首吊り人の木

janE

首吊り人の木

 小学校教師だった叔父の修治が自殺した。

 住んでいるアパートのベランダで首を吊って死んでいた。

 下の階に夫と息子の三人で住んでいた女性が朝起きて、洗濯ものを干しにベランダに出たところ、ぶらぶら揺れる濡れた男の足を見たらしい。警察からの話では夜のうちに亡くなっていたとのことだった。


 叔父は、久にいわせれば、完璧な男だった。

 いいスーツを着て、髪を整えて、背筋はしゃんと伸び、だらしないところは一つもなく、性格の柔和さが顔に現れ、少なくとも記憶の中ではいつも微笑んでいた。

 怒鳴るということもなく、母に怒られたり、父と喧嘩をした時は近所に住んでいた叔父のところに逃げ込んだりして甘えていた。お菓子をもらい、仲直りを手伝ってもらったのは懐かしく、今となっては胸を締め付けられる思い出だった。

 子どもの頃は休みのたびによく遊んでもらったし、今、小学校教師を目指しているのも叔父の影響だった。


 葬儀は七月だったこともあり、一日雨が降っていて、暑かったし、悲しくて、みんなイライラしていた。母も父も、叔父を大切にしていたし、祖父母に至ってはショックが抜けず、日常の家事もままならない状態になってしまった。今は交代で毎日様子を見に行っている。今日は父が行く日だったはずだ。

 父も、仲がよかった弟を急に亡くし、急に老け込んだように見えた。

 母はそんな夫を気丈に支えているが、やはり寂しそうにほうっとしていることがある。


 叔父は賑やかな人ではなかったが、時々ふらりと「おいしい果物もらったから」とか「珍しいお菓子を見つけたから」と遊びに来ていたし、たまにだが久の両親が忙しい時は小学生だった久の世話と家事も引き受けてくれていた。

 どうして自殺なんかしたんだと、悲しむと同時に、みんな叔父を恨んでもいるようだった。

 実際、久は恨みに思っている。

 首を吊った日。久は昼に叔父と会い、資格試験の話や、付き合い始めた彼女の話をしたばかりだった。

 彼女とは、こんなことになってから連絡を取っていない。おそらく、別れたことになっているだろう。すごく好きだった、とか、そんな甘い関係ではなかったので、別に構わないが、亡くなった叔父がもし、これを知ったら、優しいから気にするかもしれないとか、そんなことを考えるとやはり、涙が出て来るし、あの時、どうして、何も相談してくれなかったのか、どうして自分は叔父から話を聞こうとしなかったのか悔やまれる。


 時間が遡れたらいいのにそんなことはできないし、能天気な過去の自分の首を絞めてやりたい。

 叔父が死ぬ必要なんてなかったのに。

 一体、何に悩んでいたのかもわからない。

 家にいても気が滅入るが、外に出ても、余計にむなしくて、まるで居場所がなかった。


 蒸し暑さで朝起きて、しばらくただぼうっとしていた。

 何か考えようとすると、全部、何かと叔父と結び付けてしまって悲しくなるので、本当に、ただぼうっとしていた。

 だが、そんなことで時間をつぶしてもいられない。


「行くか……」


 自分を動かすためにそう口にした。

 叔父のアパートの部屋を整理してほしいと父に頼まれていた。

 歩いて十分もかからない場所にあるアパートだ。

 服を着替え、外に出る支度をして食事はとらずに外に出た。もう母は仕事に出たらしく、玄関に靴がなかった。鍵をかけて、家を後にする。

 空はどんよりと重そうな雲に覆われていて空気は息がしにくいほど蒸していた。

 足が重い。

 暑いせいもあるが、叔父がいた部屋に行きたくない。

 どうして片付けなければならないのか。

 子どもの頃、建付けの悪い扉を泣きながら叩いた。お母さんに嫌われた、お父さんと喧嘩したと叫ぶと、叔父は慌てた様子で出てきてくれて……。

 思い出しても涙は出てこなかったが、ただ、胸の中が苦しくて気持ちが悪い。

 叔父のアパートに到着した。

 階段をのぼって部屋の前まで行くと、鬱々した気持ちが吹き飛んだ。


「何だこれ」


 扉が大きくへこんでいた。それだけではなく、落書きまでされている。ぐちゃぐちゃに黒い線を這わせただけの落書きは扉をはみ出して壁にまで広がっていた。


「え……何で、こんなこと」


 半ばパニックだったが、ここでうろたえていても仕方がない。一旦、スマホを取り出し、父に連絡を入れようとした。


「あ! あの!」


 女性の声が聞こえ、振り向く。

 階段を駆け上がってきたその女性はエプロン姿で、スマホを手に持っていた。


「あの、和田先生のご家族ですか」

「……はい」


 返事をすると、女性は額にかいた汗が粒になって飛ぶほど勢いよく頭を下げた。


「申し訳ございませんっ」

「え」

「修繕費はうちで出しますので……」

「あ、え、この扉の、ですか?」

「はいっ。そうです、申し訳ございませんっ」


 深々と頭を下げられ、うろたえる。


「あの、と、とりあえず、何があったんですか、これ」

「……あ、すみません、うちの息子が今朝、急に、その……」


 何だと、と思っているとスマホに着信があった。

 見ると父から電話がかかって来ていた。


「あの、すみません、電話出ますね」

「あ、あ! はい、申し訳ありません……」


 恐縮する女性に背中を向けて父からの電話に出た。


『久。アパートについたか?』


 慌てたような声だった。


『今、管理人から電話があって』

「扉と外壁のこと?」

『ああ……下の階の子どもがいたずらしたらしい。まあ、六歳の男の子だしな……。費用はその家で出すことになったから、お前は気にしなくていい。ただ、扉が開かなかったら連絡くれないか。管理人にいうから。なんか、用があるとかで、明日じゃないと確認できないらしい』

「えー……あー……分かった。待って、鍵あけるから」


 持ってきた鍵で開錠してドアノブを掴む。引っかかったが、持ち上げるようにして引っ張るとバコッと音を立てて開いた。


「一応、開くけど、引っかかる」

『ああ……分かった。俺がいっておくから。悪いな、任せて……』

「いいよ。じいちゃんばあちゃん、大丈夫?」

『まあ……そうだな。アルバム見てる……』


 父の声が少し震える。


「わかった。何かあったら電話するから」


 通話を切った。

 電話中も頭を下げたままの女性を見る。


「すみません、あの、大丈夫なので顔上げてください」

「ありがとうございます……ですが、本当に、本当に、申し訳ございませんでした……和田先生のことは本当に、残念です……」


 下の階の人ということは、この女性が、叔父の遺体を発見したということになる。


「いえ。叔父が、その、ご迷惑を……息子さん、でしたっけ。警察も来たでしょうし、ストレスもあったんじゃないですか」


 謝ってもらって、費用も出すといってくれているのだから、これ以上頭を下げてもらうのは逆にこちらが申し訳ない。知り合いの遺体を見つけて、この人も相当、ショックだったはずだ。


「こっちはとりあえず、大丈夫なので。暑いんで、お気をつけて」

「申し訳ないです……あの、何か、もし、お力になれるようでしたら、下にいますので、お声がけ下さい」


 女性は申し訳なさそうに顔を曇らせたまま何度も頭を下げて戻っていった。

 久は顔を流れる汗を腕で拭って叔父の部屋に入った。











 叔父の部屋は片付いていた。

 拍子抜けするほどに。

 本棚は空っぽで、冷蔵庫にはお茶のペットボトルと缶ビールだけ。

 どこを探しても服すらない。


 自殺する人は、死ぬ準備をするのだというが、これはやりすぎではないだろうか。

 短い遺書があり、それが叔父の筆跡だったため、自殺と断定されたが、こんな部屋を見たら警察だって驚いただろう。


 そう、遺書があった。

 死亡時、胸ポケットのカードケースに入れられていた。カードケースには遺書以外には写真が入っていた。写真は子どもの頃、叔父と両親とで海に行った時に父が撮ったものだった。浮き輪を嫌がる久を叔父が抱っこして海の中に連れて行ってくれた時の写真だ。

 おぼろげにだが、その日のことは覚えている。楽しかった旅行の記憶だ。

 それなのに、その思い出と一緒に入っていたのが遺書とは……。

 しかも、それは遺書というには本当に短く、思い出すだけでなんとも暗い気分になるものだった。


――生に耐えきれず首をくくる私を許してください。


 ノートの切れ端のような紙に、きれいな字で書いてあった。

 遺書から、叔父の死にたいという意思をまざまざと感じて、本当に、どうして、一言も相談してくれなかったのかと、何もない部屋で久はしばらく立ち尽くしていた。

 叔父はどうして死んだのだろうか。

 何が死ぬほど苦痛で、耐えられなかったというのか。

 その重荷を少しでも分けてくれたらよかったのに。


 何度も何度も同じことを考えては、一人で抱えて死んでしまった叔父を思い、打ちのめされる。

 部屋は叔父がいた頃の気配すら感じられなかった。


 本当に何もないのだろうかと押し入れを開ける。服が入っていたであろう空っぽのクリアケースが二つ。折りたたまれた収納ケースが一つ。

 それと。


「あ」


 押し入れの奥にスーツケースがあった。

 懐かしい。

 黒い大きなスーツケースだ。子どもの時に中に入って遊んでいて、キャスターを登って壊した。てっきりもう捨てられたものだと思っていたのに。

 引っ張り出そうとしたが、なかなか重たくて出てこない。

 体勢を変え、両手で掴んで何とかやっと引っ張り出した。


「はあ……暑い……」


 汗を拭いて、引っ張り出したスーツケースを開けた。

 開けた途端に子どもの頃の久の写真が一枚、こぼれて出てきた。スーツケースの中にはみっちり、色々なものが詰め込まれていた。

 写真、本、折り紙や、へたくそな絵。


「……これ」


 久は本を手に取った。


 叔父の部屋にあって、子どもの頃、好きで読んでいた児童書だった。裏表紙には身に覚えのあるクレヨンの汚れまである。角がすれて白くなったものや、破れた本もあるが、どれもきちんとスーツケースに収められていた。児童書、絵本、懐かしいゲームの攻略本もある。それは、叔父が買ってこの部屋に置いてくれたものだ。

 折り紙はここで久が作ったもの、絵もそうだ。一つも捨てていないのではないかと思うほど、やけに大量にある。まさか、そんなはずはないが。そう、さすがに、そんなはずはない……。

 そして写真。

 写真はほとんど、久一人で写っているものばかりだった。家族写真はない。あとは父か、母が撮影したような、叔父と久が二人で写っているもの……写真の中の久は、四歳から、七歳かそれくらいで、最近のものは一枚もない。腹を出して昼寝をしていたり、カレーのスプーンを舐めていたり。なぜか、見ているうちに血の気が引いていく。


 ただの、なんてことない、普通の写真。

 汗が背中を流れる。

 蒸し暑い部屋の中でぞっとするほど冷たい汗だった。

 写真の中の叔父は、じっと久を見つめている。

 そう、確か、幼い頃は叔父がこちらをじっと見つめているのを感じていた。

 だがそういえば、いつからだったか。叔父はそういう目を久に向けることがなくなった。

 家に来ることも減った。もちろん、それは久が成長して親の手を離れたから……。


「成長して……」


 何かが頭の中を掠めた。

 その何かが形になる前に久はスーツケースを閉じた。

 蓋が締まりきらず、隙間から絵本が落ちた。

 永遠の子どもが主人公の絵本だった。











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