寄虫の観察

奥左

 寄生


 夕食の食卓を片付け終えた頃、山田は壁の隅に異変を見た。

 細く黒い線のようなものが一本、ゆっくりと上へ伸びている。最初はただの髪の毛かと思ったが、動きがある。節のある脚だった。


 「六本……いや、七本に見えるな」

 無意識に呟く。昆虫は通常六本脚だが、何らかの奇形で七本目が生えている種も稀にいる。たとえばカマドウマには異常脚の報告がある——そんな知識が反射的に浮かんでくる。


 しかし、これは見慣れた種ではなかった。体は小豆ほどで、あまりに脚が細長すぎる。針金のようにしなり、音もなく壁を這っていく。


 「ゴキブリに似ているが、光沢がない。脚の比率はアメンボに近い……」

 山田は思わずスリッパを手に取り、振り下ろした。だが虫は驚異的な速さで影に逃げ込んだ。


 「見逃した」

 それが悔しかった。山田は観察し、分類し、結論を出すのが好きだった。捕らえられなければ、証明もできない。


 その夜。

 ベッドで読書していると、視界の端にまた黒い影が揺れた。天井の角に一匹、いや二匹、三匹。すでに増えていた。


 「コロニー性か? それとも繁殖速度が尋常でないのか……」

 呟きながら、丸めた雑誌で叩き潰した。床に落ちた個体を観察する。潰れた断面から、乾いた黒い体液がにじみ出ている。血ではなく、昆虫特有のヘモリンパ。銅を含むため緑がかった色をしているはずだが、暗くてよく見えない。


 ほっと息をついた瞬間、耳元で「かさり」と音がした。振り返ると、シーツの上を別の虫が這っていた。


 「どこから……」

 眠れぬ夜が始まった。


 翌朝。

 山田は家中を調べ、台所の流しの下で微かな隙間を見つけた。排水管の影に、風が通う穴がある。湿り気のある空気が、そこから吹き出している。


 彼は殺虫スプレーを手に取り、細いノズルを突っ込んだ。シューッと白い霧を放つと、数秒後に黒い虫がふらふらと這い出してきて、床に落ちた。


 「効いているな」

 だが次の瞬間、二匹、三匹と続いた。まるで奥に巣があるかのように。


 「なるほど……これは『集団営巣性』だ。シロアリやクロアリのように、女王を中心に繁殖しているのかもしれない」

 彼の声はどこか嬉しそうだった。恐怖よりも、未知の系統を発見した興奮の方が勝っている。だが、何かぞっとする感覚があとから遅れて背筋を撫でた。


 三日後。

 虫は昼夜を問わず現れるようになった。壁、床、食器棚、洗濯物の間。数は十や二十ではない。


 夜、眠っていると頬の上を這われた。飛び起きると、鏡に赤い線が残っている。脚の感触は夢ではなかった。


 山田は鏡に向かって分析を始める。

 「触覚は短い。餌はおそらく有機物の微細片。人間の皮膚やフケを食べている可能性が高い。ならば、これは寄生性の前段階か?」


 彼は観察記録をノートに書き溜めた。分類不能の新種、外部形態はクモガタ類にも似るが六本脚……。だが「不明」の欄がどんどん増えていった。

 新種の虫だか昆虫ではない特性もある。そんな予感があった。

 一週間後の夜。

 山田は決断した。流しの下の隙間を、セメントで塞ぐのだ。


 工具を広げ、懐中電灯を点けて戸棚を開ける。湿った匂いが押し寄せ、影の奥に黒い塊が見えた。


 「やはり、ここか……」

 光を当てると、それがざわりと動いた。


 無数の細い脚が一斉に持ち上がり、絡み合い、束となってうねる。群体だ。まるでムカデの体節のように、個体同士が一つの生命体のように動いている。


 「集合的知性?」

 山田は息を呑む。ミツバチやアリの社会行動に似ている。だが、これは一匹の女王ではなく、全個体が合体し巨大な意思を形成しているかのようだ。


 次の瞬間、束から数百の個体がばらけた。

 床を、壁を、天井を、同時に埋め尽くす。


 脚が腕に、足に、首筋に触れる。服の内側に潜り込み、耳の穴を探り、口の端をつたって入り込む。


 「クソっ! だが、観察をしなければ!」

 山田はもがきながら、なお冷静に分析しようとした。だが視界は黒い点に覆われ、声は咽に詰まり、思考さえも虫の蠢きに飲み込まれていった。

 翌朝。

 山田の家は静まり返っていた。

 床や壁を、小さな黒い影が無数に這い回る。やがて群れはソファの隙間や冷蔵庫の下に吸い込まれるように散り、姿を消した。


 台所の流しの下だけが、なお震えている。

 戸棚の奥から「かさり、かさり」という音が絶え間なく響き続ける。


 その音は、山田の観察記録に書かれた最後の一行を思わせた。


 「この虫は家という構造を宿主とし、人間の生活様式を把握し、まるで人間が家に寄生しているかの様に仕向けている」


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