第15話:密やかなる鼓動

王城の夜は、深く、そして静かだった。廊下の燭台の光はすでに消え、窓の外から差し込む二つの冷たい月だけが、石畳に奇妙な影を落としている。その光は、王城に永遠に存在する、冷たい「理」そのもののようだった。リグは、自室の窓辺に一人座っていた。窓ガラスに触れた指先が冷たく、その冷たさが、肌を粟立たせる。喉の渇きで声がかすれる。部屋の中には、暖炉の熾火が微かに赤く光を放ち、薪の焦げ付く匂いが、静寂の中に溶け込んでいた。暖炉の中で焚き木が「パチッ、パチッ」と爆ぜる音が、遠くで鳴り響く遠雷の残響のようにリグの耳に届く。暖炉の熱で乾いた唇が、ひび割れている。部屋の外には、護衛のグリムが立っている気配がする。彼の浅い息遣いと、わずかな衣擦れの音が、扉の向こうからかすかに聞こえていた。


(ああ、グリム。君は、こんなにも近くにいるのに、なぜ俺はこんなにも孤独なんだろう。幼い頃からずっとそうだ。誕生日の宴でも、周囲の人間は形式的な祝辞を述べるだけで、誰も俺を「リグ」と呼んでくれる者はいなかった。贈られた玩具には、誰も触れようとせず、ただ豪華な祝辞だけが、俺の孤独を囲い込んでいった。同年代の子供たちが、庭園で無邪気に遊んでいるのを、俺はいつも窓辺から眺めていた。あの時も、今と同じように、誰も俺のいる場所には来なかった。乳母も侍従も、俺を「王子」と呼び、敬語と距離で囲い込んできた。まるで、俺は動物園の檻の中にいる特別な生き物で、誰もその檻の中に入ってこようとしない。だが、グリム。君は違う。君は、この檻の外にいるのではなく、俺と同じ檻の中に、ただ静かに立っている。でも、君は、俺の孤独を埋めるどころか、逆に深めていく。君は、この部屋の、この月の光の、この孤独な匂いを、何も感じていないのだろうな。君は、ただそこにいるだけ。だが、俺は、君がそこにいるというだけで、こんなにも、心が張り裂けそうになる)


リグは、窓の外に広がる、月明かりに照らされた庭園を見つめた。その光景は、昼間の明るい庭園とはまるで違う、モノクロームの絵画のようだった。遠くで聞こえるフクロウの鳴き声が、リグの心をさらに沈ませる。孤独だった。王族として生まれた瞬間から、リグの人生は、孤独という名の檻に閉じ込められていた。誰もが、リグを「王子」として敬い、その隣に立つ者はいても、リグの心を本当に理解しようとする者はいなかった。だが、グリムは違う。彼は、リグの心を理解しようとすらしない。彼は、ただ、そこにいる。


(ああ、俺は、なぜ君に惹かれるのだろう。君は、俺が探している「理解者」ではない。君は、俺の孤独を、さらに際立たせる存在だ。もし君が、俺がどれほど孤独な人間かを、知っていたら?もし君が、俺のこの愛が、どれほど重いものかを、知っていたら?君は、俺のそばを離れてしまうだろうか。そして、もし君が、俺の孤独を埋めることができる唯一の存在だと、知っていたら……君は、俺を救ってくれるだろうか)


リグの喉が、乾いた音を立てた。その音は、部屋の静寂に吸い込まれ、どこにも届かなかった。彼は、誰にともなく、心の中でグリムに語りかける。窓の外で輝く二つの月は、冷たい永遠の「理」を象徴し、部屋の中で燃え盛る暖炉の火は、燃え尽きる運命を背負った俺の、儚い「情」そのものだった。その二つの光が、部屋の壁に、奇妙な陰影を落としている。


(君は、俺の孤独な夜に、灯る光だ。でも、その光は、俺の孤独を照らすだけで、俺の孤独を消し去ってはくれない。君は、俺の命によって存在している。だが、君の存在は、俺の孤独を深めている。これは、愛なのか?それとも、俺の勝手な妄想なのか?)


リグは、窓に映る自分の影を、じっと見つめた。その影は、窓の外の冷たい月明かりと、部屋の中の温かい暖炉の光によって、二重に重なり合っていた。その二つの影は、決して一つになることはなかった。


その時、扉の向こうから、わずかな足音が聞こえた。グリムが、部屋の前で、ゆっくりと歩き回っているのだ。それは、彼の職務を忠実に遂行している証拠だった。だが、リグには、その足音が、彼の自由を奪う、鎖の音のように聞こえた。


リグは、グリムがそこにいるというだけで、こんなにも心が張り裂けそうになる自分に、絶望した。そして、この孤独な夜が、いつか、血と契約の夜に繋がることを予感していた。二重に重なり合わない影は、いつか、血で濡れて一つになるのではないか、そんな不吉な連想が、リグの心を支配していた。

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