スーパーカブ11

トネ コーケン

第1話 残暑

 カナカナカナとひぐらしが鳴いていた。


 残暑厳しい日曜日の夕方。

 外の空気を吸うために町田市北部の木造平屋を出た小熊は、夏至の頃より少し傾くのが早くなった陽光を浴びながら、敷地内をぶらぶらと一周する。

 とりあえずまだ外は湿っぽい不快な熱気に包まれている事を確かめた小熊は、郵便受けを開けて中身を取り出し、幾つかの郵便物を手に部屋に戻った。

 玄関を通る前に縁側に駐めたカブ90にそっと触れたが、昼間の熱を溜め込んだ鉄板の車体は、まだ触れられないくらい熱かった。


 賃貸の備え付け品にしては効きのいいエアコンの冷気を浴びた小熊は、キッチンに吊るしたラジオを点けてNHK-FMを流し、木造平屋のダイニングとキッチンを隔てるバーカウンタに封筒類を放り出した。

 普段の食事やお茶だけでなく、大学の課題やバイク整備の細かい作業、非常に稀な事だが来客をもてなす時にも使っている分厚い檜のバーカウンターに幾つかの封書とスマホ、iPadと筆記用具類を広げた。

 これから、天涯孤独の身で東京の大学生をしている小熊の、生きるための戦いが始まる。

 

 とりあえず小熊はスマホを手に取り、ネットバンクのアプリを開き口座に残る残高と入出金を確認した。

 現在の生計を支えるバイク便バイトの給与入金については、社長が夏の高温とライダーの肉体負担、事故リスクを考考慮して仕事をセーブしている事と、一般企業のお盆休みが入った事もあって先月よりやや目減りしていたが、臨時や指名の仕事を多く受けたこともあって、一応は飢えて死なない程度の額が入金されていた。

 高校の時に小熊が自力で見つけ、申請した北米の篤志家によって運営されている奨学金も、大半は大学の学費で消える金ながら、ありがたい事に結構な額が振り込まれている。

 諸々の入金をスマホで確かめ、意味ない事ながらiPadで再確認した小熊は、ネットワーク内にのみ存在し目視出来ない電子的な金が目の前で紙の紙幣として形を成し、この手で掴めるのではないかという気分にさせられた。 

 もしも小熊がそれを望むなら、今すぐ通帳とハンコを持ってまだ窓口の開いている近隣の銀行に行き、残高を全額引き出せ事も出来る。

 今の自分に自由に出来る現ナマをこの手で確かめてみたいところだか、手数料や銀行まで行くガソリン代をを無駄に払う事になるだけだと気づき、馬鹿な考えを打ち切った。

 それでも自分自身の力で金を手にしたという事実が可視化されただけで、気が大きくなるのは仕方ない。

 NHKーFMが流すモーツァルトにまで祝福されているような気がする。

 同業者の嫉妬や借金の返済で金に困る事が多かったというモーツァルトの演奏が終わる頃、とても楽しく気持ちが高揚する残高の確認を終えた小熊は、FMラジオが流す楽曲と共に気持ちを切り替え、愉快ならざる仕事を始める。

 

 FMが日曜の夕暮れにはまことに不似合いなショパンを流し始める中、小熊はカウンターに並べた封筒の仲で、一番軽そうな物を手に取る。

 物理的重量ではなく、その郵便物が自分から奪う金額で考えるならば、とりあえずスマホの基本料金だろうと思った小熊は、支払伝票を兼ねた二ツ折りのハガキを開き、スマホを手に取って決済アプリのアイコンをタップする。

 クレジットカードの口座と紐づいた決済アプリのバーコードスキャンによる払い機能を利用し、伝票にスマホを翳して表示された支払い情報をタップした。

 ショパンの悲愴な曲に割りこむように、スマホが決済完了の通知音を鳴らす。

 我が身を削り取られるような気持ちになりながら、スマホ使用料の支払いをスマホで終えた小熊は、もしも今NHKーFMが流しているのがショパンじゃなくシェイクスピアのオペラなら、今すぐスマホを叩き壊してカブに飛び乗り、この世のどこかに居るに違いない金貸しシャイロックをブチ殺しに行っていただろうと思った。

 

 とりあえず小熊は苦難と忍耐について楽曲で説いて聞かせるショパンに従い、電気代やガス代、水道代に家賃、高校時代に貰っていた給付じゃなく貸付型の奨学金の月割り返済。弱り切った自分に止めを刺すような国民年金と住民税を決済し終えた。

 小熊よりだいぶ年長のバイク仲間から聞いた話では、一昔前は公共料金の支払いも銀行やコンビニ、あるいは大家さんや役所の窓口まで行かなければならず、スマホで支払えるようになった今はだいぶ楽になったと言っていたが、小熊はそんな事を聞いてもありがたいとは微塵も思わなかった。以前は納めに行っていた年貢が向こうから奪いに来るようになっただけ。

 今もこうして月曜に期日が設けられる事の多い諸々の支払いという苦行に耐えている。

 小熊は光熱費や公共料金の類を、出来るだけ口座からの自動引き落としに任せず自分で決済している。

 バイクに乗っていると不意の大量出費が発生した時、とりあえず支払いを待ってくれるような所や、無くても死なない所への出金を遅らせなくてはならない事がある。

 バイクだけでなく音楽や演劇、ソシャゲなど金のかかる趣味に溺れている人間は、電話が使えなくなったり水道や電気が止まったするのも日常茶飯事だと聞いたが、小熊は元より暮らしをより良くするために乗っているバイクに、自分が住む場所や生きるために必要な物に困るほど散財するような事は無いと思っている。

 しかし、未来においてはそのこの限りではないのかもしれない。

 先ほど入金と残高を見て抱いた飢えて死なない程度の金という感想は、訂正しなくてはいけない。

 

 小熊は己を一喜一憂させ、生存さえ危うくするような数字を眺めながら思った

 今の自分は自分の力で生きているんだろうか。

 これからの自分は自分だけの力で生きられるんだろうか。

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