忘れられたバカ
@QDDUyiWa
第1話 「バカ、朝から転ぶ」
朝の商店街は、いつものようににぎやかだった。
魚屋の氷の音、パン屋からただよう甘い香り、八百屋の呼び声。
その中を、ひときわ大きな声で笑いながら歩く男がいた。田中タロウ、三十歳。町では知らぬ者のいない「バカ」と呼ばれる男だ。
その日も、彼は八百屋の前で派手に転んだ。足元に置かれていた段ボールにつまずき、見事な勢いで宙を舞う。手にしていた買い物袋からはネギが飛び出し、リンゴ箱にぶつかってリンゴが道へ転がった。
八百屋のオヤジ:「おいタロウ!何やってんだよ、またか!」
タロウ:「あはははは!いやぁ〜今日も地球に抱きしめられたな!俺モテモテだよ!」
彼は地面に倒れたまま、両手を大きく広げて芝居がかったポーズをとる。
それを見て周囲の客たちがクスクスと笑い出す。
中には「朝から元気でいいねえ」と笑顔を見せるおばさんもいた。
通りすがりの子どもが母親に言う。
子ども:「ママ、あの人バカだね!」
タロウ:「その通り!おじさんは町公認のバカだからな!君が笑ってくれたら、それが俺の勲章だ!」
わざと胸を張って言うタロウ。母親は少し気まずそうに笑いながら子どもの手を引き、その場を去った。
八百屋のオヤジはリンゴを拾い集めながら苦笑する。
八百屋:「ったく、お前が通ると商品が逃げ出すんだよ。少しは気をつけろよ」
タロウ:「へへっ、ごめん!でもさ、リンゴが散歩したくなるくらい、ここの空気が気持ちいいんだよ」
オヤジはため息をつきつつも、口の端を少しだけ上げた。
結局、タロウが笑いを振りまいたことで、その場の空気は明るくなっていた。
タロウは立ち上がり、リンゴを拾って八百屋に返すと、誇らしげに胸を張って歩き出した。
通りの人々は、振り返って彼を見て笑顔を浮かべる。
町にとって、タロウの存在は朝の目覚ましみたいなものだった。
しかし、笑顔で手を振りながら歩いていたタロウは、角を曲がって人気のない裏路地に入ると、ふっと表情を緩めた。
顔の筋肉が疲れたようにだらりと下がり、ため息が漏れる。
タロウ(心の声):「……今日も、みんな笑ってくれた。うん、それでいい。それでいいんだ……」
彼はポケットから小さなノートを取り出し、何かを書きつける。
そこには「今日も誰かを笑わせられたか?」と書かれており、その下に「八百屋のオヤジ◎」「通りすがりの子ども◎」とチェックが入れられた。
タロウはページを閉じて、少しだけ空を見上げた。
タロウ(小声で):「……でも、本当は、俺も笑わせてもらいたいんだよな」
その言葉は、誰にも届かない。
路地裏の静けさだけが、彼の声を吸い込んでいった。
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