第五話 番人との対話

 最後の扉の向こうは、静寂と光に満ちた、広大な聖域だった。

 そこは、ドーム状の巨大な空間で、壁も床も、全てが穏やかな光を放つ乳白色の水晶でできていた。

 そして、その空間の中心に、一つの巨大な結晶体が、静かに浮かんでいる。

 それは、まるで都市そのものの心臓のように、ゆっくりと、そして確かに脈動していた。

 眠り病の原因となった「鳴らない鐘」。

 その音源だ。

 だが、その音は、二人の耳には聞こえない。

 代わりに、その脈動は、魂を直接揺さぶるような、荘厳で、しかしどこか悲しげな波動となって、空間全体を満たしていた。

 記憶を失ったアゼルは、その光景を、ただ呆然と見つめている。

「ここは…どこだ…?私は、なぜ、ここに…?」

「思い出してください、先輩!」

 リリアは、彼の前に立ち、アゼルからもらったアミュレットを、彼の目の前に突き出した。

「これは、先輩が、初めて賢者の石の合成に挑戦した時の、失敗作です!純度が足りなくて、ただ光るだけの石ころだって、悔しがっていました!でも、私は、その石が大好きで、先輩が捨てようとしたのを、無理やりもらったんです!だって、それは、先輩の努力の、最初の結晶だったから!」

 アゼルの瞳が、アミュレットの放つ、不格好で、しかし温かい光を捉えた。

 彼の脳裏で、固く閉ざされていた記憶の扉が、激しい音を立ててこじ開けられていく。

 断片的なイメージが、奔流のように彼の意識を駆け巡る。

 リリアの笑顔、ガイウスの苦々しい顔、セラフィーナの謎めいた瞳、そして、この都市を救うと誓った、自分自身の、固い決意。

「…リ…リア…?」

 彼の瞳に、再び、確かな光が宿った。

「…ああ、思い出した。俺は…」

「おかえりなさい、先輩!」

 リリアの瞳から、安堵の涙が溢れ落ちた。


 その時、二人の前に、塔の中心である結晶体コアから、一つの人影が、光の粒子となって現れた。

 それは、性別も年齢も分からない、中性的な、美しい光の存在だった。

 塔の防衛システムの、中核をなす意志。

 塔の番人だった。

『…我が試練を乗り越え、ついにここまでたどり着いたか、人の子らよ』

 番人の声は、この空間の波動そのものとなって、二人の魂に直接響いた。

『だが、これ以上先へは進ませぬ。汝らの行いは、この都市の安寧を乱す、致命的な脅威に他ならぬ』

「違う!」

 アゼルは、完全に覚醒した思考で、番人に反論した。

「俺たちの浄化作業は、この都市を救うための、唯一の道だ!」

『否。汝らの行いは、我が主である創設者たちが、自らの命と引き換えに封印した、禁忌の記憶を呼び覚ましている。その結果、結界には、許容値を超える歪みが生じた。故に、我は、我が論理に基づき、最も効率的な方法で、その歪みの原因を排除する。即ち、都市機能の負荷となる、市民の意識活動を、一時的に停止させる』

 それは、セラフィーナが語った通りの、あまりに冷徹で、絶対的な論理だった。

「その論理が、間違っていると言っているんだ!」

 アゼルは、一歩前に進み出た。

「お前の言う通り、俺たちの浄化作業は、結界に一時的な負荷をかけているかもしれない。だが、それは、病巣を取り除くための、治療に伴う痛みに過ぎない!このまま『記憶の残滓レムナント』を放置し続ければ、いずれ結界そのものが、内側から汚染され、崩壊する!その時こそ、この都市は、本当の終わりを迎えることになるんだ!」

『確率論の問題だ。汝らの言う未来は、あくまで可能性の一つに過ぎぬ。対して、我が計算によれば、現状を維持し、負荷を段階的に軽減していく方が、都市が存続する確率は、8.7%高い』

「その計算に、人の心は含まれているのか!」

 アゼルの叫びに、番人は、初めて、理解できないというように、その光の輪郭を揺らめかせた。

『心…?それは、計算を狂わせる、不確定要素。排除すべき、誤りバグだ』

「違う!」

 今度は、リリアが叫んだ。

 彼女は、鞄から、純度99%の賢者の石の結晶を取り出した。

「これを見てください!これは、アゼル先輩の、完璧な理論と、私の、不完全だけど、諦めなかった実践。その二つが合わさって、初めて生まれた結晶です!論理だけでは、生まれなかった!心だけでも、作れなかった!不完全なもの同士が、手を取り合うことで、初めて、新しいものが生まれるんです!あなたの言う完璧な世界は、何も生まれず、ただ静かに朽ちていくだけの、美しい墓場です!」

 リリアは、その賢者の石を、祭壇の中心へと、そっと置いた。

 賢者の石は、彼女の強い想いに応えるかのように、温かい、生命力に満ちた光を放ち始めた。

 その光は、塔の番人の、冷たい、論理的な光と、混じり合った。

 そして、奇跡が起きた。

 結晶体コアの脈動が、ほんのわずかに、そのリズムを変えたのだ。

 機械的だった鼓動に、温かい、生命の響きが、加わった。

『…理解、不能…。我が論理体系に、未定義の変数が入力された…。再計算…再計算…誤作動エラー誤作動エラー…』

 番人の光が、激しく明滅を始める。

 絶対的な論理の怪物が、初めて、論理では割り切れない「心」という名の変数に触れ、混乱しているのだ。

 アゼルは、その好機を見逃さなかった。

「今こそ、俺たちの研究の成果を見せる時だ!」

 アゼルとリリアは、アイコンタクトを交わすと、懐からそれぞれ、数十枚の術式が刻まれた羊皮紙を取り出した。

 そして、二人は、祭壇の周囲を移動しながら、羊皮紙を床に配置していく。

 それは、彼らがこの一年、血の滲むような努力の末に完成させた、新しい浄化術式だった。

 ヴァンスの理論を基に、アゼルの論理と、リリアの実践的な知恵、そして、セラフィーナが禁書庫から見つけ出した、古代エルフの調和の術式。

 その全てが組み合わさった、究極の立体魔法陣。

「起動する!」

 アゼルとリリアが、同時に魔法陣の中心に手をかざす。

 魔法陣は、まばゆい光を放ち、その力を、結晶体コアへと、優しく、そして力強く、注ぎ込んでいった。

 それは、汚染を無理やり消し去るための力ではない。

 傷つき、歪んでしまった結晶体コアの鼓動を、正常なリズムへと導くための、癒やしの力だった。

『…歪み、修復…負荷、軽減…。脅威では…ない…。これは…治療…』

 番人の声から、敵意が消えていく。

 そして、光の体は、ゆっくりと、その形を解き、再び塔の結晶体コアへと、溶けるように還っていった。

 静寂が戻った神殿で、塔の結晶体コアは、新しい、力強く、そして温かい鼓動を、静かに、そして確かに、刻み始めていた。

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