一
「ミンミンミーン」緑の多いこの学校では、蝉の鳴き声が一日中響いていた。窓からはもじゃもじゃと伸びた葉っぱがはびこっている。真夏に入り、クーラーをつけても冷え切らないこの教室に溜息がもれる。
「いろはちゃーん!考え事?」急に肩を揺さぶられはっと現実に引き戻された。くりんとした可愛らしい瞳で私を見つめているこの女の子は頼という。腰まである茶色のかかったポニーテールがふわっと揺れた。
「頼、別にぼーっとしてただけだよ」
「珍しいね!あ、そうだ!来週の土曜日に雲居神社でお祭りやるの知ってる?」
「うん、有名だよね。だけど6年に一度しか開かれないから小学生以来かな」
「私も!頻度が少ないからむしろ有名になってるんだよねー!」
「そうだね。なんでこんなに頻度が少ないんだろう?」
「それはね、〝このお祭りの日の、6年に一度だけ神様が現れる〟という言い伝えがあるんだって!」
「そうなの!初めて知ったよ。もしこれが本当なのだとしたら、6年に一度しか現れないなんて気まぐれな神様だねー」
「そうだよね。もしいろはちゃんが良かったら、一緒に行こうよ!」
「いいよ!」
「えーいいな。俺も行っていい?」人懐っこい笑顔を浮かべながら遠慮がちに声をかけてきたのは、晦(つごもり)くんだ。中学2年生になってからサッカー部でキャプテンを務めるようになり、リーダーシップを発揮するようになった。この3人は小学校からの幼馴染で今でも仲がいいのだ。
神社の階段の前に設置されている水色の立て看板のところまで辿り着くと、ふうっと息を吐いた。神社の前にある水色の立て看板が3人のいつもの集合場所だった。小学生時代の頃によくこの神社に集まって遊んでいた。何をしていたと言う記憶もなく、ぶらぶらと散歩したり、鬼ごっこをしたりなどどうでも良いことをしていた気がする。そのうちに集合場所が水色の立て看板になった。もう時間なのに頼と晦くんが来ないので少し焦る。仕方がないから少し空想に浸ることにした。境内に入れば向こう側にはいつだって鮮やかに街の様子が見える。この景色が小さな頃からずっと好きだった。そこにあるベンチに腰掛けると、向かい風がちょうど吹いてきて体にひしひしと感じられて、自分が今この世界に生きていることを深く実感できるのだ。
「ごめんね!待たせちゃった!浴衣めっちゃかわいいー!」パタパタと黄色の着物を着た女の子が駆けてきた。
「ありがとう!頼はおしゃれだねー、髪のお団子自分で結ったの?」
「そうだよ!急に浴衣で行こうって連絡してごめんね…!準備してたらテンションが上がっちゃって!」
「大丈夫だよ、浴衣あんまり着る機会ないから、着れて嬉しい!」最後にパタパタと走ってきたのは晦くんだ。遅いと軽口を叩きながら、3人は神社の中に入っていき、屋台を回り始めた。
「昔から変わってないなー!ほんと懐かしい」最初に口を開いたのは晦くんだった。すると小さな男の子たちがチョコバナナを両手に持って走りながら、晦くんの横を通り過ぎていった。
「前に行ったのは6年前だからね」
「一回しか参加したことないから、懐かしいまではいかないかー」
「でも、親しみやすい雰囲気だよね!」
「そうだなー」他愛もない話をしながらぶらぶらと歩いていく。
晦くんの提案により3人は金魚掬いを始めた。いろははそのお店の向こう側に、三つ編みの少女がヨーヨーを持って歩いているのを見つけて、ふっと微笑んだ。赤と黒が透明な水面に交差し、雫が弾け飛ぶ。頼はひたむきに取り組んでいるように見えたが、20秒も立たないうちに紙が破れてしまった。晦くんも得意ではないようで1匹も取れなかったようだ。しかしいろはは手先が器用で1、2匹掬ってもまだ紙は破れていなかった。その時、頼と晦くんはいろはを待っていたが、次第に人混みが多くなって2人は流され、金魚掬いのお店から離れていってしまった。晦くんは頼とはぐれまいと無意識のうちに袖を掴んでいたが、気づくと慌ててパッと離した。
「どうしよう、いろはちゃんと離れちゃった…」しょげたように呟く頼に晦くんが、後30分ぐらいで終わるから見つけられなくても帰りにきっと会えるよ、と励ました。2人は顔を見合わせると屋台に向かって歩き出した。
ありがとうございます。ーいろはは金魚の入った袋を受け取った。しかし、周りを見渡しても頼と晦くんが見当たらない。それに人混みがひどく、会えそうだとは思えなかった。仕方がないので足を進めると和風のお店が目に止まった。あたりはわいわいと賑わっているが、凛とした異質感を放っていた。足を止めているとさっと風が吹き抜け、ちりんーと音がこだました。いろははその音に惹かれるようにその店に向かって歩き出していた。するとそこには3段の高さの違う棚の上に、赤い絨毯がひかれていて、その上にかるたやビー玉などが並べられていた。そしてちょっと風変わりな木製のオルゴールも置かれていた。今度は暖かく湿った風が吹き、カラカラと音が鳴った。振り返ってみると、透き通った水色の風鈴がさげられていた。このお店の雰囲気が気に入り、しばらくそこに佇んでいた。
「こんばんは。何か気になるものはあるかな?」
「いえ…」何も考えていなかったいろはは店主に話しかけられて戸惑った。
「ゆっくり好きなだけ楽しんでいってね」ふっくりした気の良さそうな中年の男性はそう言うと、朗らかに笑った。そこでいろはは着せ替え人形セットがあるのに気づいた。しかし中に入っている人形は女の子ではなく、男の子だった。いろはは店員にこれを下さいと言った。すると驚いたことに店員は、これは売れ残りで誰かにもらってもらおうと思っていたから無料で持っていっていいよ、と言ってくれた。いろはは呆気に取られたが、礼を言うと着せ替え人形を紙袋に下げて店を出た。すると突然そのお店の前に青海波模様の和服を着た男の子がふっと現れた。そして風鈴にそっと人差し指をふれさせた。するとその途端風鈴が夜空の暗闇に溶け込んでいき、何もなかったかのように消えたのだ。男の子は何事もなかったかのようにお店に入って行き、このオルゴールいいねー、と店主に話しかけはじめた。それから少し経つとお祭りの賑わいがひいていき、終わりが近づいてきていることが感じられた。いろはは頼と晦くんを待つためにベンチに向かって歩き出した。
夜の風景と街明かりに1人の少女が溶け込んでいた。淡い桃色の浴衣に、腰まで下ろしたストレートの髪が風にからかわれてさらさらと揺れている。夜の静けさに満たされて、瞳にはどこまでもこく深い深黒の中に6年前の、美しいが少し胸が締め付けられる思い出が映されていた。
「いろはちゃんー!ごめんね、人混みに流されちゃって…晦くんが、いろはちゃんはここにいるんじゃないかって言ったの」
頼と晦くんが駆け寄ってきて、ほっと胸を撫で下ろした。待ちくたびれた女の子は、こちらこそと言うと微笑みながらふわりと振り返った。
「来てくれてよかった!実はねー、金魚3匹とれたから分けてあげる」3人はベンチに座り込むとしばらく雑談を楽しんだ。
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