第5話

「……私と、恋の練習をしてくれませんか」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。

どう答えればいいか、分からない。


俺は昔から頼まれると断れない性格だ。

学生時代、クラスの雑用を全部引き受けて、結局は抱えきれずに迷惑をかけたこともある。

あのとき「お人好しって罪だよね」と笑われたのが、いまだに胸に残っている。


だから、本当なら即座に断るべきなんだ。

彼女は芸能人で、俺はただのカフェ店員。釣り合うわけがない。

このお願いに頷いたら、また誰かを傷つけてしまうかもしれない。


……でも。


顔を上げた先で、美月は不安げに俺を見ていた。

“国民的女優”じゃない。どこにでもいる二十歳の女の子の表情で。


「……俺で、いいの?」

気がつけば、その言葉が口をついていた。


「陽さんだから。私を“美月”として見てくれるの、陽さんだけだから」


その瞬間、心臓が強く跳ねた。

どうしても断れない理由が、またひとつ増えてしまった。


「……わかった。練習、……練習なら」


口ではそう言いながら、胸の奥では分かっている。

これは、練習で済むはずがないって。


「……陽さんって、本当にお人好しですよね」

カウンター越しに、美月が少し笑いながら言った。

その声音は責めるようなものじゃなく、どこか優しい。


「お人好し、か。まあ、昔からそう言われてたな『お人好しって、罪だよね』って」


苦笑混じりに言うと、美月の目がぱちりと瞬いた。


「……そんなこと言う人がいるんですね」


小さな声でそう呟いて、美月はカップの縁を指でなぞる。


「でも、私は……陽さんみたいな人、素敵だと思います」


思わず手が止まる。

夕日の光を受けて、彼女の横顔がほんのり赤く見えた。

胸の奥が、静かに揺さぶられる──。

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