第14話:揺れる天秤

王城の執務室は、昼の光に満ちているはずなのに、どこか薄暗く、重苦しい空気が漂っていた。分厚い羊皮紙の書類が目の前に堆く積まれ、その紙はひんやりと冷たく、指先にしっとりとした湿り気を伝えてくる。窓から差し込む光の角度は緩やかに変わり、時間が進んでいることを示していたが、リグの心の中では、すべてが永遠に止まっているかのようだった。ペンを走らせるたびに、乾いたインクの匂いが微かに鼻をくすぐる。それは、この国の歴史と、王族に課せられた重責の匂いのようだった。リグは、その重みに、息が詰まるような苦しさを感じていた。ペンを持つ手が、小刻みに震えていることに、隣に立つグリムは無言で気づいていた。グリムの体からは、書庫で感じた古木の香りが、執務室の重苦しい空気とは異質な、清らかな香りを放っていた。その匂いを吸い込むたびに、リグは、胸の奥に、グリムの存在が溶け込んでいくような錯覚を覚えた。


(ああ、グリム。俺の心は、今、二つの重りで、激しく揺れている。一つは、君への愛。もう一つは、王国の未来。この天秤は、どちらか一方を選ばなければならない。もし、俺が君を選べば、この国は……。もし、俺が国を選べば、君は……)


リグの脳裏に、伝承書に記されたあの残酷な言葉が、何度も何度も蘇る。それは、書庫で見た埃の粒のように、揺れる光の粒となって、リグの視界にちらついていた。目の前の書類に書かれた文字が震え、踊り、グリムの無表情な顔に変わっていく。


「王家の命が尽きるとき、守り神もまた、共に消え去る」


その言葉は、まるでリグの心臓に突き刺さった、鋭い氷の刃のようだった。その刃は、刺さるたびに、リグの心臓を抉り、冷たい痛みを全身に広げていく。リグは、胸の奥で、その痛みがドクン、ドクンと激しく脈打つのを感じた。その鼓動は、まるで心臓が、自らその刃で自らを刺し続けているかのようだった。


リグは、グリムの存在が、王族としての自分を蝕んでいるのではないかという、新たな恐怖に襲われた。グリムの存在は、リグにとっての光であり、希望であったはずだ。だが、この伝承を知ってしまった今、グリムは、リグを蝕む毒にもなり得ると、リグは感じていた。彼の存在は、リグを王族としての義務から遠ざけ、個人的な愛という、王には許されない領域へと誘う。それは、この国を滅ぼす道に他ならない。


(グリムは、俺の命によって存在している。だが、俺が君を愛せば愛するほど、俺の心は、王国の未来から遠ざかっていく。グリム。君の存在は、俺の愛を深める一方で、俺を、この国を滅ぼす道へと誘っているのではないか?この天秤は、どちらか一方を選ぶしかない。もし、俺が君を選べば、この天秤は、均衡を失い、奈落の底へと落ちていくのだろうか?その落ちていく音は、どんな音だろうか?きっと、君と俺の心臓が、二つに引き裂かれる音だろう。いや、違う。それは、この国が、音を立てて崩れ落ちていく音だ。その音を、俺は聞かなければならないのか?君を愛するために、この国を滅ぼさなければならないのか?)


リグは、ペンを置き、両手で顔を覆った。彼の顔色は、青白い。その様子に、グリムが、無言でリグの隣へと歩み寄った。床板がミシリ、とわずかに軋む音が、リグの耳に届いた。グリムの体から放たれる温かさが、リグの顔に触れる。それは、昼の光を浴びて温められた、彼の肌の温かさだった。リグの呼吸に合わせ、グリムの匂いがかすかに濃くなる。しかし、その温かさは、リグの胸に突き刺さった氷の刃を、さらに深く突き刺す。グリムは、リグの苦しみの原因が、自分自身であることに気づいていない。その無知さが、リグの苦しみを、さらに深く、鋭くしていた。


(グリム……。君は、俺の苦しみを、理解しているのか?いや、違う。君は、ただ、俺の体調の異変を、護衛として察知しただけ。君は、俺の心の苦しみを、理解することはできない。君は、ただ、そこにいるだけ。だが、君がそこにいるだけで、俺は、こんなにも、心が救われる)


グリムは、リグの顔に触れていた手を離し、静かに元いた場所に戻った。その一瞬の温かさが、リグの心を、再び激しく揺さぶった。リグは、グリムへの愛と、王国の未来という、二つの重りが乗せられた天秤を、いつか決断しなければならないことを予感していた。


(この天秤の皿の上には、何が乗っているのだろう。右の皿には、重く輝く王冠。それは、この国の歴史と、何万もの民の命。左の皿には、君の姿。ただ、そこに立つ、何も知らない君の姿。その天秤は、静かに、しかし確実に、左に傾き始めている。俺は、王冠よりも、君を選んでしまうのだろうか?そして、その決断は、この国を滅ぼすのだろうか?)


リグは、深く息を吸い込み、そして、静かに吐き出した。吐き出した息は、どこにも届かず、ただ、執務室の重苦しい空気に溶けていった。天秤の鎖が、キィ、と軋むような幻聴が聞こえた。その音は、リグの心臓に突き刺さった氷の刃を、さらに深く突き刺した。そして、その音が、いつか、この国の崩壊を告げる鐘の音になるのではないかと、リグは予感していた。


リグは、グリムの無知に苦しみながらも、彼の存在が、唯一の救いであるという、矛盾した美しさに気づいていた。この矛盾こそが、この国の運命を揺るがす、天秤の重りなのだと。

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