14話

 空は曇り、月明かりだけがやけに鮮やかに地面を照らしている夜。

あの湖での出来事が忘れられず、私は気持ちを落ち着かせるために、一人でしんと静まり返った庭をあてもなく歩いていた。

すると、この庭に似合わない怒声が聞こえてきた。


「ねえ〜!こんなんじゃ足りないって言ってんだろ!!」


 物音に気づいて塀の向こうを覗き込んだ私は、思わず息を呑んだ。薄暗い空間の中、リリィが男に馬乗りになって求めていた。まるで何かに取り憑かれたような狂気があった。


「もういいって……お前、怖いんだよ!」


男は抵抗しながら彼女を突き飛ばし、逃げるようにして立ち去っていった。


「リリィ!」


 私は思わず駆け出していた。リリィは地面に倒れたまま、胸で息を荒げながら壊れたように笑っていた。

口元には殴られたような痣があり、突き飛ばされた拍子に額が切れたようで血が一筋流れている。


「大変!血が出てる……」


「ん?あぁ……これくらい平気よ〜!」


 そう言ってリリィは額に着いた血を手の甲で拭って、傍に置いてあったウォッカの瓶を飲み干した。


「また見てたんでしょ。覗きは趣味なのかしら?」


「違う、たまたま通りかかっただけだよ」


「それならアンタも混ざれば良かったのに〜!」


「あんまり無茶すると、こっちが心配になる」


 リリィはむくりと立ち上がり、パンツの埃を払って履き出した。


「あれくらい日常茶飯事よ。よくあることだし、アイツじゃ私も全然満足できなかったんだもん」


 しばらくの沈黙が流れた。私は地面を見つめたまま、心に引っかかっていた言葉を思い切って口にする。


「……ねぇ。リリィはさ、ジュールと寝たことある?」


 リリィは目を丸くして、ふっと笑った。


「ジュール?!アハハ、ないない!」


「どうして?」


「ああいうタイプはこっちから願い下げだね!

なんてったってアイツ、欲がないんだもの。自分のことも人のことも、どっか他人事だし、熱が感じられないんだよ」


「そう、なんだ……」


「でも、アンタは好きなんだ?」


 私はうなずいた。小さく。でも確かに。


「……うん」


 リリィは空を見上げて、くっと喉を鳴らして笑った。


「やっぱりね〜アイツとアンタ似てるもん。でもさ、あの子を好きになるなんて……ずいぶん面倒な恋、してるねぇ」


「……うん。わかってる」


 私は胸の奥を押さえるように、息を整えた。


「それでも、たぶん私は、ずっとこういう恋がしたかったのかもしれない。痛くて、苦しくて、でも……諦めたくないって思えるような」


 リリィはしばらく黙って、私の顔をじっと見ていた。何かを測るように。探るように。そして、ぽつりと呟く。


「……馬鹿だね。羨ましいくらい」


 私は視線を逸らして、小さな声で聞いた。


「……リリィは、そういう恋したことないの?」


 リリィはしばらく何も言わなかった。やがて、夜風に髪を揺らしながら、低い声で語り出した。


「あるよ。でも、そんなのどうせ続かない。人の心なんて、すぐ変わる。期待して、裏切られて、泣くのも飽きた。だからあたしは、信じるのをやめたの。信じられるのは、自分の中にある熱だけよ」


「……」


「アンタには分からないでしょ?誰かに触れてないと、自分がどこにいるか分からなくなる感じ。身体が空っぽになって、境目がなくなって、熱だけで満たされてる間だけ、あたしは“生きてる”って思えるの。

 ちゃんと“ここにいる”って感じるには、それしかないの。頭じゃなくて、身体が覚えてる。あたしが本当に感じたことだけが、あたしを形づくってるの」


彼女は自分自身を信じる強い人間であると同時に、今にも壊れてしまいそうな脆い人間にも思えた。

ただ、その真っ直ぐさにはいつも圧倒された。


「……私はセックスでそんなに感じたことないから、リリィの言ってることを完全には理解できない。

でも、ジュールへの気持ちは、リリィの言う″熱″ってやつに似てる気がする」


彼と触れ合った時に確かに感じた″熱″

『この男が欲しい』という、慈愛と欲望。


「ねぇ、アンタはジュールとどうなりたい?」


 リリィが唐突にそう聞いてきた。


 私は少し考えてから答えた。


「……ジュールとひとつになりたい。心も、身体も。でも……拒まれたら、全部が崩れてしまいそうで怖い」


 リリィは、ほんの少し目を細めて言った。


「アンタがあの子とどうなるかなんて知らない。でもね、あんたが本気なら……覚悟しな。ほんとうに好きになるって、全部失う覚悟をすることだから」


 リリィの言葉は、どこまでも冷静で、あたたかかった。


 夜の静けさの中で、私たちはしばらく黙って立ち尽くしていた。遠くで誰かの笑い声が聞こえた。リリィはふいに踵を返し、ヒールを鳴らして歩き出した。


「さ、帰ろ。夜は長いんだから、まだ誰か見つけられるかもしれない」


 その背中を見送りながら、私は彼女のように生きられない自分を思い、ほんの少し、彼女を羨ましく思っていた。

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