第二話 傾いた天秤
大使殺害の報は、一夜にして、アストラルム全土を震撼させた。
評議会が緊急招集され、エレジア王国の使節団からは、副官を筆頭に、厳しい追求と抗議が突きつけられた。
「これは、明白な敵対行為だ!大使閣下は、貴公らの手厚い歓迎の最中、厳重な警備の中で殺害されたのだ!この事件は、貴都市の錬金術師にしか扱えない幻影毒によって引き起こされた。このような状況で、我々が貴公らの意図を疑わないとでも思うか!」
評議会の議長が弁明しようとするが、怒れる副官の耳には届かない。
「言い訳は無用!この件を宰相閣下にご報告する。裁きを待つがいい!」
使節団は、翌朝には早々とアストラルムを離れ、エレジア王国へと帰還してしまった。
後に残されたのは、絶望的な状況だけだった。
数日後、王国から届いた最後通牒は、あまりにも過酷なものだった。
『一か月以内に、真犯人を特定し、その身柄を王国へと引き渡せ。それができぬ場合、アストラルムを「テロ支援国家」と認定し、王国軍をもって、貴都市を海上から完全封鎖する』
アストラルムは、存亡の危機に立たされた。
この都市は、食料や一部の物資を外界からの交易に依存している。
海上封鎖は、それらの生命線を完全に断ち、都市を内側から崩壊させるだろう。
何より、外界の脅威から数百年間もの間隔絶されていたこの都市にとって、それは、単なる経済的な制裁を遥かに超えるものだった。
目の前に王国軍が展開するという状況は、軍事的な脅威以外の何物でもなかった。
数百年ぶりに外界へ開かれた扉が、いま、再び閉ざされようとしていた。
重苦しい空気が支配する評議会の会議室で、アゼルは、ただ無言でその通牒を読んでいた。
評議会の長老たちは、責任のなすりつけ合いを始め、都市を救うための具体的な方策を一つも打ち出せずにいた。
「私がやります」
その時、会議室の沈黙を破り、アゼルが静かに、しかし揺るぎない声で言った。
「この事件、我々、都市真理探求室が引き受けます」
ガイウスは、その言葉を待っていたかのように、力強く頷いた。
「わかった。俺たち守衛隊も、総力を挙げて協力する。だが、一つだけ確認させてくれ。なぜ、お前がそこまでして、この事件に関わろうとする?」
ガイウスの問いに、アゼルはためらうことなく答えた。
「この事件に使われた幻影毒が、私の過去と、何らかの形で繋がっているような気がするんです。この違和感を無視することは、錬金術師として、いや、探求者として、できません」
その言葉に、ガイウスは何も言わなかった。
アゼルの決意が、単なる責任感だけではないことを、彼は知っていたからだ。
その日の夜、都市真理探求室は、さながら臨時の捜査本部と化していた。
ガイウスが手配した守衛隊員たちが、事件現場である迎賓塔の見取り図を壁に貼り付け、現場から採取された証拠品の数々をテーブルに並べていく。
アゼルとリリアは、まずは事件現場の再調査を開始した。
ヴァロワ大使の私室は、事件発生時のまま、厳重に封鎖されている。
鍵を開け、中へ足を踏み入れた途端、リリアは思わず息を呑んだ。
「…先輩、すごい魔力の
彼女の言葉通り、部屋の空気は重く、嫌な熱を帯びていた。
それは、事件当時の、強い負の感情が、幻影として空間に染み付いている証拠だった。
リリアは、最新の錬金術を用いて、部屋に残された魔力の残滓を分析していく。
彼女が調合した特殊な試薬が、部屋の隅々で、微かに青白い光を放ち、魔力の流れを可視化していく。
「ダメです、室長。幻影毒の基本的な組成は分かりますが、あまりに純度が高すぎて、個人の特定に繋がるような不純物が一切検出できません。これほどの技術を持つ者は、学院でも数えるほどしか…」
彼女の報告は、手詰まりを意味していた。
幻影毒の使い手は、自身の痕跡を消すことに長けた、熟練の錬金術師である可能性が高い。
一方、アゼルは、大使の遺体があった書斎の椅子に近づき、そっと手をかざした。
目を閉じ、意識を集中させる。
彼の脳裏に、あの時感じた、幻影毒の残滓が蘇る。それは、ただの毒ではなかった。
特定の記憶を強制的に増幅させ、その恐怖によって精神を破壊する、悪魔の術式。
その術式の中心に、アゼルは、一つの、奇妙な「香り」のようなものを感じ取っていた。
それは、物理的な香りではない。幻影だけが持つ、情報の匂い。
そして、その匂いは、彼が長年見続けてきた、灼熱の炎と、人々の絶叫…あの悪夢の匂いと、酷似していた。
「うっ…!」
アゼルは、突如として襲ってきた激しい頭痛に、思わずその場に膝をついた。
「先輩!?」
リリアが、慌てて駆け寄る。
彼の脳裏で、固く閉ざされていた過去の記憶が、今にも溢れ出そうとしていた。
(なぜだ…なぜ、この事件が、俺の過去を…?)
捜査は行き詰まった。物理的な証拠は何もなく、幻影的な痕跡も、アゼルの悪夢に触れるだけで、具体的な情報には結びつかない。
都市の内部でも「犯人は本当にいるのか」「評議会が何かを隠しているのではないか」という不信感が渦巻き始めた。
アゼルとガイウスは、現場の捜査と並行して、関係者への聞き込みを行うことにした。
特に、外界との交流に最も強硬に反対していた、保守派閥の長老、ヴァレリウスという名の錬金術師の言動が、アゼルには気になっていた。
「大使が席を立たれた後、何か変わったことは?」
アゼルが尋ねた。
「何もない。我々は、ただ黙って、エレジアの使節団の馬鹿どもが繰り返す無意味な質問を、聞き流していただけだ。なぜなら、儂らの意思は、彼らには最初から伝わらないからだ」
ヴァレリウスは、尊大な態度で答えた。
彼の表情は、一見、怒りに満ちているが、アゼルは、その瞳の奥に、どこか、安堵のような色を感じ取った。
(何に、安堵している…? この状況で…?)
アゼルは、その問いに答えを見いだせないまま、聞き込みを終えた。
それから数日経ったある日の午後、アストラルムの港に、一隻の、黒い船が、霧を切り裂くようにして現れた。
掲げられた旗は、白銀の鷲。エレジア王国の宰相直属の船だった。
タラップを降りてきたのは、アゼルとリリアもよく知る、二人の人物だった。
鋭い鳶色の瞳を持つ、若き宰相、カイル・ヴァーミリオン。
そして、その隣には、柔らかな亜麻色の髪を持つ、宰相特使のリィナ。
カイルは、出迎えた評議会の面々には目もくれず、まっすぐにアゼルの元へと歩み寄った。
「久しぶりだな、アゼル・クレメンス室長」
その声には、再会を喜ぶ響きはない。
ただ、同じ探求者としての、静かな共感だけがあった。
「大使の件、君が調べていると聞いて、直接来た。これは、もはや単なる外交問題ではない。もっと根深い、何か別の問題だ。私も、私のやり方で、真実を追う。そのために、君の力が必要だ」
それは、詰問でも、要求でもない。
一人の探求者から、もう一人の探求者への、対等な協力の要請だった。
そして、その瞳は、アゼルに、こう告げていた。
(俺は、お前と同じ、答えを求めている)
アゼルは、その瞳の奥に、深い孤独と、彼を突き動かす、揺るぎない探求の意志を見た。
その瞬間、アゼルは、この男が、自分の運命と深く結びついていることを、直感的に悟った。
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