第2話 サウダージ
自分にとって最愛の友人である金銭との辛い別れが、ショパンの悲愴な曲で無駄に深い傷を心に刻む。
今の自分は少々NHK-FMと相性がよくないのかと思った小熊は、豊作ラジオと名付けられた屋外作業用大径スピーカー付きラジオのチューニングをいじくる。
JーWAVEのラテン音楽番組を探り当てた小熊は、アントニオ・カルロス・ジョビンの曲で幾らか癒されながら、生活における義務を遂行するべく意志の力を振り絞る。
日曜の夕暮れに休日の終わりや明日からの仕事を思い憂鬱になることを世間ではサザエさん症候群と言うらしい。
小熊も普段なら義務的に出席している大学の講義や、物流のピークとなる一週間のの始まりを思い少々物憂い気分になるところだが、今は夏休みで、通常の輸送とは異なる緊急、臨時の即時配送に従事するバイク便の仕事は、今のところ入っていないし、もし飛び込みの仕事が入っても事務所に詰めている持ちまわりの当番ライダーが引き請けてくれるだろう。
とりあえず今は怠惰な夏を楽しめると思った小熊は、ジョアン・ジルベルトを聞きながら夕食の準備を始めた。
その収支はともかく、給料が入った日には小熊は出来る限りの贅沢をすることにしている。
たとえ右から左で消えていく金とはいえ、賃金は自分が世間に対して貢献して生きたという結果を明確に数値化したもの。
今月も出来る限りの事をした事実を外部入力しないことには、生活を全うしようという意思が保てない。
バーカウンターの横を通り、一人暮らしにしては広いシステムキッチンに入った小熊の顔は少し歪んだ。
生活の質を維持するため、普段から風呂とトイレ、台所は綺麗な状態を維持してたが、キッチンのガスコンロには黒く汚れた特大のフライパンが鎮座していた。
これから冷蔵庫の中にある一番上等な食材を調理しようという時に、これでは豊かな気分も味わえない。
こんな横着な事をしたのは誰なのかと思っていたら、ある人物の顔が頭に浮かんだ。
礼子。
小熊が山梨の高校生だった頃、カブを通じて知り合ったバイク仲間で、高校卒業後は進学も就職もせず、バックパッカーの父親を真似るようにハンターカブで世界へと旅立った。
小熊はあまり見る気にならないが惰性で見ているSNSによれば、東南アジアの各国を目的を持たぬまま旅していたはずの礼子が、昨日突然帰国してきた。
八王子ひよどり山の実家より近くて、カブを整備する工具が揃っているという理由で部屋に押しかけてきた礼子をタダで泊める気など無かったが、食材と調理器具まで持ちこんでやってきた礼子に押し切られ家に入れてしまう。
おかげで夕べは礼子と二人で何の肉なのか不明な肉をどこののメーカーで売られている物なのか不明のスパイスで食べたが、一晩で一kg近い肉を焼いた礼子持ち込みの鋳鉄製フライパンが、使いっぱなしのまま台所に放置されていた。
礼子は明け方に小熊の自宅敷地にあるコンテナガレージでハンターカブの整備を終え、どこかに走り去っていった。
普段なら奪い取って洗い、叩き返しているはずのフライパンをなぜそのままにしたのかを思い出した小熊は、にんまりと笑った。
今夜の贅を凝らした夕餉は決まった。小熊はフライパンを洗うことなくコンロに火を点け、サラダ油を落とした。
続いて冷蔵庫から出したニンニクを刻み、フライパンの中で温まりつつある油の中に落とした。
ニンニクが色づいてきた頃、高校時代から使っている大同電鍋の電気炊飯器を開け、中から保温でやや風味の落ちた米を全部フライパンに開ける。
フライパンで米を炒め、冷凍物のニラを刻んで加える。
一kg分の肉汁の染みこんだ二合ほどのニラ入りガーリックライスを大皿に盛った小熊は、冷蔵庫から取り出して水洗いしレンジで調理したブロッコリーを添え、冷たい富士ミネラルの炭酸水をグラスに注ぐ。
小熊は焼き肉やバーベキューは好んで食べるが、肉料理で一番好きなのはたっぷり肉を焼いた鉄板で作った焼き飯なんじゃないかと思った。
自分は贅沢というものに慣れていないんだろうと今更ながら気づかされた小熊は、ボサノヴァの調べと共に暗くなっていく日曜の空を眺めながら、美味なるガーリックライスを楽しむ。
冷たい炭酸水を口に運びながらスマホを眺めた。いつのまにか礼子がSNSを更新している。
彼女は再びどこかに旅に出るらしい。月曜の朝イチでハンターカブの通関手続きを済ませるべく、横浜税関に近く港湾で働く労働者や技術者が食事を摂る海員生協で夕食を済ませているらしい。
礼子も彼女なりに自分の暮らしを守り、自分なりの幸福を追求しているらしい。彼女は親から旅目的ならほぼ無制限に使えるカードを貰っているらしいが、ウォーターフロントのお洒落なレストランでディナーを楽しんでいる様は想像できない。
カブを今居る場所より少しでも前に進める。そのためなら海員生協のサンマ定食が最上のご馳走になる。
充実した夕食を済ませた小熊は、礼子が散らかした台所とバイク整備用コンテナガレージを清掃してシャワーを浴び、歯を磨きながらiPadで仕事と大学の予定を確認した後、ラジオを切ってダイニング横の寝室で眠りについた。
とりあえず明日は何の義務も無い空白の時間。
することが無いのは少々落ち着かないが、きっと明日になれば何かやりたい事が思いつくだろう。
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