第26話 石室の手記
秋風が街路樹を揺らし、落ち葉が石畳を軽やかに転がる午後。私は佐藤と喫茶店の隅のテーブルに腰を下ろしていた。温かいコーヒーの湯気が鼻腔をくすぐる。外の風景は陽射しに色づき、季節の深まりを知らせていた。
「……博士、本当にもう駄目だったか」と私がぽつりと呟く。
佐藤は黙ってコーヒーを啜る。少し間を置いてから、「ああ……しょうがない。モダンのことも含めて、あの状態じゃ無理だ」と応えた。
「寺にモダンはあるけど、俺らがあれ抱えていたら危険だったんだな」と私は視線を窓の外に投げる。遠くで街路樹が揺れる。佐藤は軽くうなずいた。
「で、渡辺。もう旧日方邸の調査は終わりにしたほうがいい。これ以上手を出すと、俺たちだって危ない」と佐藤は言った。真剣な眼差し。だが、その言葉の裏には温かさも含まれていた。
私はうなずいた。「わかった。俺もここで終わりにするべきだな。…でも手記だけは戻さないと」
佐藤は小さく笑った。「ああ、そうだな。江戸期からソトまでの手記、それに君の手記。全部まとめてあそこに置いてこいよ。箪笥の引き出しにそっとな」
「うん。ありがとう、佐藤」と私も笑い返す。会話はそれで途切れた。しばらく二人で黙ってコーヒーを飲む。窓越しの光は少し傾き、秋の夕暮れが近いことを知らせていた。
「じゃあ、俺先に帰るわ」とさらりと言い、佐藤は立ち上がった。私は「わかった、気をつけてな」と返す。店を出る背中を見送りながら、私はまだ心の整理がつかないことを自覚した。
コーヒーカップを置き、私は立ち上がる。外の空気はひんやりとしていた。落ち葉のざわめきが足元で響く。深呼吸をひとつして、私は旧日方邸へ向かう決意を固めた。
街を抜け、山道を歩く。夕暮れに染まる木々の間を抜ける風は、どこか懐かしくもあり、胸を締めつけるようでもあった。旧日方邸の門が見えた。久しぶりに訪れる静寂な空間。過去の記憶と、今回の事象が混ざり合う。
玄関の扉をそっと開け、薄暗い室内に足を踏み入れる。埃っぽい空気が漂い、木製の家具が年月を語っていた。箪笥の引き出しを慎重に引き出す。中は空いていた。ここに、江戸期からソトの手記、そして私自身の手記をそっと置く。
一枚一枚、時代を越えて書かれた記録が、こうしてまた元の場所に戻る。手が触れた瞬間、まるで時間の流れがほんの少し穏やかになるような感覚がした。私はそっと息をつく。
「これで、少なくとも未来の誰かに、何かを伝えられるかもしれない」
引き出しを閉じ、扉に手をかける。静かに立ち去る。秋の夕暮れは既に山に沈みかけ、空は藍色に染まっている。外に出ると、風が一枚の落ち葉を舞い上げた。それを追うように、私は家路へと歩き出す。
歩みを進めながら、思う。今回の全ては終わった。モダンは寺に安全に保管され、博士は安らかに眠る。オリビア教祖は引退を決意した。私と佐藤は、再び静かな日常に戻る。だが、旧日方邸に置かれた手記が、未来の誰かに語りかけるその声は、まだこの場所に残っている。
私は深く息を吸い、秋の冷気を胸に取り込む。記憶と記録、そして過去と未来が静かに交差する中、私は足元の落ち葉を踏みしめ、ゆっくりと歩き続けた。
これで、私の役目も、一区切りだ。
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