第3話 パンデミック
感染症が村を襲ったのは、私がこの世界に来て一週間ほど経った朝のことだった。
「リナ! 大変だ!」
村のおじさんが、荒い息を吐きながら戸口に飛び込んでくる。
ちょうど朝食のパンを口にしていた私たちの手が、思わず止まった。
「どうしたの?」
「息子のところで、家族みんなが熱を出したんだ。それに……隣の家でも同じ症状が出てる」
◇
駆けつけた家の中は、むっとするような熱気に包まれていた。
汗と湿った布の匂い、咳き込む音が絶え間なく響く。
父親も母親も、三人の子どもも、全員が真っ赤な顔で寝台に伏せていた。
その肌には赤い湿疹が広がっている。
荒れた皮膚は痛々しく、咳のたびに胸が大きく上下し、ひゅうひゅうと痰の絡む音が部屋を満たした。
「これ……パオイノ病だ」
リナの顔から血の気が引き、声が震えた。
パオイノ病――数年前にこの地方を襲い、多くの命を奪った恐ろしい感染症。高熱、激しい咳、呼吸困難、そして全身を覆う赤い湿疹が特徴的だという。
「でも、ゼペット先生がいれば大丈夫だろう?」
おじさんが縋るように問う。
「師匠は王都にいるの。でも……大丈夫。私がなんとかする」
リナの声はまだ震えていたが、その目には決意の光が宿っていた。
◇
広場に出ると、リナは村人を集めて大きな声で指示を出した。
「パオイノ病が発生しました。症状のある人は納屋を仮の病室に隔離します。清潔な水と布、鍋を分けて持参してください。看病の当番は家ごとに一人だけ。診察が必要なときは白い布を戸口にかけてください。順番に回ります」
「本当に大丈夫なのか?」
「ゼペット先生はいつ帰ってくるんだ?」
「このままじゃ村が全滅してしまう」
不安の声が村中に響いた。若いリナの肩に、村全体の命がかかっていた。
◇
リナは私の手を引き、薬草庫へ連れていく。
「つぐみ、どれか効きそうなものはある?」
私は薬草を、ひとつひとつ手に取った。でも、どれも光を感じない。淡く光るものもあったが、決定的に足りない気がした。
「だめ。どれもしっくりこない」
「やっぱり……。パオイノ病には特効薬がないんだ。とりあえず手持ちの薬草で症状を抑えるしかない」
リナが薬を調合したけれど、案の定、症状を和らげるだけで、効き目はわずかだった。
それでも患者は増えていく。一日で十人、二日で二十人。
咳と呻き声が村じゅうに響き、不安の声が重なっていく。
どうにかしなきゃ。
リナも、私も――気持ちが空回りするばかりだった。
◇
三日目の早朝、日が昇ると同時にリナが言った。
「症状を抑える薬も足りなくなってきた。森に薬草を取りに行こう」
私たちは森の奥深くまで入り、一心不乱に薬草を摘んだ。
村で苦しむ人たちを思うと、胸が痛んだ。
その時――何かに呼ばれるような感覚があった。
温かな光に包まれるような、不思議な感覚。
「あそこ」
足が自然にそこへと向かう。
小川を渡り、蔦の絡んだ御神木のような大木を越えると、小さな草原が広がっていた。
そこには、銀色に光る見たことのない植物が地面を覆うように生えていた。葉は丸みを帯びて長く、茎はしっかりしている。近づくと、ほのかに甘い香りが漂った。
手で触れると、自分の体温より少し温かい。心の奥から確信が湧き上がった。これだ、と。
「これ……きっと効く」
迷いなく言い切る私に、リナは戸惑った顔をした。
「でも、こんな薬草、見たことがない……師匠の本にもなかった」
「でも、間違いない。この草が『私を使って』って言ってるの」
「……つぐみがそう言うなら。……信じる」
リナは覚悟を決めたような顔で頷いた。
◇
私たちは急いで薬草を摘んだ。
指先で銀色の葉をちぎると、時折、シューッと小さな音が走った。
光をはらんだその葉は、まるで生き物の息づかいのようにきらめいていた。
村に戻り、すぐに薬を作る。煎じた薬湯は真珠のように白く、甘い香りが立ち上った。
最も具合の悪い人に恐る恐る飲ませると、やがて荒い呼吸が穏やかになり、止まらなかった咳が収まった。熱が下がり、赤い湿疹も徐々に薄れていく。
「治った……本当に治った!」
家族が涙を流して喜び、私たちも安堵で膝が震えた。
その家を出ると、リナは広場で村人に指示を出し、薬を大量に煎じ始めた。
「私、もっと採ってくる」
薬草の束が細くなるのを見て言うと、リナが頷いた。
「お願い。頼りにしてる」
私は森へ駆け戻り、抱えきれないほどの草を摘んでは運んだ。
腕に草の匂いが染みつき、指先が薬草の汁でしびれた。
◇
何度も往復するうちに、腕も足も鉛のように重くなった。
ようやく薬が行き渡ったころ、私たちは広場のベンチに腰を下ろした。
気づけば、あたりはすっかり暗い。
戸口の白い布はまだ残っていたが、その数は明らかに減っていた。
パオイノ病には潜伏期間があるようで、翌日も翌々日も新しい患者が出た。
けれど白い布の数は日に日に減り、病は確実に収束へ向かっていった。
◇
一週間後、最後の患者が回復した。
「つぐみとリナがいなければ、村はひどいことになっていた」
「本当にありがとう。命の恩人だ」
「あの薬草はどこで見つけたんだい?」
村人たちが口々に感謝を述べる。
村長は涙を流し、子どもたちは私たちのまわりを駆け回って笑っていた。
◇
その夜、これまでの緊張感がまだ体に残っているのか、疲れているのに目が冴えて落ち着かなかった。
リナも同じだったようで、森の静けさを求めて散歩に出た。
すると、いつものように光の妖精たちが姿を表した。
舞い降りる光は、森の空気にぽつりぽつりと溶け込み、ゆったりと漂っている。
その穏やかなきらめきを見つめているうちに、張りつめていた心がゆるみ、まぶたが重くなっていった。
「妖精さんたち、今日は少ないね」
リナが眠そうに目をこすりながら呟く。
「うん。前に比べると少ないね。半月だからかな?」
私は返事をしながらも、頭の中はもう空っぽだった。
疲れが思考を押し流し、ただ月明かりと光のゆらめきに身を委ねることしかできなかった。
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