二次創作してみた
羽鐘
居場所を得た犬 【調和の王 二次創作】
湾港都市レネウス。
交易の要衝であり、漁業も盛んなこの街の路地裏。
出店が並び、多くの人々が行き交う通りから少し離れるだけで、この都市のもう一つの顔を見ることができた。
貧民たちが物乞いをし、あるいは追いはぎに遭い、辛うじて命をつなげる場所。
レネウスの闇と呼べる場所に、その犬はいた。
あばらが浮き出て見えるほど瘦せ細り、本来美しいはずの茶色の毛色はすっかり薄汚れ、その眼差しには人間への猜疑心が見て取れた。
その犬を、仮に「彼女」と呼ぶことにしよう。
彼女がいつ生まれたのか、誰もわからないし、彼女自身がどれほどの年月を生きてきたか把握していなかった。
ただ、いつの間にかこの場所に生み落とされ、時には傷つけられ、時には哀れみの目で腐ったものを施され、生きている理由もわからぬまま、それでも生きていた。
ある日、彼女は一匹のオス犬に襲われ、身籠った。
彼女は腹の中の命を守るため、本能の命じるまま生に貪欲になり、施しを受け、時には奪い、命をつなげてきた。
海からの冷たい風が吹きすさぶころ、路地裏のさらに奥深くの廃屋の中で、彼女は五つの命を生み落とした。
目も開けられず泣くことしかできない我が子たちの身体を舐め、刺激を与え、自らの乳に導いた。
乳房にかじりつくように吸い付く我が子たちを、彼女はとても愛しいと思った。
春を迎えるまでに三匹の命が失われた。
信じられるものはなにもなく、しかし、人間に依存しなければ生きていけないことを知る彼女は、残る我が子たちを守るため、一日一日を懸命に生きた。
ある暖かな日。
彼女はいつものように、空腹に耐えながら路地裏の一角で蹲っていた。
決して人通りは多くないが、その分自分を傷つけようとする人も少ないことを知っている彼女は、ここで誰かが施しをしてくれるのを待っていた。
昼を迎えるころ、彼女の前で二人の人間が立ち止まった。
しっかりとした身体をした男と、どこかおずおずとしているフードを目深に被った少年。
彼女は、匂いで二人が自分を害するものではないことに気付いた。悪意を持つものは、汗や吐息、それにまとう空気が悪臭を放つものだ。
だが、二人の匂いは、どこか安らげるようなものに感じられた。
興味を持って見つめてみると、男が鞄からパンを取り出し、差し出してきた。
彼女は一心不乱に食べた。
腐っても固くなってもいないパンは、これまで食べたどの食料より旨く感じた。
パンを食べ終わると、男は膝をつき、掬った手の中に水を湧き出させた。
彼女は突然出てきた水に驚いたが、美しく清浄な水をこれまた一心不乱に飲んだ。
やがて喉を潤し満足した彼女は、二人の匂いを記憶に焼き付け、その場を立ち去った。愛する我が子たちに乳を与えられる喜びが彼女の胸に広がっていた。
その日の夕暮れ。
日が沈み、人々が昼の賑わいとは違う喧騒を楽しみだすころ、彼女はあの匂いを感じ取った。我が子たちの尻を鼻先でつつき、いつもの場所まで導くと、やはり昼の二人が近づいてきていた。
今度は少年が、男から干し肉を受け取ると、彼女の足元にそっと置いた。
彼女は迷うことなく我が子たちにそれを譲り、干し肉を美味しそうに食べる姿を愛おしそうに眺めた。
そして、我が子たちを見つめる少年の眼差しに安らぎを感じ、彼女は少年への警戒心をほんの少しだけ緩めた。
次の日の朝。
彼女はただならぬ気配と匂いに怯えていた。
何かが来る。
それはこの街全体を脅かすような、恐ろしい気配。
彼女は廃屋の隅で震える我が子たちの姿を見て悲しくなった。
この気配だと、昨日のように運よく食料にありつけるとは限らない。
彼女は焦った。
今も決して空腹は満たされていないのに、このままでは食料どころか命を守ることすら難しくなると思った。
いてもたってもいられず彼女は、街を飛び出し、狩りに出た。
うさぎでもねずみでも、とにかく食料を確保したかった。必死に森を彷徨い、獲物を探した。
ただ、彼女が考えるより先に、危険が目の前に迫った。森に火が放たれ、熱と煙が彼女を襲ってきた。酷い煙で息が苦しくなった。覚束ない足で必死に走った。
帰らないと……早く帰らないと……。
彼女の頭の中は我が子たちのことでいっぱいだった。私が帰らないと我が子たちは飢えてしまう。
私が帰らないと我が子は死んでしまう。
自分たちを身勝手に傷つける人間が憎くなった。
人間に抵抗できない自分が悲しくなった。
哀れな自分の存在が寂しいものに思えた。
迫りくる炎から必死に逃げ、彼女は幾度となく転び、傷ついた。足が痛み、鼻や喉、そしてつんざくような音に耳も痛くなった。
何かが自分の中に入ってきた気がした。例えようのないほどの澱み、穢れ。それが彼女を蝕み、犯そうとした。たまらず彼女は叫んだ。
助けて!
帰りたい!
助けて!
人間は信用できない、でも、一瞬だけでも助けてくれたあの人間ならば……薄れゆく意識の中で、彼女は心の底から助けを求めた。
彼女の心が闇に染まったころ、ふと抱きしめられる感覚になった。あの人間の匂いがして、彼女は願った。
我が子だけでも助けて、と。
気が付くと、彼女は安心する匂いの少年に抱かれ、あの路地裏にいた。
地面におろしてもらい、彼女は我が子の元へ駆け出した。
命あること、少年が自分を救ってくれたこと、彼女は人間に初めて感謝した。
あれから少年は、毎日のように食料を持ってきてくれた。
自分とは違い、無邪気に少年に懐く我が子の姿が可愛らしいと思えた。
ある日、少年が一人の女性を連れてきた。
その女性を見た瞬間、彼女の中の何かが弾け、光の波動を感じた。
近づいてくる女性に彼女は一切の警戒心もなく、伏せをした。撫でてくる手は慈愛の温もりに満ち溢れ、彼女は初めての温もりに安堵した。
「うちへいらっしゃい」という女性の心の声が聞こえたような気がした。
彼女は感謝の気持ちを込めて、ひとつ吠えた。
その後彼女は、我が子とともに女性のもとで安らげる寝床を手に入れた。
人間を憎み怯えていた彼女は、一人の少年のおかげで、幸せな居場所を得ることができた。
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