を最後通告とし、令に背けば実力行使も厭わない。』こちらが都・帝からの勅令です。」

 勅令の内容に桜凛と永世は怒気を隠すことなく放ったが、社司が勅使の正面に立ったことで、抑え込んだ。

「神意に背くことは、我らにはできませぬ。帝の御心が、神々の御心と乖離するのであれば……我らは、神々の側に立ちましょう。」

「それが、その選択が陰陽師たちの、そして平穏に過ごす方々の暮らしの均衡を崩す結果になっても、ですか。」

 沈黙のまま意志を貫いた社司に勅使は煙のように去っていった。直後、社を包む結界に揺らぎが走る。

「結界を即座に破ろうとはしておりませぬ。しかし、都方は我らの動きを見極めようとしておるのでしょう。」

 二人の手首に刻まれた文様が淡く輝き始める。それに呼応するように結界は静かに、しかし確かに強度を増していった。

「これは……! やはり神々は共に在ることを望まれております。」

 二人の様子を見ていた社司は小さく息を吐き、二人に命じた。

「桜凛、永世。都が手を緩めることは、もはや望めませぬ。先の刺客も、加護とそなたらの力を測るための試みであり、本気ではなかったと見てよいでしょう。そして、社よりもそなたらが狙われることでしょう。勅使の言葉からも、それは明らか。よって、これよりそなたらは共に行動し、術の鍛錬と連携の強化に努めなさい。」

「承知いたしました。」「もちろんです。」


 月の光が社の裏庭を淡く照らしていた。桜凛と永世は、共に並び立ち、静かに構えを取る。桜の花弁が桜凛の周囲に舞い、岩の気配が永世の足元に沈む。

「始めよ」

 社司の声が夜気に溶ける。

「散りゆく桜の魂よ、此処に咲き乱れ、敵を切り裂け 百桜繚乱ひゃくおうりょうらん

「地底の龍の怒りの咆哮を受けよ 土龍震波どりゅうしんぱ

 桜凛の術が切り裂くように舞い、永世の術が相手の足場を崩す。そのまま次の攻撃に移行しようとした際にそれは起こった。

「香気よ、霧となりて空を満たせ、迷いの中に刃を宿し、静かに断て 香霧斬こうむざん

「星よ、刃となりて我が手に宿れ、軌道を断て 星穿刃せいせんじん

 薄紅の霧が辺りを満たし、桜凛の舞いに合わせて斬撃が空を裂く。永世の掌には星光が集まり刃となって、斬撃に沿うように僅かに重力が乱れる。二つが重なり連携技となる……はずだった。霧が霧散し、刀がはじけるように消えた。その直後、社司が静かに言葉を放った。

「そこまで。……なぜ止められたかは分かりますね。」

「はい……」

「連携術となるはずであった術が霧散し、うまくゆかなんだ故……。」

「そうですね。ですが、今回術が交わらなかったのは術の未熟さが原因ではないのです。互いの心、術への気持ち、相互理解が足りておらぬことが原因です。一度互いの気持ちを、心を話し合いなさい。」

 社司の言葉にお互いを見合い、目を逸らした。長い時間そうやっていたようで一瞬だったそれは、桜凛が思わずといった形で気持ちを吐露したことで、空気が一変した。

「永世殿の術は、僕には重く感じる。……術は美しく魅せることでより強い力で正確に術を放てるものと心得ておりまする。」

「っそれを申すならば! ……桜凛殿の術はあまりにも軽やかすぎる。守りの堅牢さも、確とした攻撃性も、我には感じられぬのじゃ。」

 二人の空気は最悪なものになった。桜凛の袖が風に翻り、花弁が渦を巻く。永世の足元では地が軋み、細かな石が浮き上がる。結界が微かに震え、社司が一歩踏み出す。

「止めよ。術は心を映す鏡のようなもの、加護を持つ者は術への想いが無意識に術へと顕れる。激情のままに心を晒す前に、まずは己の気持ちを鎮めなさい。」

 二人は社司の言葉に従い、深く、何度か呼吸を繰り返す。荒れていた空気は静まり、結界は穏やかさを取り戻した。その変化で、術にどれほどの心が宿っていたかを二人はようやく理解した。

「落ち着きました。影響を考えずに感情のままに行動してしまい、申し訳ありませんでした。」

「我も、感情のままに動き過ぎました。気をつけねばならぬと教わっておったというのに。」

「分かって頂けたのであればよろしいのです。私がいては気持ちを伝え合いづらいと思いますので、一度本殿へと戻らせていただきます。お互いの気持ちを、心を少しでも共有できたと思えたら練習を再開しなさい。明朝此処へまた来ます。」


 社司が去った後しばらく言葉を交わさずにその場に座り込んでいた。このままではいけないと分かっていても何と言ったらいいのか、皆目見当がつかなかった。

 桜凛は、指先で地面の小石をそっと弾いた。永世はその音に目を向けるが、何も言わない。風が一度、結界を撫でるように吹き抜けた。その音がまるで、「今なら話せる」と囁いたように感じられた。

「……さっきの、術のことだけど、」

 桜凛がぽつりと口を開いた。

「重さに感じていたものが守るためのものだと、何となくでもわかってはいた。それでも、昔親族に嫌になるほど聞かされた術に対する古い価値観に重なって拒絶してしまった。自分の価値観を否定されるようなことが嫌だって、僕が一番わかっていたのに。」

 永世はしばらく黙っていた。その沈黙は、言葉を探している時間だった。

「……我も、桜凛殿の術を見て、少し戸惑ってしもうた。軽いと思ってしもうたものは流麗で、柔らかく……我が知る術とは、あまりに違っておったから。」

 永世は、地面に浮かんでいた石をそっと押し戻すように指先でなぞった。

「だが、今思えば……その違いこそ、術の幅なのかもしれぬ。我の術は、守ることに、正確であることに偏りすぎていた。桜凛殿の術には、導く力がある。……それを否定してはならぬと、今更ながらに気づかされたのじゃ。」

 桜凛は永世の言葉に目が零れ落ちそうになる程に見開いて、そっと顔を伏せた。少しして顔を上げた桜凛は柔らかく笑っていた。

「……ありがとう。そう言ってもらえるだけで、少し救われた気がする。」

 永世は地面に落ちていた桜のついた枝を拾い上げ、夜空にかざしながら話を聞いた。

「僕の術が誰かを導けるなら、それはきっと、誰かに守られてきたからだ。永世の術があったからこそ、そのことに気づけた。だから僕はここにいるって思えたんだ。」

 永世は桜の枝を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。

「……桜凛殿の言葉は、我には少し眩しすぎる。だが、そう思える者が隣におることは、悪くないものじゃな。」

 夜空にかざした枝が、月の光を受けて淡く輝いた。

「この術が、誰かを守るためだけでなく、共に歩むためのものなら……我は、それをもっと見てみたいと思う。」

 話し続けていた二人は、気が付くとその場で互いに頭を預け合い、眠りに落ちていた。月は静かに二人を照らし、桜の枝がそっと揺れた。その夜、術も言葉も超えて、ただ〝隣にいること〟がすべてを満たしていた。


 翌朝、境内には柔らかな陽が差し込んでいた。桜凛と永世は、昨日と同じ場所に並び立つ。だが、空気は違っていた。

「始めよ」

 社司の声が再び響く。今度こそ、術は交わる。桜の花弁が桜凛の周囲に舞い、岩の気配が永世の足元に沈む。

「香気よ、霧となりて空を満たせ、迷いの中に刃を宿し、静かに断て 香霧斬こうむざん

「星よ、刃となりて我が手に宿れ、軌道を断て 星穿刃せいせんじん

 薄紅の霧が辺りを満たし、桜凛の舞いに合わせて斬撃が空を裂く。永世の掌には星光が集まり刃となって、斬撃に沿うように僅かに重力が乱れる。二つが重なり連携技となる。

「星よ、穿て。夜空に刻む刃となれ」

「香よ、舞え。命を断つ花となれ」

「「星花双斬せいかそうざん」」

 霧の中に星の軌道が浮かび上がり、二人が同時に舞うように動くことで、星と花の刃が交差する。辺りが桜の香りに包まれ星の斬光が残り、木の幹には無数の傷跡が残っていた。

「お見事です。これが心を重ね、共に扱う術なのです。」


 あれから、二十日ほどが過ぎた。その間、桜凛と永世は術の強化と連携の鍛錬を重ね、社全体にも正式に都との対立、そして神々の側に立つことを告げた。反対の声も、少なからずあった。話し合いを重ね、それでも納得に至らなかった者には、一月ほどの休暇を与えた。対立の事実を知らなかったこととして扱い、社の外で静かに過ごしてもらうことにした。社の空気は、静かに、しかし確かに変わり始めていた。

 その夜、結界が軋んだ。境内に陰陽寮・討伐隊が侵入してきたのがわかった。

 陰陽寮には、偵察隊・勅使隊・討伐隊という三つの代表的な部隊がある。その中でも討伐隊は少数精鋭で構成された実戦部隊。今回侵入してきたのも、十人の精鋭による討伐隊だった。

 桜凛と永世は、すぐに境内へと駆け出した。その動きに呼応するように、腕の立つ術者たちが後を追う。一方、見習いの術者と結界術を専門とする者たちは本殿に集まり、社司を中心に結界の再構築を始めていた。空気が張り詰める。社の静けさが、戦の幕開けを告げていた。

 鳥居の向こう、闇の中から十の影が現れる。黒衣に身を包み、顔を覆った術者たち。その歩みは静かで、しかし確実に境内へと踏み込んでくる。空気が変わった。重く、冷たい圧が辺りを支配する。結界が再び軋み、境内の灯が一つ、また一つと消えていく。次の瞬間、結界が割れた。

「陰陽寮・討伐隊……」

 永世が低く呟く。彼らは言葉を発することなく、ただ陣形を整えながら進む。その動きに、社の術者たちも反応する。

 社司の声が響く。

「結界、再構築急げ。時間を稼ぐぞ」

 一陣の風が吹き抜けた。それは自然の風ではない。討伐隊の術者が放った、気配を断ち切るための術式。境内の木々がざわめき、地面が微かに震える。桜凛は社を守るため、静かに印を結び、術を放つ。

「桜吹雪に身を託せ、瞬く間に移ろう 華瞬移法かしゅんいほう

 その瞬間、境内の術者たちの足元に大輪の桜が咲き誇った。花弁が舞い上がり、術者たちの姿を包み込む。敵味方を問わず、すべての術者が一斉に社の近くにある崖の側へと移動する。空間が歪み、桜の香が残る中、戦場は一瞬で切り替わった。崖の側に立った桜凛と永世は、風に揺れる桜を背に再び構えを取る。その瞳に迷いはなかった。

 討伐隊の四人が刀を取り出し、刀に術をかける。

「毒よ、刃に宿りて命を蝕め 毒牙どくが

「鋼を裂く力よ、刃に宿れ 裂鋼れっこう

「風よ、刃に宿りて速さを与えよ 迅刃じんじん

「霜よ、刃に宿りて命を凍てつかせよ 霜刃閃そうじんせん

 紫の霧が刃に絡みつき、馴染むように消える。赤黒く脈打つ刃が、鋼を裂く力を宿す。青白い風が刃を包み、空気が震える。霜がうっすらと刃に纏い、冷気が辺りに滲む。四人の術者が同時に地を蹴る。毒牙の術者は低く構え、地を這うように接近。迅刃の術者は風を纏い、桜凛の背後を狙う。最も厄介な毒から護るべく、永世は式神を二体召喚する。

「大地の深奥より、岩魂たちよ、今ここに召喚せよ 巨岩降霊符きょがんこうれいふ

 一体は桜凛と永世を守る位置に、もう一体は二人と共に戦う術者を護らせる。

「守りは、この我に任せるがよい。お主は胸を張って、その術を魅せてみよ。」

 桜凛が微笑み、一歩踏み出す。指先で空をなぞるように印を組み、詠唱を始める。風が舞い、桜の香が一瞬だけ濃くなる。

「散りゆく桜の魂よ、此処に咲き乱れ、敵を切り裂け 百桜繚乱ひゃくおうりょうらん

 桜が舞い上がり、桜凛の周囲を旋回しながら、迅刃の術者の軌道を追う。風を纏った刃が桜に触れた瞬間、火花が散り、空気が爆ぜるように揺れた。同時に、毒牙の術者が式神の守りを突破せんと刃を振るう。だが、永世の岩魂がその一撃を受け止め、毒の霧が岩肌に吸われていく。裂鋼の術者が正面から突進し、霜刃閃の術者が空から斬りかかる。岩魂が空いている腕で裂鋼の術者を受け止め、桜が霜刃閃の術者の視界を遮る。その一瞬の隙を逃さず、二人は新たな術を練り上げる。

「木花の息吹よ、炎の華となり舞い上がれ 燈華焔光とうかえんこう

「地底の龍の怒りの咆哮を受けよ 土龍震波どりゅうしんぱ

 視界を遮っていた桜を覆うように、焔が舞い上がる。霜刃閃の術者が振るった冷気の刃に焔が触れ、凍った空間が一瞬で溶ける。桜の舞は迅刃の術者に向かって軌道を変え、風の刃と交錯する。永世の術が地を震わせ、討伐隊の術者たちの体勢が崩れる。その隙を突き、岩魂が重々しい拳を振るい、術者たちに追撃を加える。

 社の術者たちと交戦していた隊長が、隊員たちの不利を察し、静かにこちらへと歩を進めてきた。

「紙よ、空を舞いて陣を描け。呪を刻み、動きを縛れ 紙縛陣しばくじん

 詠唱に合わせて隊長が呪符を投げる。一度ふわりと舞った符は、まるで意志を持つかのように空中を旋回し、陣を描きながら紋様を刻んでいく。紋様が完成した瞬間、二人と式神の動きがぴたりと止まった。

 封じられるまで、誰も気づかなかった。

 あまりにも静かな移動。

 あまりにも薄い気配。

 詠唱も、ただの声量でしかなかったはずなのに……それを脅威と感じなかった。いや、〝あの隊長〟だからこそ、脅威と感じさせなかったのだ。

 その存在は、音もなく、圧もなく、ただ〝結果〟だけを残していた。

 隊長の術に呼応するように、隊員たち一斉には刀を振るった。

 裂鋼の術者は式神の腕を狙い、鋭く突き刺す。刃が岩肌を貫き、関節を砕くように腕を破壊。霜刃閃の術者は地を蹴り、式神の足元へと斬りかかる。刃が地面ごと足を裂き、瞬時にもが広がり凍結。地面へと縫い付け、動きを封じる。迅刃の術者は風を纏い、舞い続ける桜へと斬り込む。花弁が裂け、一瞬で散り落ちる。毒牙の術者は動きを封じられた二人に静かに刀を振るう。刃が肌を裂き、毒が体内へ流れ込む。それは確実に二人を蝕む一撃だった。

「桜凛、我を縛る呪符を燃やせ! 戻す!」

 永世の言葉に応じて、桜凛はかろうじて残っていた焔を操り、永世の体を縛る紋様を刻んだ呪符を焼き尽くす。動きを取り戻した永世は、すぐに印を組む。

「運命の針を巻き戻し、去りし刻を還せ 時限輪還法じげんりんかんほう

 全員の頭上に大きな時計盤が現れる。時間が逆流し、二分前へと巻き戻る。再び飛んでくる呪符を、桜凛は焔で焼き尽くした。それを見た隊長は、即座に術を組み替える。

「風の奔流よ、鋭き刃と成れ、鎌の影、陣をなして連なれ 風迅鎌陣舞ふうじんかまじんぶ

 手元に風が集まる。影が伸び鎌鼬に形を成す。鎌鼬はそのまま社の術者たちに向かっていく。

「そちらは鎌鼬と副が先導せよ。こちらへ術者を近づけるな。」

 討伐隊の者たちは名を呼び合わず、地位や術名で指示を交わす。〝副〟は副隊長を任された者の呼称。隊長は、術を使われた形跡を見てこちらへ向かおうとしていた副の足を止めさせる。

「わかりました。こちらが片付き次第、長の補佐をさせていただきます。」

 〝長〟と呼ばれた隊長は、返事を聞きながら新しい印を組み始め、刀術師たちに声を掛ける。

「お前たちは少し足止めを。術を完成させる。」

「お任せください。」

 そのまま長を守る形で足止めを開始。

 少しの時間でも時を戻した永世の式神は、霊力がブレて脆くなっていた。

 そこを見逃さず、霜刃閃が式神の下半身を凍らせ、裂鋼が上半身を穿つ。毒牙が二人に毒を食らわせるべく刀を振るって迫る。周りが攻撃を仕掛ける中、迅刃は刀を下ろし、符に持ち替えた。

「地を縛り、歩を止めよ 足縛符あしばくふ

 投げた符が永世の足元に張り付き、動きを封じる。その瞬間、桜凛は咄嗟に印を組み、時間を止めた。

「刹那を凍らせろ、時の歯車を止めよ 映刻華術えいこくかじゅつ

 約十秒。時の止まったその刹那の中で、桜凛は永世の腕を掴み、術の拘束から引き離す。時間が再び動き出すと同時に、空気が震え、戦場の音が戻ってきた。

「桜凛、まだ霊力は尽きぬな? 連携術を使うぞ。」

「まだまだ尽きん。永世こそ、時を戻した後とはいえ、基本術に足止めを食らって、体力が足りなくなってるんじゃない?」

「まさか。すぐにやるぞ。」

「香気よ、霧となりて空を満たせ、迷いの中に刃を宿し、静かに断て 香霧斬こうむざん

「星よ、刃となりて我が手に宿れ、軌道を断て 星穿刃せいせんじん

 薄紅の霧が辺りを満たし、桜凛の舞いに合わせて斬撃が長の覆面を裂く。永世の掌には星光が集まり、刃となって刀術師たちの刀を狙う。斬撃に沿うように僅かに重力が乱れ、刀が折れる。二つが重なり連携技となる。

「星よ、穿て。夜空に刻む刃となれ」

「香よ、舞え。命を断つ花となれ」

「「星花双斬せいかそうざん」」

  霧の中に星の軌道が浮かび上がり、二人が同時に舞うように動く。霧を吸った者の動きが鈍り、四方からの斬撃に刀術師たちは崩れ落ちる。

 その時、長の術が完成する。手元に月光が集約され、大きな槍の形に凍てつく。

「月よ、氷を纏いて穿て 凍月穿とうげつせん

 狙いを定める。霧を動かし、上下左右と舞い跳び斬撃を飛ばす桜凛。舞いながらも直接斬り込んでいき、重力を乱す永世。二人が同時に刀術師たちから距離を取った。その刹那、槍が放たれる。槍が左肩を穿つ。肉が裂け、骨が砕け、腕が空へと弾け飛ぶ。血が霧のように舞い、空気が一瞬、沈黙する。桜凛はただ、見ていることしかできなかった。刀術師たちを挟んだ向こう側で。

 衝撃で崩れ落ちかけた体を、永世は気合だけで起こす。手首に刻まれた岩の文様、左目に浮かぶ時の文様、右目の宝石眼。それぞれが強く輝き始める。

 文様の光が脈打つように広がり、血の流れを静かに封じていく。やがて左肩が淡く光り、新たな宝石が浮かび上がる。それは、腕の形を保つ為のもの。印を組むことはもう叶わない。

「こん、な時に、何をそんな、蒼い顔してる、桜凛。これくらい、我は、どうとでもなる。術は使えぬが、終わるまでは星穿刃の刀があるのでな。」

「そ、んなの……わかった。それでも永世は僕の後ろで戦え、無理は、絶対にするな。」

 永世は蒼白な顔のまま、それでも毅然と立ち、笑みを浮かべて頷いた。その姿に、桜凛の胸を締めつけていた絶望が、少しだけ緩んだ。

 死の影がすぐそこにあるのに、彼は笑っている。その強さに、桜凛は救われた。

 崩れ落ちていた刀術師たちが、ようやく体を動かせるようになる。それを見て、長は静かに命じた。

「お前たちは副の方へ。副に伝えておけ……。」

 言葉の続きを語ることなく、長は裂鋼の持つ予備の刀を受け取り、静かに構えた。その背に、刀術師たちは一礼し、無言のまま駆けていく。

 音もなく戦闘が始まる。長の一撃を、桜凛が寸でのところで受け止めた。刃が火花を散らすよりも早く、永世が隙を突いて斬りかかる。だが、長は桜凛を蹴り飛ばし、その一撃を受け止める。桜凛の身体は崖へと弾かれるが、ぶつかる直前に身をひねり、地を蹴って着地。そのまま永世のもとへと駆けながら、消えた焔を呼び戻す。

「木花の息吹よ、炎の華となり舞い上がれ 燈華焔光とうかえんこう

 焔が舞い踊るように長の体を焼きながら、桜凛は突き刺すように踏み込む。長は永世の腕を掴み、逆に桜凛に投げ飛ばすことで、攻撃を防ぐ。その一瞬の隙に、焔を振り払うように消し去る。しかし、完全に消される前に桜凛は焔を引かせ、炎を刃に宿す。着地と同時に永世と目を合わせ、再び二人は一糸乱れぬ動きで斬りかかる。


 退くことなく、ただ斬り合い、燃やしに掛かる。何時間も戦っているような、それでいてほんの数分しか経っていないような……時間の感覚さえ曖昧になるほど、膠着状態が続いた。

 その均衡を破るように、長が桜凛の心臓を狙って踏み込む。刹那、永世が宝石と化した腕を差し出し、刃を受け止めた。鈍い音とともに、煌めく腕が欠ける。その傷を見た桜凛の瞳が揺れる。迷いと怒りと、何より恐怖が胸を突き刺す。彼は永世の肩を掴み、焔で身を隠しながら後方へと跳ぶ。

「響け、命の核よ 心穿響しんせんきょう

 バンッ!!!

 永世の胸元がはじける。宝石が砕け、肉体は崩れ落ちる。

「永、世?」

 桜凛は咄嗟に支えられず、永世は倒れる。永世の血に濡れた桜凛は永世に触れる。地に伏した永世は、もはや虫の息。数分もせず、命は尽きるだろう。

 静寂の中、長が一歩踏み出す。

「長、これで宜しかったでしょうか」

 副の声は冷ややかで、感情の揺らぎは一切ない。その姿は、まるで命を奪うことに何の意味も見出していないかのようだった。

「あぁ、良い所で来た。副、このまま終わらせるぞ。」

 その言葉が、桜凛の脳を焼いた。思考が沸騰し、視界が真っ白になる。

 永世が、死ぬ、誰が、殺した?

 あの、二人だ。許さ、ない。絶対に、許さない。

 殺してやる。

 桜凛の手が、永世の胸元に触れた瞬間、砕けた宝石の欠片が、彼の掌に吸い込まれるように溶けた。その瞬間、胸が焼けるように熱くなり、視界が揺れる。

「……っ!」

 耳鳴り。心臓の鼓動。血の匂い。すべてが混ざり合う。桜凛は顔を上げる。瞳は赤く染まり、涙と怒りが混ざっていた。

「殺してやる……絶対に」

 その声は震えていた。けれども立ち上がった彼は一切震えてなどいなかった。今までで一番力強く地面を蹴り上げ、長と副に斬りかかる。永世がいなくなったことも、敵が増えたことも、関係ないように迫る。その動きは、もはや人のそれではなかった。風が裂け、地が軋む。

 副が瞬時に身を引く。長が目を細める。

「術が暴走している? いや、暴走させようとしているな。」

 桜凛の手には、砕けた宝石の残光が宿っていた。それは永世の術式の残滓か、それとも新たな力の胎動か。

「殺してやる……。殺してやる!」

 桜凛の声は、呪詛のように響く。

 長や副の反撃も気にせずに斬り込みに行く。それを続けるうちに、桜凛は印を組むことなく術を完成させた。

「咲きて燃え、時を途絶えよ 焔絶華えんぜつか

 副の周囲に、淡く光る桜の花弁が現れる。それは風に乗って舞い、ひとひら、またひとひらと副の身体を包み込む。次の瞬間、花弁が焔に変わった。紅蓮の炎が、舞いながら副を焼き尽くさんとする。その焔は、ただ熱いだけではない。怒りと悲しみと、永世の命の残響が宿っていた。

 副は身を捻り、術で防御を試みる。だが、焔絶華は印を超えた術。感情によって編まれた、理を逸脱した力だった。

「……これは、術では、ない。呪い、か?」

 副の声が、焔の中に溶けていく。この時点で、討伐隊としては戦線離脱を余儀なくされるほどの大火傷を負っていた。このまま放置すれば、命は長く持たないだろう。

「副、下がれ! 毒牙、霜刃閃、副の治療を!」

 毒牙は毒の術を、霜刃閃は氷、水の術を操る。副の治療には最適な人選だった。しかし、焔絶華が二人の術を拒絶する。副の〝時〟を止めるまで、その焔は決して消えない。

「ガァッ……、ッハ、ヒュッ」

「術が通らない……。この焔は、感情そのものなのか?」

「長! 焔が消えません! その者を殺さぬ限り、止まらないでしょう!」

 その言葉を聞いた瞬間、長は桜凛を完全に殺す方向に決めた。元々、桜凛は安倍家の息子であり、可能な限り生かして連れ帰るよう命じられていた。だが、ここまで来れば連れて帰ったところで陰陽寮で暴れるのは火を見るよりも明らかだった。副ほどの実力者の命と、いつ爆発するか分からない桜凛という〝爆弾〟。どちらを取るかなど明白だった。


 殺すための術を、邪魔される。

 永世を殺したのは、そいつなのに。それなのに、そいつは助けるのか?

 ふざけるな。ふざけんな!

 僕の、俺の怒りは、誰にも止めさせない。俺の焔は、誰にも消させない。

 そんなの、許すわけないだろ。

 邪魔するな。邪魔する術は、全部、全部、燃やし尽くす。

 助けるなんて、認めない。絶対に殺す。


 このままだと手が付けられなくなる。殺すことすら不可能になるだろう。怒りがあるなら、そこを起点に術を乱す。そう考えた長は、飛ばしていた術のいくつかを永世へ向けた。桜凛がそれに気を取られる。その瞬間に毒牙と霜刃閃が焔を消す。長は術を構える。

 焔が揺らぐ。永世に向けられた術に、桜凛の視線が吸い寄せられる。

「やめろ……、やめろ!」

 その叫びは、怒りではなく、恐怖だった。

 永世をもう二度と壊させない。守ると決めた。

 お前らなんかに、壊されてたまるか。

 触るな、……お願いだから、もう、壊さないで。

 焔が、彼の感情を喰らい尽くす前に……氷が、静かに、しかし確実に、彼の〝熱〟を凍らせていく。

「命の熱よ、沈黙に還れ 氷葬・瞬絶ひょうそう・しゅんぜつ

 冷たい息を吐くと同時に、絶対零度の世界が桜凛を包み込む。その体が氷になり、動きを止めた。砕ける直前、一滴の涙が頬を伝い、零れ落ちた。

 ……カシャン

 倒れた体は音もなく砕けた。同時に永世が完全に息を引き取った。


 地面が揺れる。櫻雲磐鏡社の結界が、軋むような音を立てて割れる。社内、木花咲耶姫側の磐が、光の粒を散らしながら砕け散る。磐長姫側の桜は、風もないのに静かに、枯れ落ちた。

 その日を境に、神意を知ることは叶わなくなった。社は二つに分かれ、ひとつは都の近くに、もうひとつは遠く離れた地に置かれることとなった。

 数十年に一度は生まれていた、加護を持つ者も数百年に一度となり、陰陽術は、ゆっくりと、確かに廃れていった。


 強烈な光で目が覚める。瞼の裏に焼きついた残光が、しばらく視界を覆っていた。空はまだ薄暗く、夜明け前の静けさが境内を包んでいる。怜桜はゆっくりと身を起こす。手元には、割れた鏡片と、一欠片の飾り石。

 ふと、手首に熱を感じて見ると、怜桜の手首には桜の文様が、縁莉の手首には岩の文様が、手首を一周するように浮かび上がっていた。

「あれって、もしかして夢じゃなくて、前世? 縁莉、起きて!」

「んん、おきてるよ。まだ少し頭がぼーっとする。」

「ねぇ、縁莉も〝夢〟、見た?」

「もしかして怜桜も? 〝桜凛〟と〝永世〟が出てくるのだろ?」

 怜桜は、縁莉の言葉に息を呑んだ。夢の中で見た桜凛と永世。それはただの幻想ではなかった。鏡片と飾り石、そして手首の文様が、確かにそれを証明していた。

「じゃあ、あれって本当に俺たちだったのか。」

「みたいだな。なんか、〝夢〟で見たこと以外も思い出せるし。」

「あー、確かに。それで言うなら死ぬ直前くらいの感情なら、今も鮮明に思い出せるんだけど。」

 怜桜は手首の文様を見つめながら、そっと呟いた。

「……あの時、桜が散って、永世が俺を庇って……その瞬間の感情が、今も胸に残ってる。」

 縁莉は目を伏せ、飾り石を指先で撫でる。

「桜凛が泣いてた。何も言わずに、ただ俺の手を握ってた。あの温度まで、思い出せる。それに、あの後暴走した桜凛を見てるしかできなくて、苦しかったのも思い出せる。」

 二人の間に、言葉にならない沈黙が流れる。それは悲しみではなく、確かな繋がりの証のようだった。

やがて、空が淡く色づき始める。夜の帳が静かに引かれ、空の端に柔らかな光が滲む。怜桜はそっと鏡片を拾い上げた。

「……今度は守るから、先に死なないで。自分を盾にするなよ。」

 怜桜の声は、風に溶けるように静かだった。

 縁莉は飾り石を握りしめ、微笑む。

「うん。今度は死なないし、暴走させない。」

 文様が、朝の光に照らされて淡く輝く。それは、過去の残響ではなく、未来への夜明けだった。


 姉様、あの〝夢〟を見れたってことは、やっぱりあの子たちだったみたいね。この先何を見せてくれるのかしら。……そうよね、きっと楽しませてくれるわ。

     ~END~

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二人の物語~桜と磐に愛されし子ら~ 蜜柑 @wagashi_mikan

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