13話
夜が深まった庭は、昼間とはまるで違う表情をしていた。昼間の喧騒や人の気配はどこか遠く、まるで誰もこの世界に存在しないかのように静まり返っていた。私は眠れずに、草を踏む音だけを連れて歩いていた。空気は澄んでいて、少しひんやりとしている。月が高く、庭の輪郭を淡い光でなぞっていた。
ふと、小道の先に人影が見えた。暗闇に馴染むように立っていたその背中に、私は見覚えがあった。
「ジュール?」
声をかけると、彼は振り返らず、ほんの少しだけ首を傾けた。
「……眠れないの?」
その問いに、私はうなずいた。返事の代わりに、彼はゆっくりと歩き出した。私は隣に並ぶ。
ふたりきりで並んで歩くのは、初めてのことだった。いつもどこかに腰かけて動かなかった彼が、今こうして私の隣を歩いている――それだけで胸が少しだけ熱くなった。
「どこへ行くの?」
「……ついてきて」
短い言葉に、私は何も聞き返さず従った。
カツカツとレンガ道を歩く足音に胸の高鳴りを覚えた。
やがて足元が少しずつ柔らかくなり、空が広がった。木々の隙間から視界が開け、眼前に湖が現れた。水面は静かにたゆたい、月がくっきりと浮かんでいた。
「ここ、あなたの……お気に入りの場所?」
「まぁね。誰も来ないから、静かでいいんだ」
一人を好む彼の、お気に入りのに足を踏み入れることを許可されたということに、心の焔がチリチリと燻った。
湖の縁に腰を下ろすと、ジュールはポケットから小さな瓶を取り出した。ラベルの擦れた古いガラス瓶。彼が蓋を開けて差し出してくる。
「いる?」
私は一瞬ためらったが、うなずいて受け取る。口をつけると、強いアルコールの香りが鼻に抜けた。ひとくち、ふたくち。喉元がカッと熱くなって、身体がふわふわするのが心地よかった。
「お酒、好きなの?」
「……こんな月が綺麗な夜は、どうしようもなく死にたくなる。だから……せめてもの気晴らし、かな」
ジュールは相変わらず諦めたように目線だけを下に向けて、冗談か本気かわからないような口調で感情を抑えながら自虐的に微笑んだ。
「そっか……たしかに無駄に綺麗な月だね」
『月が綺麗』という言葉を口にした後、夏目漱石を思い出して少し気恥かしくなった。
暗闇の中で月の光に照らされた彼の横顔は、この世のものとは思えないほど美しく、幽霊のようだった。
ジュールの隣で時間を過ごせるなら会話なんてなくてもいいと思っていた。彼の周りには透明な分厚い壁が何層もあり、それを侵犯することはタブーに感じられたし、私もその壁の向こうから彼を見ているだけで良かったのに。
お祭りの夜、初めてその壁をすり抜けて
彼の″核″の部分に触れた気がした。
その時、本能的に、彼は私と″同じ″だと思った。
何かを諦めきれなくて傷ついている私。
誰にも期待せず、孤独を愛する彼。
同じであると同時に私とは対照的で、憧れた。
「私ね、物心ついた時からずっと『ここは私の居場所じゃない』ってどこに居ても誰といても思ってた。
でも、この庭に来て、初めてここが私の居場所だって思えたんだ。……みんな性格も全然違うし変な人ばっかりだけど、なぜか私と同じだって思えるの」
「……この庭に来る奴は、みんなどこか欠けているんだよ。だからきっと、ここは心地いいんだ」
ジュールはぽつりと呟き、瓶を傾けた。ごくんと喉が鳴る音が、静かな夜にやけに大きく響く。
「俺は昔、人を殺したことがある」
突然の言葉に、私は彼の横顔を見た。けれど彼は変わらぬ口調で、水面を見ていた。
「……母親だった。正確には、殺したっていうより、見殺しにしたんだ」
私が何か言おうとしたとき、ジュールは続けた。
「家で倒れて、何度も名前を呼ばれてた。でも……何も感じなかった。怖くもなかった。ただ、ヘッドホンして、いつも通りに家を出た。それだけ」
「お母さん……嫌いだったの?」
「ヒステリックで煩わしい人だったけど、好きでもないし嫌いでもなかった。本当に、何も感じなかったんだ。その時、俺は自分が欠陥品であることを悟ったよ」
私は息を呑んだ。彼の言葉は、火のついていない煙草のようだった。味がなく、けれど焦げた匂いだけが心に残った。
普通なら非難されてもおかしくないような話だったのに、私は彼に同情していた。誰にも理解されない、彼の穏やかで無垢な冷たさを私は愛したいと思った。
「うまく言えないけど……あなたの中にあるその空っぽさ、私は……分かる気がする」
「……なんでだろう。こんな話、誰にも話すつもりなかったのに。君になら、分かってもらえる気がしたのかな」
ジュールがゆっくりと、こちらを見た。彼の長い前髪から覗いたその目は、翡翠のように透き通っていて、どこか悲しげだった。
ジュールは静かに立ち上がり、靴を脱いだ。次にシャツのボタンを外していく。迷いのない動作に、私は一瞬目を逸らした。
「……泳ぐの?」
「うん。君も、来る?」
その言葉に、私はほんの少しだけ笑った。ここまで来て、「行かない」なんて選択肢はなかった。
私もゆっくりと靴を脱ぎ、足元を水に浸す。湖の水は夜気に冷たく、けれど心地よかった。服を脱ぎ、水に入ると、体がすっと軽くなる気がした。
深夜の湖。世界には私たちしかいないような錯覚。静寂と月明かりと、水の音だけが存在していた。
「ねぇ、こうして泳いでると……今この瞬間、この世界に二人だけみたいだね」
「……うん。そうだね」
ジュールの声が、水に揺れて届く。
気づけば私は彼に近づいていた。胸まで水に浸かりながら、自然に手が伸びていた。彼の肩にそっと触れる。ジュールはいつも通りの表情だったけれど、瞬きの回数が増えていのを私は見逃さなかった。彼はそっと、躊躇いがちに私の腰に手を添えた。私の体は自然と彼に預けられていた。
「ねぇ……さっき、ジュールの話を聞いて、思ったの」
「……うん」
「あなたって、人に期待しないでしょ。エゴを他人に押し付けないことって、誰にでもできることじゃない。私はジュールのそういうところが……好きだよ」
ジュールは、ゆっくりとこちらを向いた。驚いたような、困ったような、けれどどこか嬉しそうな顔だった。
「……そんなこと言われたの、初めてだよ」
いつも遠くを見ているか、伏し目がちなジュールの視線が、意を決したかのように私に向けられた。
彼の瞳に映った『私』。
その『私』は、生まれて初めて綺麗だと心から思えた。
「俺も……君が好きだよ」
水中での接触は、陸上のそれよりもずっと曖昧で、けれど確かだった。肌の感触も、熱も、輪郭すら曖昧になっていく。
私たちの視線は、磁石のように惹かれ合い――そして、唇が触れ合った。
ゆっくりと、確かめるような触れるだけのキスだった。たった一度の、長くも短くもない、時間のない世界でのひととき。
意外なことに、ジュールのキスはぎこちなかった。
唇の柔らかさを感じられる余裕もお互いなく、口と口が触れ合うだけの、子供みたいな口づけ。彼の不器用さが愛おしかった。
やがて唇が離れると彼は、「こういうの、慣れてないから……」と、ぼそりと呟いた。
私のなかの奥深くで火がついた。
もっと、もっと深く、貴方を知りたい。
私のような凡庸でなんの取り柄もない女が、人に興味のない美しい男と通じあえたことは信じられないはずなのに。
彼は確かに私の手の中にいて、その間だけは「この男は私のものだ」と信じて疑わなかった。
心から『欲しい』と思った相手に、受け入れられる悦びがこんなにも甘美で生きる意味を与えられるものだとは思わなかった。
しばらく泳いでから、岸に上がった。服を着て、夜風が濡れた肌に冷たく触れる。私は肩を震わせると、ジュールが自分のジャケットを脱いで私の肩にかけてくれた。
「……ありがとう」
ジュールは何も言わなかった。ただ、傍にいた。
湖畔に座り、ふたりで並んで月を眺める。静寂の中、私はそっと、彼の肩に体を寄せた。彼の体温が伝わる。さっきまで水の中にいたのに、確かにあたたかかった。
ふたり、言葉を交わさないまま、同じ方向を見ていた。空に浮かぶ月が、ゆっくりと庭を照らしていた。
そして私はそのまま、彼の肩に寄りかかったまま、静かに眠りについた。
――朝、目が覚めると、彼の姿はなかった。けれど私の肩には、あのジャケットがそっとかけられていた。
まるで、夢だったかのように。
でも、確かにそこに彼はいた。あの夜、私は彼と、たしかに触れ合った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。