第一章 貝瀬真人 3

 八月十九日

 観察初日。

 午前中の早い時間から、僕は内線の鳴る音で目を覚ました。

 まだ窓の外は藍色で、電話をかけるには非常識と言わざるを得ない時間だ。どうやらあの植田という研究員には常識というものをあまり期待しない方がよさそうだ。

 内心でそんなことをごちながら受話器を取ると、寝起きということを悟られないために、声を張って応答した。

「はい、もしもし」

「ああ、ごめん。今起きたところだった?」

 僕の配慮を汲むことなく、植田は無遠慮にも一言で僕が寝起きであることを指摘した。デリカシーの無さに、少しの憤りを覚える。

「用件は何ですか?」

「今日から君の業務が始まるから、その説明をと思ってね。場所は隣の研究棟。迎えに行くから、宿舎のエントランスで待ち合わせよう」

「支度したらすぐに向かいます」

 電話が切れた。

 言いたいことは山ほどあるが、初日から不満を垂れてばかりではいられない。僕は顔を洗い、身支度を済ませると、小走りでエレベーターまで向かい、一階のボタンを押した。

 エントランスで僕を待っていた植田の出で立ちは、以前会った時と何ら変わりなかった。早朝だというのに曇り一つない表情は、寝ていない人間のそれである。

「おはよう。準備はできてる?」

 一晩煮詰められた濃厚なテンションで朝の挨拶をする植田に対して、僕はまだ半分寝ている身体を無理やり起こして返事をする。

「一応は」

 僕の返事に、植田は大した反応を見せることなく、先に立って歩き始めた。向かう先は電話で言っていた研究棟。それは僕が寝泊まりしている宿舎のすぐ隣にあった。

 暗闇の中にある研究棟は、宿舎の二倍ほどの高さがあり、明け方だというのにちらほらと明かりがついているフロアが目に入る。大変そうだなと、他人事のように内心でつぶやくが、もしかしたら自分も明日からはあの部屋にいる可能性もゼロではないことに気づき、悪寒が走った。

 そんな僕の様子を察した植田が、小さく笑いながら、

「君には拘束時間も何もないから、自由に自分のペースでやってもらって構わないよ」

 と、安心させるように言った。

 そう言えば、植田は僕の仕事は少女兵器の観察とケアだと言っていたが、具体的にどのようなことをするのだろうか。気になった僕はそのことについて尋ねた。

「詳しいことは後で話すけど、君にしてもらいたいのは彼女たちと関係を築いて、お互いを知っていく過程を踏むこと、かな」

 植田はそう答えた。

 てっきりモニター的な観察を想定していた僕は、案外実践的な内容に少し驚く。

 寝起きの人間と、完徹の人間の会話はそれから続くことなく、僕たちは沈黙を抱えながら研究棟に入ると、エレベーターを呼ぶ。さすがにこの時間だと、エレベーターは一階で僕たちのことを待っており、すぐに扉が開いた。

 植田が押したボタンはかなり上のフロアだったため、到着するまでにやや気まずい時間が流れることを想定した僕は、場つなぎの意味合いも込めて再び質問を投げた。

「僕は、どうして記憶を失っているんでしょう?」

 僕の質問に、植田は少し苦い表情をしたような気がした。もっとも、僕の位置からは植田の表情の機微は分からないので定かではないが。

 少しの沈黙の後に、植田から返ってきた答えは要領の得ないものだった。

「それ自体、いずれ君自身が思い出すのだから、今私が教える必要はないんだよ」

「記憶が戻るのはいつなんですか?きっとあなたも、僕の同僚だったのでしょう?でもまるで初対面のようにしか思えない」

 植田を詰問するように、語気を強めたのは、自分でも無意識のことだった。自分自身のことを知らないということは、自分が思う以上にストレスとなっていたらしい。

 しかし植田はまるで動じることなく、僕の質問には答えずにちょうど扉の開いたエレベーターを出て、先を行ってしまった。

 まったく、身勝手な研究者だが、僕自身まともな返答があるとは期待していなかったので、それ以上問い詰めることはせずに植田の後に続いた。

 植田に連れられて僕が入ったのは、小さな応接室のような部屋で、手身近にあった椅子に腰を下ろす。

 植田は僕に数枚のプリントを差し出した。

「これが、君が面倒を見る少女兵器たち」

 僕は受け取ったプリントをパラパラとめくって眺める。僕より一回り若い少女たちの顔写真を見て、複雑な心境になってしまう。

「……三人、ですか」

 思っていたよりも少ない。

「ああいや、厳密にはこの機関にはもう一人少女兵器がいるんだけど、それは少し特殊だから、君の管轄にはないんだよ」

「はあ」

 とりあえず僕は植田の説明を聞くことに徹する。

「三人とも、君とは初対面になる。さっき言ったことと重なるけど、君は彼女たちと一から関係を築いて、彼女たちの感情や、考え方の変化を記録するんだ。もちろん、君自身の心境の変化もね」

「それだけですか?」

 いや、と植田は首を振る。

「君が観察する三人は、いずれも精神に問題を抱えているんだ。君には彼女たちが抱えている問題を解決してほしい」

 なるほどな、と僕は合点がいった。

 少女兵器が精神に問題を抱えていることは珍しい話ではない。身体のほとんどが機械でできていても、心はまだ年端も行かない少女なのだ。苛烈を極める戦場の凄惨な様相は、うら若い少女の精神を蝕むには十全にして不足ない。

「ということは、この子たちの精神を健全な状態に戻して、戦線復帰の支援をするということですか?」

 植田は少し困惑した表情を浮かべたが、すぐに首を横に振った。

「いや、復帰も何も、彼女たちはもともと実戦投入が不可能だと判断された個体だよ。いわば、問題児だね。それに……、ああ、これは伝えなくてもいいか。まあ、詳しいことはこの後実際に会ってみれば分かる」

 植田の口ぶりはどこか曖昧だ。

 気にはなるが、問い詰めたところで教えてくれることはないのだろう。

「そうですか」

 話を聞いても、いまいち僕の役割が理解できない。

 精神ケアなら、その専門家に頼めばいいし、修理が必要であれば技術者に頼めばいい。戦争中とはいえ、政府が秘密裏ではありながら直接管理する研究機関で、そこまで深刻な人手不足に苛まれることはないだろう。

 もしかしたら、精神的な問題以上に何か深刻な欠陥を抱えているのかもしれないと思い、僕はもう一度手元の紙に目を落とすが、顔写真や基本情報からそういったことを想像するのは難しかった。

「難しいことは考えなくていい。最低限、君は少女兵器たちと過ごして思ったことを前に渡したノートに書いてくれれば問題ない。それに、彼女たちと触れ合うことが、君の記憶が蘇るきっかけになるかもしれない」

「でも、僕と彼女たちは初対面なんでしょう?」

「そうだけど、関係性がもたらす人間への影響は計り知れないんだよ。つまり、どこに記憶を蘇らせるトリガーがあるか予想できないってこと」

 健忘を今まさに経験している身としては不安感が拭えないが、そんな僕とは対照的に植田はいたって能天気だった。

 だが今はこの胡散臭い研究者の言うことを信じる以外にできることはない。僕はため息をつきながら了承した。

「それじゃあ最初の顔合わせは今日の昼過ぎに予定されているから、それまで待機。私はまだ途中の仕事があるから、それを片付けてくるよ」

 そう言って部屋を出て行こうとする植田を僕は呼び止めた。

「一つ、聞いてもいいですか?」

 分からないことがあれば何でも聞けと言っていた割に、核心的なことは何一つ教えてくれないのだから、この質問も例によってまともな答えは期待していない。しかし、聞かないよりは聞いた方が今後のためになると思い、僕は口を開いた。

「なんで、僕なんですか?」

 ――こんな仕事内容なら、僕以外にも代替はいくらでもあるだろうに。

 という含意を、植田は正確に読み取って答えた。

「君は選ばれたんだ。当たり前だけど、少女兵器との交流は大きな危険を伴うがゆえに、接触を許されている職員はこの機関でも限られている。そして君にはその資格と素質があると認められたんだ。科学の追究者たる者、貴重な機会を無下にすることはいかなる理由であっても許されない。そうでしょ?」

 雄弁に語る植田。

 半ば言いくるめられたような気がしないでもないが、言っていることは少し共感できる。僕にしかできないことなら、せいぜいできる限りのことをしてみよう。


「それじゃあまた後で」

 植田はそう言うと部屋を後にした。

 残された僕も、渡された紙をまとめると、植田の後を追うようにして部屋を出る。

 植田が使ったであろうエレベーターは、最上階付近で止まっていた。きっと植田はこの機関でも中枢的な人間なのだろう。

 そんなことを考えながら、僕はやってきた別のエレベーターに乗ると、一階のボタンを押した。そして宿舎へと戻り、先ほど渡された、少女兵器の情報が書かれている数枚の紙に目を通す。

 兵器名称『マカロフ』。唯一顔写真で笑顔を見せているのが印象的な少女兵器だ。備考欄には「双極性障害」と書かれている。双極性障害とはいわゆる躁鬱というやつで、簡単に言えば不健全なハイテンションと、憂鬱な気分を繰り返す病気だ。

『コルト』。マカロフの後で見ると、少し大人びているように感じられる。もっとも、人間から兵器になった時点で、年齢という概念は取り払われてしまうので何歳なのかは分からないが。何か特定の疾病を患っているという記述はなく、代わりに書いてあったのは、彼女が熱心なキリスト教の信徒であるということだ。一見して、何か問題を抱えているようには思えない。

『シグ』。記載されている情報量は他の少女兵器たちよりも多く、そこに書かれている文字も、他に比べてひどく深刻なものだった。「解離性同一性障害」「自殺未遂」「暴行未遂」。

 僕は紙を置いてため息をつく。

 面談の準備をする片手間、観察報告のノートをメモ代わりに記しながら、僕は大きな不安を抱いた。それはこれから出会う兵器たちへの不安でもあり、自己理解の大幅な欠如に対する不安でもあった。

 果たして、彼女たちとの関係構築など、うまくいくのだろうか。


 結論から言うと、僕の仕事はまったくもってうまくいかないだろう。

 面談を終え、部屋に戻り、僕は先を思いやられるような気持ちでノートを開いた。いかにして、僕がこうも先行きを憂慮するに至ったか、順に振り返っていこうと思う。


 正午を回った頃、僕は内線で植田に呼び出され、再び研究棟へと向かった。

 事件はその道中で起こる。

 僕は研究棟のエントランス前にある、ちょっとした広場のようなところで小さな白い猫を見た。誰かに飼育されている痕跡はなく、野生の猫であった。

 猫はこちらをじっと凝視したまま動かないので、僕もちょっとした遊び心で見つめ返してみる。しばらくそうしていると、猫がその小さな口を開けてかわいい鳴き声を出そうとした。

 その時だった。

 猫がみゃぁというかわいい鳴き声を上げるのと、どこかで窓ガラスが割られる音がしたのは同時だった。

 そして音の出所を探す前に、僕の前に「何か」が落ちた。土埃のせいで、すぐにはその「何か」が人であるということに気づかなかった。しかも、あろうことかその人間は、激しい衝撃音を出して落下したにもかかわらず、しっかりと二本の足で立っていたのだ。

 舞い上がった土埃が落ち着き、そこに立っているのが一人の少女であることが分かる。そして僕はその少女に見覚えがあった。激しい落下の衝撃をものともしない圧倒的な身体能力を持つ彼女は人間ではない。少女兵器だ。

 あどけない顔立ちに、浮かんでいるのはにっこりとした年齢相応の笑顔。間違いない。

「……マカロフ」

 初対面にもかかわらず、僕が名前を知っているのを不思議がったマカロフは首を傾げた。

 が、すぐに当初の目的を思い出したかのように僕から目線を外すと、周囲をきょろきょろと見まわし、

「あ!いたいた!」

 と、声をあげて、先ほど僕と見つめ合っていた猫に駆け寄ると、大事そうに抱え上げた。そしてマカロフはいたいけな笑みを、胸に抱いた猫に向ける。猫はうれしそうに喉を鳴らした。

「君の猫だったの?」

 僕が問いかけると、マカロフは再び首を傾げる。

「いや?」

「野良猫?」

 マカロフは首を縦に振った。

 何がなんだかわけが分からない。

 混乱する僕は、さらに意味不明な状況に巻き込まれていく。

「こらぁー!待て!」

 野太い男のがなり声が聞こえてくるのは、ついさっきマカロフが割ったであろう窓ガラスのところからである。

 そして次に、サイレンにも似た警報音がけたたましく鳴り響く。

 瞬時に、僕は何か面倒ごとに巻き込まれたことを悟った。この時、他人のふりをして逃げ出せたらどれだけ楽だっただろう。しかし、相手がこれから一緒に過ごす少女兵器の一人であるマカロフとなれば、簡単に看過することもできない。

「うげっ」

 当のマカロフは、猫を腕に抱いたままあからさまにまずそうな表情をした。その表情から察するに、おそらくこれが初犯ではないのだろう。

 背後から複数の足音が聞こえ、振り返ると警報音によって駆り出されたであろう守衛らしき男たちが僕とマカロフを包囲していた。

 僕が驚いたのは、彼らが本格的な武装をしていたことだ。構えてこそいないが、抱えている重厚なライフルが放つ威圧感は、僕を委縮させる。

 しかし少女兵器の脱走ともなれば、それだけ本格的な装備にならざるを得ない。もっとも、人間の武装など、少女兵器の圧倒的な身体能力の前では気休め程度にしかならないが。

 ともかく、突如として混沌の中に放り投げられた僕は、マカロフの方を見た。マカロフも、同様に僕に視線を向けている。その目には何か考え事があるようだった。

 次の瞬間、マカロフは僕の腕をつかむと、その華奢な体躯からは想像できないほどの強さで引っ張り、研究棟めがけて全力疾走した。僕は強引に引きずられるようにしてマカロフに続く。加速の仕方も、走る速度も、まるで人間とは比べ物にならない。僕は一瞬、飛んでいるんじゃないかという錯覚を覚えたが、それは錯覚でも何でもなく、事実として僕の身体は宙に浮いていた。

 少女兵器がその身体に秘める人間を超越した力を、身を持って体験し、僕は改めてその恐ろしさに戦慄した。しかし、それ以上に印象的だったのは、走りながらもその顔に笑みを絶やさないマカロフだ。この状況を楽しんでいるかのように、彼女が浮かべる無邪気な笑顔には、戦争のために開発された兵器の面影はなく、僕には純真無垢な人間の少女のように見えた。

 複雑な心境の僕に構うことなく、マカロフはひたすら走り、閑散とした研究棟のエントランスを抜けると、何やらロックされていた重厚なゲートを抜け、階段を降り始めた。エレベーターに地下のフロアの表示はなかったので、僕はこんな場所があるとは知らなかった。

 マカロフが僕の腕をつかんで連れて行った先は、ある部屋だった。

 衣類が脱ぎ散らかされ、いろいろな日用品が散乱し、お菓子の袋や、飲みかけのペットボトルが捨てられることなく置いてある。

 生活感漂う汚部屋は、どうやらマカロフの自室のようだった。

 マカロフ自身は、連れてきた僕のことなどまるで構う様子もなく、楽しそうに朗らかな表情を浮かべて一緒に連れてきた猫をあやすのに夢中だ。

「マカロフだよね。いきなりどうしたの?」

 高層階から飛び降り、猫と僕をさらった破天荒な少女兵器に、僕は尋ねる。

「いやー、あまりにもかわいい猫を見つけちゃったからさ。もうこれは持って帰るしかないと!」

 マカロフは力説するが、まるで理由になっていない。

「なんで僕まで?」

 マカロフはにやりと笑う。

 その笑みは、先ほどまでの天衣無縫な笑みではなく、狡猾な悪だくみをしている笑みだった。

「一人で怒られるのは嫌だもん」

 マカロフは少しも悪びれることなくそう言った。

 僕はため息をつく。

 施設脱走の常習犯は、あらかじめ怒られることを予測して、手身近にいた僕のことを巻き添えにしたようだ。

「ところでさ」

 マカロフは猫の喉元をくすぐりながら僕に向かって言った。

「おにいさん、誰?」

 もっともな疑問だ。

 そこで、思っていた形ではないが、自己紹介をすることにした。

「僕は貝瀬真人。ここの研究員だよ。今日から君たちのことをサポートさせてもらうことになったんだ」

 僕がここの研究員だと名乗った時、マカロフはあからさまに嫌な顔をした。

 そして言う。

「じゃあ、あの大人たちみたいにああしろこうしろ、あれはするなこれはするなって厳しいこと言う?」

 僕は一瞬迷ったが、マカロフの言っていることは僕の仕事ではないような気がしたので、優しく首を横に振った。

 するとマカロフは破顔一笑する。

「やったー!」

 笑みをはじけさせながら、すでに愛猫となった白猫の毛並みに顔をうずめる姿は愛らしい。

 しかし、すぐにマカロフが忌む、「あの大人たち」がやって来た。

 部屋の扉が開き何人かの職員が姿を現す。

 その中心にいるのは白衣をまとっているが植田ではなく、僕よりも一回りほど背丈の大きい男性の研究員だった。背後には武装した守衛もいる。

「何度言ったら分かるんだ。勝手な行動は慎め。出来損ない風情が」

 体躯の良い男は、威圧的な口調でマカロフを咎める。

 マカロフの落ち度とはいえ、その粗略な物言いは僕にとってあまり印象が良くない。

 しかしマカロフは気にすることなく、はーい、と気の抜けた返事をした。

「あとその猫は戻してこい。規則だ。動物の飼育は許可していない」

 説教には取り合わなかったマカロフだが、この言葉には目の色を変えて反論した。

「いやだ!この子は私がここで育てる」

 断固として譲らないという強い意思を感じさせるマカロフに、男は冷徹な視線を向けて一言、

「規則だ」

 と言う。こちらも到底取り合うつもりは無いようだ。

 マカロフはなおも譲ろうとせず、猫をかばうようにして抱き寄せた。

「いやだ」

 まるで駄々をこねる子どもと、叱る大人のような構図だが、そこにある緊張感が異質なのは、偏に子どもであるマカロフの持つ力が、破滅的であるからに他ならない。だからこそ、彼ら大人も下手に手出しができないのだ。

 しかし、男の次の言葉に、僕は絶句した。

「猫はお前と違っていつでも『処分』できるんだぞ。戻してこいと言っているうちに言うことを聞いたらどうだ」

 酷い。

 兵器とはいえ、感情は人間の子どものままなのだ。そのうえマカロフはその精神に双極性障害という問題を抱えている。

 そんな彼女に向けて、大人が放つ言葉とは思えない。

 マカロフも、ショックを受けたのか言葉を失っている。

 見かねた僕は言った。

「猫は僕が引き取ります。宿舎なら、問題ないですよね」

 湧き上がる怒りを精一杯抑えて言うと、男は視線をこちらに向けた。向けられるだけで不快になる眼差しなど初めて経験する。

「誰だ?お前は」

 記憶を失う前も、僕はこの男と面識がなかったようだ。

 僕はその場を収めるために、慎重に言葉を選んだ。

「貝瀬真人です。ここの研究員で、彼女たちのケアを任されています。今は記憶があいまいなので、詳しいことは植田さんに聞いてください」

「ああ、あの」

 名前を名乗ると、男はわずかに表情を動かした。

 そして案の定、男は僕が植田の名前を出すと、口をつぐみ、後ろに控えている守衛たちに引き上げるよう指示を出す。

「あまり面倒ごとを起こすなよ」

 そう捨て台詞を吐いて、男は去って行った。

「何なんだ、あの人は」

 困惑を浮かべる僕に、マカロフは言った。

「奥村だよ。悪い大人」

 マカロフの「悪い大人」という表現には、言葉以上の含意があった。口調からも、彼女が奥村のことを相当忌み嫌っていることが伝わってくる。

「それより、ありがとね。この子のこと守ってくれて」

 マカロフが、表情に安堵を浮かべて言った。

 猫はマカロフの頭の上で丸まっている。どうやらお気に入りの場所を見つけたらしい。

「当然のことだよ。君のしたことが何であれ、あの言動は看過できない」

「私はもう慣れちゃった」

 痛々しい微笑みに、胸が抉られる。

 どうやら日常的にあんな扱いをされているようだった。

「奥村さんって、いつもあんな感じなの?」

 マカロフはうなずく。

「私に限らず、兵器全般のことが嫌いみたい。自分で作っておいて、勝手に嫌われても意味分かんないだけなんですけど」

 頬を膨らませるマカロフだが、僕はあまりにも恣意的で大人げないふるまいに、なおも怒りが収まらないでいた。

 と、そこへ再び扉が開き、今度は植田が姿を見せた。

「ああ、ここにいたんだ。騒ぎがあったから、もしやと思ったけど、どうやら私の予想通りだったみたいだね」

 マカロフはさっと僕の後ろに身を隠す。

「警戒しなくても、今日は何もしないよ。ただの面談だ。そこの貝瀬君とね」

「……貝瀬、本当?」

 僕は安心させるようにうなずいた。

 するとマカロフは頬を弛緩させる。

「時間が押してるから、早く着いてきてくれ」

 植田はそう言うと足早に僕たちの前に立って歩き始めた。

 マカロフは植田に続く僕の服の裾をつまんで、大人しくついてきている。

 連れられた先は、朝植田に呼び出された時と似た部屋だった。てっきり会話の録音や、映像の収録でもなされるものだと身構えていた僕は、拍子抜けしてしまう。

 そのことを植田に確認すると、

「これは君のために用意した時間なんだから、気にすることはない。それに必要なデータは私たちがしっかり把握しているからね」

 ということだった。

 僕はまず初めに、マカロフと向かい合った。

「とりあえず、もう一度自己紹介しておこうか。僕は貝瀬真人。ここの研究員で――」

「さっき聞いたよ、それよりさ、気になってることがあるんだよね!」

 マカロフは僕の自己紹介など、まるで興味ない様子で遮ると、何やら勢い込んで身を乗り出した。

「さっき奥村と話してる時に、記憶があいまいだって言ってたよね?何かあったの?」

 目を爛々と輝かせて聞かれても、僕は自分の記憶について何も言えることがない。あるのは、僕が記憶を失っているという事実のみだ。

 僕がそのことを伝えると、マカロフは途端に興味をなくした様子で、再び猫に油を売り始めた。

 何か言えることがないかと、僕は頭を回転させるが、あいにく健忘というのは存外不便なもので、言葉の一つも見つからなかった。

 自分のことを語るのをあきらめた僕は、マカロフに質問してみた。

「僕のことはいいから、マカロフのことを聞かせてよ」

 何気なく発した言葉に、マカロフはあからさまに大きな反応を示した。それは決して悪い反応ではなく、むしろ自分の身の上を離すことに乗り気な様子だった。

「私はマカロフ!夢は正義のヒーローだよ!」

 鼻息荒く、マカロフは気炎を揚げる。

「正義の、ヒーロー?」

「そう!悪者を懲らしめて、困っている人を救うの」

「いい憧れだね」

 僕が言うと、マカロフは何か考え込む仕草を見せたが、やがて顔を上げて言った。

「憧れかー。そうだね!私の憧れ。私、昔ね、本物のヒーローに会ったことがあるの」

 そして何やら饒舌に語り始める。

「詳しいことは思い出せないんだけど、その人が小さい頃に苦しんでた私を、助けてくれて、自由な世界に解放してくれたの。それ以来あの人には会えてないし、もう顔も声も思い出せないんだけど、いつか会って、弟子にして欲しいなぁ」

 よほど印象的な出来事だったのか、マカロフは恍惚とした表情で宙を見つめている。しかしそれだけ印象的であったにもかかわらず、記憶が不明瞭なのは、おそらく少女兵器になったことの影響だろう。

 それにしても、マカロフの幼少期の苦しみとは何だろう。気になったが、聞くに聞けないでいる僕を、マカロフは察した様子で言った。

「昔のことはあまり覚えてないから、私が何で苦しんでいたかは思い出せないんだ。でも、とても辛い思いをしたのは覚えてる」

 その時初めて、マカロフの言葉に悲しさが宿ったような気がした。覚えていない過去の辛い経験は、マカロフにとって大きな傷跡となっているようだ。もしかしたら、それが双極性障害を引き起こした原因なのかもしれない。

「無理に思い出そうとしなくていい。僕は今の君が知りたいんだ」

 諭すようにして言うと、マカロフは再び顔に笑顔を取り戻した。

 その眩しい無邪気な笑顔に、僕は庇護欲を刺激される。

「今の私かー。私はずっと変わらないよ。ヒーローになって皆を救う。そのために少女兵器になったんだもん」

 最後の言葉に、僕は衝撃を受けて次ぐ言葉に窮した。

 そしてそれが引き金となったかのように、僕の中で眠っていた記憶が目を覚ました。

 特殊な電解質溶液の中で、眠っている少女。ガラス越しにそれを観察し、無数のデータを取っている白衣の研究員たち。静かな電子音と、数値を読み上げる声が聞こえてくる。一番奥の机に座り、じっと研究の様子を眺めているこの視点は僕のものだ。僕は確かにそこにいた。記憶の中の僕は、手元の資料に何かを書き込もうとしたが、視界がぼやけ、それを断念する。そして再び目線を前に向けた。

 離れたところにいるその少女の姿は、くっきりと視認することができた。マカロフや僕が担当する他の少女兵器ではない。実戦投入される前の研究段階にあった兵器の一人だ。

 彼女の姿を見て、僕の中には一つの根本的な疑問が生まれた。

 ――なぜ、少女兵器は女子しかいないのか。

 記憶が少し修復されたことにより、僕はすぐにその答えを理解した。

 自我が完成に近い状態にある大人は、兵器としての自己を本能的に受け入れることができず、自我が崩壊し、ほとんどの場合死に至るのに対して、自我があいまいで、複雑な精神状態を持つ思春期の子ども、とりわけ女子はそうした自我の崩壊が起こらないのだ。だからこそ、人間兵器となった彼女たちは、「少女兵器」と名付けられたのである。

 だが話はそれで終わらない。

 いくら女子だからと言って、必ず兵器として生まれ変われるわけではない。身体はいくら改造できても、感情は人間のままであることが、少女兵器の抱える最大の課題であったのだ。つまり、兵器としての力の使い方は、本人の情緒に多分に依存するということ。

 それは非常に大きな危険を孕んでおり、だからこそ開発陣は兵器の対象となる人間の選定は身長に行われた。

 記憶の中の少女の姿が浮かぶ。

 彼女は幼い頃に両親を事故で失い、親戚中をたらいまわしにされ続けた過去を持つ。その過程でまともな心身の生育などはなく、結果的に精神に大きなハンデを抱えることとなった。だが、そのハンデこそが、少女兵器としての素質であったのだ。

 不必要な感情を持たず、またその感情の希薄さは兵器としての自我を受け入れることに難儀しない。

 人間の、それもまだ大人になっていない子どもの、脆弱で不安定な精神状態に付け込み、そこに半ば洗脳のような形で身体能力を付与する。

「あぁ」

 僕は思わず声を漏らし、天を仰ぐ。

 なんと非人道的で、なんと残虐なのだろう。

 彼女には暗い現在から、まだ何も決まっていない将来へと続く道があった。彼女にはその道を自分の意思で歩む権利があった。しかし、僕たちはそれを、彼女の弱みを利用して奪い取るどころか、あまつさえ殺戮兵器として生まれ変わらせたのだ。

 僕は自分を恥じた。

 自分をこんなにも嫌悪したのは、生まれて初めてのことであった。

 どうして当時は何も感じなかったのか。

 いや、感じなかったのではない。自分を見失っていたのだ。とにかく研究成果を追い求めて、僕は周りも、自分自身も見えなくなっていた。

 もっともそれすらも、子どもの未来を奪った言い訳にはならない。

 しかし、だからこそマカロフの、自分から少女兵器になったという言葉は、僕にとって衝撃だったのだ。志願して少女兵器になるなど、異例中の異例だ。

「貝瀬?どうしたの?変な声上げて」

 いつの間にか黙り込んでしまっていた僕を、マカロフが心配そうに見上げている。

「皆を救うために、少女兵器になったの?」

 マカロフは間を置くことなくうなずく。

 人体改造は洗脳のようで、厳密には洗脳ではない。人間の感情は人為的に操作することはできないのだ。その事実はマカロフが少女兵器なることを志願したという言葉が嘘でないことを裏付けている。

 すべては「ヒーローになるため」。

 僕の思い出した許されない罪は、マカロフの純真な想いに触れて、どうしたら良いのかが分からなくなった。

 ただ一つはっきりしているのは、僕はマカロフを、奥村のような邪悪な大人から守り、ヒーローになるという夢を叶える助力をする義務があるということだ。

 僕はそう心に決めた。


 マカロフと交代するように部屋に入って来たのは、指定の軍服をきっちりと着こなし、頭には少しサイズの大きい軍帽をかぶった大人しそうな少女だった。

「コルトだね?」

 二人目の少女兵器、コルトは、はい、と言ってうなずいた。

 事前に顔写真で受け取った印象通りの、洗練された立ち居振る舞いをする落ち着いた少女兵器だ。

 いきなり彼女が抱える問題を尋ねるのは不躾なので、僕は当たり障りのない事務的な質問からすることにした。

「普段は、どんなことして過ごしてるの?」

 適当に探した当たり障りのない質問が、あまりにも当たり障りがなさ過ぎて、僕は言ってから後悔した。コルトも、想定外の質問だったようで、少し面食らった表情をしたが、すぐに聞き取りやすい声で答えた。

「読書をしたり、マカロフと話したりしてますね。後は訓練です」

「マカロフと仲良いんだ」

「はい。同じ時期に兵器になって、ずっとここで一緒に過ごしてますから」

「他の少女兵器とは?」

「他の子はあんまり……」

 コルトは困ったように微笑んだ。

 無理もない話だ。むしろ、それが普通であり、マカロフが異例すぎるというのもある。

「もう少しコルト自身について知りたいから、簡単に自己紹介してくれるかな?」

「そうですね。自己紹介といっても、何を話せば良いのか分かりません」

 困ったように頬をかくコルト。

 そこで僕は、事前に聞いていた情報を参照して言った。

「君はキリスト教信者だと聞いているけど、自分の持つ信仰心とかについて語るとかでも構わないよ」

「そんなもの語って、私の何かが分かるんですか?」

 恥ずかしそうに目を伏せるコルトに、僕は大きくうなずいた。今はとにかく、コルトと会話を重ねて、お互いを知っていくことが重要だ。

 少しの沈黙の後、コルトはぽつぽつと語り出した。

「私がここにいることも、こうして兵器となったことも、すべては神様が導いたことだと思っています。神様が定めたことであるならば、私はどんな運命でも受け入れられます。それくらい、私は神様を愛しています」

 静かに、ゆったりとした口調で神への愛の深さを語るコルトだが、その目は僕を見ていなかった。どこか遠くにある何かを見つめているようだったが、僕はそれが何か尋ねることはできなかった。なぜなら、コルトの目からは、ただの信仰心ではなく、信仰を超えたさらに強い何らかの意思を感じたからだ。それが前向きな意思なのか、それとも後ろ向きの意思なのか、僕には判別がつかない。だからこそ、安易に聞いて良いことだとは思えなかったのだ。

 それから僕はコルトに、自分の仕事内容や、記憶を失っているという身の上を話し、面談は終了した。

 やはり、というか当然というか、いきなり現れた僕相手に、コルトは自分について必要以上の情報を開示しようとはしなかった。

 僕が彼女との面談で分かったのは、彼女の篤い信仰心と、それに裏打ちされた何らかの強い意思の存在だ。おそらくそれが、彼女の精神上の問題に関係しているのだろうと、僕は予測している。

 それはともかく、僕のことを表情には出さずとも、しっかりと心の中では警戒して、無難な言葉選びをするコルトと話していると、屈託のない笑みで率直に思ったことを口にするマカロフの存在はありがたく思った。


 コルトの次に面談をするのは、シグという名前の少女兵器のはずだが、部屋に入って来たのは彼女ではなかった。

「調子はどう?」

 すらっとした白衣姿に、眼鏡がよく似合うその女性は植田だ。

「順調ですよ。記憶も戻りつつあります」

 渇望した記憶の回復は、僕の予想だにしない残酷な形で訪れている。

「そうか。それは良かった」

 さも僕の記憶には興味なさげに、植田は適当に選んだ言葉を吐いた。

 どうやら目的は僕ではないらしい。

「一つ、伝えなきゃいけないことが合ってね」

 僕は、自分の記憶のことかと思い、全身がこわばった。

 そんな僕の緊張を感じ取った植田は、なだめるように僕の肩に手を置いて言う。

「心配しなくても、君のことじゃない。シグのことなんだけど、ちょっと今は面談ができる状態じゃないから、別日に変更になったよ」

 そうですか、と僕は短く答える。

 自身のことではないことに安堵しつつも、伝えられた内容は楽観できるものではない。僕の仕事の滑り出しとしては、幸先が思いやられる話だった。

「ということで、今日の君の仕事は終わり。後は兵器たちと過ごすなり、一人で考え事をするなり、好きにしてもらって構わない」

 植田はそう言うが、僕は植田にとある用事があった。

「植田さんのオフィスに伺ってもいいですか?いろいろ、聞きたいことがあるのですが」

 しかし、植田は首を横に振る。

「私の部屋は見せられないものばかりだから、人を入れることはできないんだよ。代わりに、一階にあるカフェでどうかな?」

 僕は了承した。

「それじゃあ、私はこの後予定があるから、夜にまた落ち合おう。それまで君はどうする?」

 一人になって考えや気持ちをまとめたかったが、少女兵器たちとの交流も必要だ。

 迷った挙句、僕は言った。

「マカロフやコルトと、もう一回話せますか?できれば面談みたいな形じゃなくて、外をのんびり散歩したいんですけど」

「外に出るのは良いけど、少女兵器を二体同時に出すことはできない。残念だけど、これは規則なんだ」

 前にも聞いたような言葉だ。嫌な思い出がよみがえる。

 植田は続ける。

「だから、マカロフかコルトのどちらか、話をしたい方を選んで欲しい」

 僕は迷った。

 マカロフとはある程度関係の素地はでき始めている。一方でコルトはまず心を開いてもらうところからだが、その糸口はすでにつかめている。果たして僕はどちらを選ぶべきだろう。

 長考の末、僕は言った。

「マカロフでお願いします」


「やったぁ!猫の散歩だね」

 夕焼けが建物に遮られることなくきれいに見える研究所の広場を、僕はマカロフを連れて歩いていた。

 力強い夕焼けに照らされた山々の木々が、シルエットとなって風に吹かれている。なんとも哀愁の漂う、もの言えぬ情景を、僕はうっとりと眺めていた。

「散歩は犬でしょ!っていうつっこみは!」

 マカロフは、楽しそうに僕の背中をバシッと叩いた。

 鈍痛。

 軽い交通事故のような衝撃に、僕はうめき声を上げながら前につんのめる。

「ああ、ごめん」

 楽しそうだったマカロフがしおらしくなる。

 僕は慌てて平静を装って、

「大丈夫、平気だよ」

 と言うが、言い終えたとたんに咳き込んだ。

 植田は二人同時に外に出すことはできないと言っていたが、その規則の意味を身をもって理解した。

 心配そうに僕を見るマカロフに、僕は言った。

「そう言えば、その猫、名前つけないの?」

「名前?名前かー」

 マカロフは歩きながら考え込んだ。

 この研究機関は存外広く、散歩コースには困らない。僕たちは宿舎の前を通り抜けると、丘を下る道に入った。まるでハイキングコースのようにきれいに整備された道を、どんどん奥へと歩いていく。奥に行くにつれて、周囲のちらほらといた人影も減っていき、ついには僕たち以外に人はいなくなってしまった。

「んんーー」

 マカロフの長考はなおも終わらない。

「白いからシロとかは?」

「安直すぎ」

「それじゃあ、小さいからミニシロ」

「もう一回叩くよ?」

 マカロフは半目で僕のことを睨む。

「冗談だよ」

 僕は苦笑いを浮かべて、マカロフの頭を撫でた。

 あまり下手な冗談で、またあんな目に遭わされてはたまったものではない。

 なおも猫の名前に悩むマカロフを見て、僕は一つ、真面目な提案をしてみることにした。

「トカレフなんてどうかな。マカロフと語感も似てるし」

 僕がそれとなく考えてみた名前を口にすると、マカロフは立ち止まった。

 何度か名前をつぶやいた後、マカロフは勢いよく顔を上げて、頭に乗せたその白猫を胸元に抱き直した。

 そして、

「トカレフだ!お前はトカレフだったのかぁ!」

 と、嬉しそうにそのきれいな毛並みに顔をうずめる。

「貝瀬、気に入った!この子はトカレフ!」

 さも初めからそうであると決まっていたかのように、マカロフにとってはその名前がすとんと心の中に落ちたらしい。

 名前を連呼しながら、愛しそうに猫を撫でている。

 いつの間にか僕たちは広大な敷地を誇るこの研究機関を一周したらしく、眼前にはあの研究棟がそびえ立っている。

 そこで僕は一つ、気になる建物を見つけた。

 研究棟の裏に、まるで建物の陰に隠れるようにしてひっそりと構える小さな建物。背丈は一戸建て住宅程で、シンプルな立方体の形をしている。周辺の草木が手入れされていないことから、長い間使われていないことがうかがえた。

「あれ、なんの建物か知ってる?」

 僕はマカロフに聞いてみたが、知らないと一言。

 他の建物とはどこか異なる雰囲気を醸し出しているその建物が気になった僕は、入り口まで歩を進めた。

 当然、入り口はきっちり施錠されており、扉はびくともしない。それは想定内のこととして、印象に残っているのは入り口が二重扉になっていることだ。奥の扉の脇にはカードをスキャンする端末があることから、どうやら厳重なセキュリティによって堅くロックされているらしい。

 この建物のことも、後で植田に聞いてみよう。そんなことを思いながら、僕たちはその場を後にした。


「それじゃあまた明日」

 僕はマカロフの部屋の前で、猫、もといトカレフを抱えながら言った。

 マカロフは名残惜しそうに、僕が抱くトカレフの頭を撫でている。

 部屋での飼育が許可されなかったため、僕は宿舎の自室で面倒を見るためにトカレフを持ち帰るのだ。

「明日も来てね?」

 あどけない童顔に、上目遣いでそう言うマカロフ。目的は僕というよりはトカレフのようだ。

 僕は笑顔を浮かべてうなずき、部屋を後にした。

 胸に抱いたトカレフは最後まで、マカロフの方に首を向けながら、みゃぁぅと、哀しそうな声をあげていたが、やがてマカロフの姿が見えなくなると、僕の胸をその愛らしい肉球でポコポコ叩き始めた。

 どうやら僕はそれほどトカレフに気に入られていないようだった。これを書いている今も、僕が用意した食べられそうな野菜をつつきながら、こちらに向かって威嚇するような声をあげている。


 さて、僕はそうして一度宿舎にトカレフを置いて、もう一度研究棟に戻った。

 タイミングが良かったのか、僕が研究棟一階にある小さなカフェに入り、適当な席に座ると、そう待つことなく植田が姿を見せた。

「遅くなってすまない。待ったかな」

「いえ、そんなことは」

 植田はミルクティを、僕はコーヒーを頼んだ。研究者は常にカフェインに飢えているという僕の勝手な偏見から、植田はブラックコーヒーでも頼むものだと思っていたから、意外なチョイスに少し驚く。

「それで、聞きたいことって?」

 聞きたいことは山ほどあるが、どれから話そうかと僕は頭を巡らせる。

「いろいろあるんですが、まず、僕の記憶が少し戻りました」

 植田が僕の瞳を見る。

「どんな記憶?」

「自分が少女兵器の開発をしていた時の記憶です。そこで思い出したのですが、彼女たちが精神に抱える問題は、兵器になる以前、つまり人間だった頃に起因するものですね?」

 植田は僕の言葉を聞いて、しばらく考え込むように宙を見つめていたが、やがて口を開いた。

「おおむね君の思い出した通りだよ。記憶が戻って、どう思った?」

 植田は鋭い視線で、まるで僕を試すかのように言った。

 僕は少し考えてから慎重に言葉を選ぶ。

「してはいけないことだと思いました。いくら研究のため、戦争のためとはいえ、彼女たちに殺戮兵器としての人生を押し付けるのは、断じて許されることではない」

 僕の言葉に、植田はうなずいた。うなずいたうえで、言った。

「でも、少女兵器に選ばれた少女たちは、そのほとんどが将来の無い子どもばかりだよ。捨てられて行く当てがない子や、親を亡くして身寄りのない子、勝手に家を飛び出して犯罪に巻き込まれた子どもだっていた。もしこの機関がなければ、彼女たちはまずまともに生きてはいないだろうね」

 もっともな意見だった。

 そもそも機関は子どもを保護する孤児院などではないのだ。仮に行く当てのない子どもを保護したところで、できることなどない。

 しかし、僕はそれでも自分がしたことに憤りを覚えずにはいられなかった。

「熱中していることや、興味のあることに没入してしまうのは、昔からの悪い癖だったようです。記憶を失ったことでそのことに気づけました。僕は僕のやるべきことをやる。そう決めたんです」

「やるべきこと?」

 植田が興味深そうに言った。

 いつも達観した振る舞いをする植田にしては、珍しい反応だった。

「はい。僕は彼女たちが不自由なく、まるで普通の少女のように暮らせるようにすることが、自分の使命だと感じました」

 これは、暗に彼女たちをこれ以上戦争に関わらせたくないという、少女兵器の本来の目的に真っ向から反抗した言葉だった。

 そんな恣意的な言説など、一蹴されるかと思っていたが、意外にも植田はすぐには否定しないどころか、まるで理解を示すようにうなずき、そして言った。

「君がそう思うのなら、そうすれば良い。ただ、君の記憶はまだ完全ではないどころか、依然として穴だらけだ。いずれ自分が言っていることが、どれほど的外れで、どれほど夢物語であるかを実感することになるよ。それを肝に銘じておくんだ」

 植田の目は厳しい。

 的外れで、夢物語。

 その言葉に、僕は重い鎖に縛り付けられるような不快感を覚えた。しかし、それでも僕はやらなければならない。なぜならそれが責務であるからだ。

「分かりました」

 重苦しく響く植田の言葉を肝に銘じると、ちょうど頼んだミルクティとコーヒーが運ばれてきた。

 湿っぽい話はもう十分だろう。

 僕は話を変えた。

「そういえば、この研究棟の裏にある小さな建物って何なんですか?」

 たわいない雑談のつもりで話を振ったはずだが、植田の反応は存外重苦しいものだった。

「中に入ったなんてことはないよね?」

「しっかり施錠されてましたから、入れませんでしたよ」

「それならいいんだ。あの建物は、今は使われてなくて、立ち入り禁止になってるから、気を付けてね」

 植田の言葉は、僕の質問の回答になっていない。はぐらかされそうになっていると気づいた僕は言った。

「教えてください。あの建物は何なんです?」

 別に教えてくれないならそれでも構わないつもりだったが、植田の反応がやけに気になった。何か、僕の記憶に関係する重大な秘密があるのかもしれないと、直感的に思ったのだ。

 やがて植田は観念するように、

「いずれ君の記憶が戻れば分かることだけど――」

 と、前置きして話し始めた。

「あそこは、これが建つ前の研究棟だよ」

 植田は「これ」と言いながら、僕たちが今いる研究棟を指で示す。

「つまり、言うなれば旧研究棟、かな。まああんな見た目だからいろいろといわくつきなのは察してね」

 いわくつきという言葉が、具体的にどのようなことを意味しているのか、問うたところで植田は教えてくれないだろう。

 そこで僕は別の質問をした。

「いつまで使われていたんですか?」

 しかし植田は僕のこの質問が、何を意図してのことなのか分かった様子で、にやりと口角を上げた。

「いいよ、そんな回りくどいことしなくても、君が本当に聞きたいことを教えてあげるよ」

「それじゃあ聞きますが、僕はあの建物にいたことがある。そうですよね?」

 質問というよりも、確認だ。

「――そうだね」

 植田はゆっくりとうなずいた。


 その後、最後に僕は奥村について尋ねた。

 曰く、奥村は植田と並んで、少女兵器の研究の最先端にいた人間だということだった。しかし、いろいろな事情が重なり、少女兵器の存在によって自身の立場や、地位や名声を失い、少女兵器を憎むようになったのだと言う。具体的に何が奥村を陥れたのかは教えてくれなかったが、どうやら奥村がマカロフたち少女兵器に抱く憎しみの情は、僕が思っていたよりも深いものらしい。

 しかし、だからと言って、子ども相手にあの横暴で粗略な言動が許されるというわけではない。僕の、奥村への印象は変わらないままだった。


 こうして、僕の長い初日が終えた。

 いろいろなことがありすぎて、長くなってしまったが、僕は初日にして自分がやるべきことが見えたような気がして、軽い充足感に浸っている。明日からも続く少女兵器たちとの交流に備えるべく、少し早いがもう寝よう。その前に、トカレフに与える水を交換しておかなければ。

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