国民的女優はカフェで恋の練習はじめます

柚木あかり

第1話


夏の匂いがする。


撮影終わりの車から、逃げるように飛び出した。

キャップをぐいと深く被り直し、駅の喧噪を背に人目を避けるように路地へ足を進める。


どうか。誰も私を知らない場所で呼吸がしたい。

見つかれば、また私は──‪”‬国民的女優、朝比奈美月‪”‬に戻ってしまう。


角を曲がった先で目に入ったのは、木の香りが漂う古い扉だった。〈OPEN〉とぶら下がる看板に惹かれるように、そっと手をかける。


カラン。

軽やかなベルが、静かな空気を揺らした。


「いらっしゃいま──」


カウンターに立つ青年と視線が交わる。

驚いたように大きく見開かれた瞳に、胸の奥がざわつく。

……ああ、ここでもダメかもしれない。

思わず一歩、後ずさろうとしたその時。


「っ……お好きな席へどうぞ」


戸惑いを隠しきれない声。けれど、真っ直ぐであたたかい眼差し。

その目に導かれるように、朝の光が差し込む店内へと進み、私はカウンター席に腰を下ろした。


「お冷です」

差し出されたコップはわずかに震えていて、思わず笑みがこぼれる。可愛らしい人だな、と。


「モーニングをひとつ」

「かしこまりました」


くるりと背を向け、手際よく作業を始める青年。

コーヒーの落ちる音。トーストの焼ける匂い。

そして、動きに合わせてふわふわと揺れる黒髪。


磨き込まれたカウンター。窓辺の鉢植え。

誰も、彼も、私を気にしていない。


胸の奥に溜めていた緊張が、ゆっくりと解けていく。

ほっ──と肩の力が抜けた瞬間。


……ただひとり、カウンターの向こうの彼だけは。

少しだけ、違うような気がしたけれど。


「お待たせしました。当店自慢のモーニングセットになります」


差し出されたプレートの上には卵とトースト。あと色鮮やかな野菜たち。


「添えてあるのはからしマヨネーズです。お好みでどうぞ」


そう言ってクロスで台を拭きあげる作業に戻る。

あたり前のように差し出された優しさに、また心が揺れ動く。

ぱくりと口に運んでみる。

いつものような洗礼された味ではない。でもどこか懐かしい味わいに本音がもれる。


「……美味しい」

「っ……良かった。お口にあって」


照れたような顔は、まるで小さな花がほころぶよう。

いつも私が見ている仕事での笑顔じゃないそれに。胸の奥で、静かに溶かされてしまいそう。


常連が数人席を立った頃。

彼がぽつりとこぼした。


「……あれ、トマト苦手でした?」

「っ……!」


ばっと顔を上げ、彼を見上げる。

バレたという恥ずかしさと、‪”‬朝比奈美月‪”‬がたかがトマト一つに赤面するだなんて。

ああ、こんなの。お芝居よりずっとむずかしい。

顔に熱が集まりかけた時。


「よかったら別のものとお取り替えしますよ? ちょうど、新商品の試作があるんです」


ぜひ試してください。

そう言って彼は冷蔵庫から何かを取り出す。

目の前に出されたそれは、小さな小鉢に盛られたポテトサラダ。


「わぁっ……」


きらきらと目が輝くのが自分でもわかる。

その証拠に、彼もまた嬉しそうに笑ったから。


カラン。

と軽やかな音が響き渡る。

彼の視線がそれに釣られて入口へと奪われた事に、少しの落胆を感じた。


「おはよう陽くん! 今日も人が少ねぇなぁ!」

「(よう、くん……?)」


(……陽さん)

心の中でそっと呼んでみる。

けれど声には出せない。名前に触れただけで、どうしようもなく距離が近づいてしまう気がして。


「いらっしゃいませ。いきなりなんですか、まったく。今日もいつものですね」

「はっはっは! わりぃわりぃ! よろしく頼むわ!」


常連さんだろうか。

恰幅のいい中年男性が、ドカドカと音を立てながら隣の席へ着く。


「お、珍しいな新顔さんか?」

「っ……!」


ふいに声をかけられ体がびくりと揺れる。

顔を見られないように俯きながら、どうも。と軽く会釈した。


「ん~~? あんたどっかで見たような……」


やばい、ばれた……!

覗き込まれて、咄嗟に反対を向くも冷や汗が背中を伝っていく。

せっかくの居場所を見つけたと思ったのに……。

脳裏に浮かぶのは興味本位でぶつけられる、心無い言葉や視線の数々。

どうしようかと戸惑っていると。

スっと常連さんの目の前に影が重なった。


「今日来てくれた方ですよ。うちのモーニングを気に入ってくれたんです」


コーヒーのカップを置きながら、彼。陽さんの腕が私と常連さんの間に差し込まれる。


「おぉ、……そうか! そりゃ嬉しいことだな!」


さぁ飯だ飯!

なんて言いながら常連さんも姿勢をカウンターへと向き直る。

カラリとした常連さんにも。カウンターにいる陽さんにも呆気にとられる。

もしかして……庇ってくれた?

チラリと覗きみれば。

ふいと視線が外される。

その耳は心配になるほど真っ赤だ。

え、え、? どういうこと? まさか本当に私のために?

そんなわけは無いと思うも、心臓は嘘をつき続けている。

戸惑っていると陽さんの視線がこちらを向き。


「(……ひみつ)」


短い無音が流れる。

彼の唇が開き、閉じた瞬間まで、はっきりと焼き付いて離れなかった。

瞬間。


「っ……!」


ぼんと顔から熱が飛び出す。

少しいたずらっ子のよう笑みで、口が言葉を音もなく紡いでくれた。

その姿に、かぁっと体の熱が上がり、息をのむ。高鳴る鼓動が耳の奥で鳴り止まない。

この人は、……なんて人なんだろう。

陽さんはそんな私の事なんか気が付かない。

カップを丁寧に一つ一つ磨き上げていく。

その姿にもう私は目を離すことが出来ない。

店内に流れるBGMも、扇風機の音も。外で鳴いている蝉でさえ今の私の耳に届くことは無いし。

コーヒーの香りも、外から吹き込む夏の匂いも、今の私を惹きつける材料にはならない。

この暑さは、背中に感じる夏の日差しだけのせいではきっと無いのだから。

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